これまで何度も取り上げている名著『外科の夜明け』であるが,その中に初めて腎臓摘出術を実行した医者についての一章がある。これ自体,非常に優れた勇気と決断と冒険の書であり,一つの術式が生みだされた現場を伝える感動的な物語であるが,隠された主題は「その場しのぎの治療から根本的治療へ」のコペルニクス的転換である。この物語をたどる事で,実に多くのことを学ぶ事ができるはずだ。
なお,これを書いている時点で『外科の夜明け』は手元にないため,不正確な部分があるかと思われるが,それはご容赦いただきたい。
患者は粗暴な婦人科手術のために,尿管−膣瘻になってしまった女性だ。当然,一日中膣から尿が漏れている。衣服は常の尿で汚れていて全身は尿にまみれ,常に悪臭が漂い,社会生活どころの話ではない。もちろん,家族と一緒に暮らそうと思ってもこの状態では無理である。
そんな哀れな女性が治療を希望してある外科医のもとを訪れる。診察してみた医師は,膣の一部と一方の尿管が通じて瘻孔になっていると診断する。幸い,膣の瘻孔開口部は小さい。これなら縫えば閉じられそうだ。
外科医は瘻孔開口部を縫合する。最初の数日は経過良好だったが,すぐに傷が破れ,尿が吹きだしてきた。彼は縫合がうまくなかったから縫合不全になり尿が漏れたと考え,再手術した。しかし結果は同じで,数日を経ずしてまた元の状態に戻った。
彼は患者を術後すぐに歩かせたために腹圧がかかり縫合部が破れたと推論し,今度はさらに太い糸で何重にも縫合し,術後はベッド上安静2週間とした。
今度はうまくいったかに見えたが,2週間後に歩行させた瞬間,また尿が漏れてきたのだった。
彼は縫合糸の太さや結紮方法の問題ではない事を知り,今度は切り離した尿道と膣の間に筋肉をはさみ込む皮弁形成術を利用して瘻孔を閉鎖し,術後のベッド上安静も2ヶ月にした。患者は治りたい一心で医者の命令に従い,2ヶ月間,ベッドの上でおとなしく寝ていたのだった。今度はうまくいきそうだった。瘻孔閉鎖部は今度は大丈夫そうだった。
しかし,2ヶ月の安静が終わって彼女が立ちあがった時,また尿は膣から漏れてきた。手術は今度も失敗だった。外科医の不屈の闘志も,患者の頑張りもこれが限界のように思われた。
さて,このような症例の治療法,あなたならどうする? どうすれば,この患者を救えるだろうか?
さすがの外科医も今度ばかりは考えた。
手術が失敗した原因は,取りあえず瘻孔を塞ごうとした事にある。尿が漏れ出ているのに瘻孔が塞がるわけがないのではないか,と考えるようになった。もしかしたら,瘻孔が閉じないのは尿が常に漏れ出ているからだ。尿が出てこないようにして,その間に瘻孔を塞げば何とかなりそうだ。
だが,尿が出なければ患者は尿毒症で死んでしまう。
そして,この不屈の外科医に神が降臨する。
腎臓は二つある。膣に通じているのは一本の尿管であり,漏れ出ている尿を作っているのは一方の腎臓だ。この腎臓を摘出してしまったら問題の尿管から尿は出なくなり,膣開口部からの尿漏れもなくなるのではないだろうか。そうすれば,自然に瘻孔は閉鎖するのではないだろうか。
唯一の問題は,いくら腎臓が二つあるといっても,一つの腎臓を取りだして人間が生きていけるかどうかである。もしかしたら人間は,二つの腎臓が必要なのではないだろうか。一つを摘出したら,もう一つの腎臓はオーバーワークになり,腎不全をきたすのではないだろうか。
答えを求めようと論文を探しても,そういう試みをした医者は誰もいないし,論文もあるわけがない。答えは自分で見つけるしかない。
そこで彼は,犬を使って腎臓摘出術の実験を繰り返す。一方の腎臓を取りだしても,それで腎不全や尿毒症になる犬はいなかった。また,摘出後の犬を解剖してみると,残された腎臓は肥大し,より多くの尿を処理できるように頑張っているように見えた。
