今からたった150年前まで「手術に痛みは付き物」「傷は化膿することで治る(=化膿は正常な治癒過程)」というのが,医学の常識だった。世界中の全ての医者,全ての研究者がそれを当たり前と考えていた。これらは「人は何時かは死んでしまう」というのと同じくらい当たり前のこととして考えられていた。
当時の外科学で最大の問題は外傷の治療であり,相次ぐ戦争でのけが人,街中での交通外傷患者(馬車に轢かれて受傷)はそこらに溢れていた。その多くが敗血症(当時はそういう概念すらなかったが・・・)で死んでいったが,唯一,命を助ける方法は怪我をした四肢を切断する事だった。なるべく傷から遠い場所で四肢を切断できれば患者は死なずに済むのである。
問題は,四肢の切断を麻酔なしに行なわなければいけない事だ。意識のある患者の四肢を切断するのは大事(おおごと)である。皮膚を切っただけでも痛いのに,筋肉を切断し,神経を切り,骨を離断するのである。しかも止血の手段としては焼きごてを出血部位に当てる方法が一般的だった。そのため,多くの患者は大暴れするか,苦痛のために失神するか,ショック死した。患者を縛り付けるためのさまざまな道具が工夫されたのも,こういう理由があったからだ。
患者の苦痛を少なくする唯一の方法はなるべく手早く切断する事であり,そのため,外科医は早く四肢を切断する方法を工夫した。また,敗血症で死ぬ確率も,切断にかかる時間が長くなるほど高くなっていた。当時は,早く四肢を切断できることが熟達した外科医の証であり,この頃の医者達は平均3分で下肢を切断していたという。当時の外科医達は四肢の切断を手早く行う道具をさまざま考案したが,その一つがペアン(当時の外科界の大御所)が開発した「血管を挟んで止血する」例のぺアンである。
患者の苦痛をなるべく和らげようとして,強い酒を飲ませたり,葉巻を肛門に差し込んだりする方法も行なわれたが,もちろんそれで患者の苦痛が軽減されることはなかった。
また「傷の化膿」についても,ウィルヒョー(当時,世界最高の病理学の大家)が「傷は化膿することで治癒する」と説明している以上,化膿しなければ傷が治らないことになり,「正常に化膿した」後の治療法について,さまざまな工夫がされていた。「化膿しない傷の治癒」は医学常識から外れた戯言(たわごと)に過ぎなかった。
こんな時代だったから,外科手術(治療)を受ける事は,拷問を受けた後に死神に身を委ねるのとさほど変わらなかった。患者の多くは手術の苦痛に絶えられずに死ぬか,手術の苦痛を恐れて自殺するか,運良くその苦痛に絶えられて生き残っても,敗血症で死ぬか,いずれかだった。外科手術を受けて生き残るのは,少数の幸運な患者だけだった。
病院は膿の臭いで充満し,外科医は素手で手術し,血液や膿は上着の裾で拭き取りながら(このため,汚れが目立たないように,当時の外科医は黒い服を着ていた),手術を行なっていたのである。「膿の臭いのない外科病棟」は存在しなかったし,それがわずか150年前までの常識的だったのである。
そんな1840年代,一人の歯科医が「手術の痛みを取る方法」に挑戦する。ウェルズである。彼は当時,上流階級の間で流行っていた「笑気パーティー(笑気を吸ってラリって楽しむ集まり)」に出席し,笑気を吸った青年が会場で怪我をしているのに全く痛がらないことに気付く。笑気ガスにより苦痛が取り除ける事を発見した瞬間だった。
彼は自分でも笑気ガスを試し,そののち患者に応用して経験を重ねるうちに,完全に痛みの無い抜歯が可能であることを見出した。当時,新しい治療を世に知らしめるためには,公開実験を行うのが常道だった。彼は早々に公開実験に踏みきり,麻酔しての抜歯を始める。
しかし,神は彼に微笑まなかった。抜歯を行った瞬間,患者が暴れだしたのだ。世間は彼をペテン師呼ばわりし,嘲笑した。彼に2度目の公開実験のチャンスは与えられなかった。
その中で,彼の弟子モートンは師匠の方法が間違っていない事をわかっていた。師匠はたまたま失敗しただけだ。師は失敗したが,自分ならうまくやれるはずだ。彼は師匠の笑気発生器の形をちょっと変え,笑気でなくジエチルエーテルを用いて周到な準備の下に公開実験を行う。気まぐれな神はなぜか今度は弟子に笑いかけ,「無痛手術」は見事に成功する。彼は望み通り,「人類を手術の苦痛から救った医師」としてもてはやされた。
その後,ウェルズとモートンの間で「どちらが真の麻酔法の発見者か」についての訴訟合戦が続き,絶望したウェルズは自殺し(モートンに抗議するように,笑気を吸いながら自分の大腿動脈を切断した),残ったモートンもその後,悲惨な死を迎える。
ちなみにこの「手術を無痛にする方法」が発表された後も,大家と呼ばれていた外科医はその導入に否定的だった。