そして同時に彼はこの動物実験から,背部からアプローチするとほとんど出血なしに腎臓に到達できる事,腎臓周囲を用手的に剥離すると腹膜を傷つけずに腎臓を摘出できる事,腎門部の血管さえ処理できればそれほど出血しない事を見出す。
彼は患者に全てを説明し,患者もその世界初の手術に同意する。
そして運命の日が訪れる。尿管膣瘻の治療のために一方の腎臓が摘出されたのだ。
術後,様々な合併症が患者をみまう。高熱が続き,膿が溜まり,敗血症のような症状が連続する。その度に医者は激しく後悔する。犬が腎臓を摘出しても大丈夫だからといって,犬と人間は違っていたのではないか。人間にはやはり2つの腎臓が必要なのではないか・・・。
ありとあらゆる合併症が彼女を襲ったが,幸いな事に尿毒症を思わせる症状だけはなかった。尿の所見だけは正常だった。残った一つの腎臓は懸命に働いていた。
熱が下がり,体力が戻ってきた彼女はベッドから立ちあがる。今度は尿は漏れてこなかった。恐る恐る歩いてみたが,大丈夫だった。長い距離を歩いてももう膣から尿が漏れる事はなかった。衣服が尿にまみれる事は二度となかった。彼女はほどなく退院し,家庭に戻る事ができた。
医師はこの症例を学会報告し,経過を詳細に発表した。多くの追試が行われ,腎臓摘出術は安全な手術として認められるようになった。
この物語りは何を教えてくれるのだろうか。
要するに,腎臓摘出までの外科医のした手術は,「瘻孔さえ塞がったら患者は社会生活に戻れる」という発想だったと思う。確かに患者を救うために瘻孔を閉鎖しようとしたことは正しい選択のように思える。だが,それが間違っていたのは何度瘻孔閉鎖手術を行っても失敗に終わった事で明らかだ。
瘻孔を塞ぐ糸を太いものにし,閉鎖する方法を工夫したとしても,それは本質的な解決に至らなかった。要するにこれらの工夫は瑣末な問題であり,根本的解決ではなかったのだ。
おそらく一般的な発想としては,「瘻孔があるから尿が漏れてくる」→「瘻孔を閉じれば尿が漏れなくなる」だろう。だから瘻孔閉鎖術の工夫をする。
しかし発想を変えると,「尿が漏れているから瘻孔が維持される(閉じない)」→「尿が止まれば瘻孔は自然に閉じるだろう」という問題解決法が浮かび上がるはずだ。両者の違いは,何を「原因」とし,何を「結果」とするかだ。
つまり前者では「瘻孔(=原因)」があるから「尿漏れ(=結果)」になったと考え,後者では「尿が流れている(=原因)」から「瘻孔(=結果)が閉じない」と考えているのだ。要するに「原因」と「結果」が逆転しているのだ。
前者の発想を元にした手術がことごとく失敗したのは,「原因」に手をつけずに「結果」だけ何とかしようとしたところにあるのだ。
この外科医のすごいところは,これを看破したところにある。もちろん,その目的のために腎臓摘出術の術式を考案したのも桁はずれの天才ぶりであるが,「原因」と「結果」を逆転させた発想は,その時代の外科の常識を根本から覆すものだったのではないだろうか。
この逆転の発想があれば,腎臓摘出術は当然の帰結に過ぎないのである。
「陥入爪の肉芽はどうしたら消えますか?」とか,「気切部に肉芽が出てきて困ります。どうしたらいいでしょうか?」とか,「移植した皮膚に感染を起こし,蜂窩織炎を起こした。どういう軟膏を使ったらいいのか?」という質問をよく受ける。もちろんこれらは,「原因は放置して結果だけ何とかできないか」という質問である。
その意味で,上記の19世紀の外科医のレベルにも到達していない質問なのである。
(2003/11/07)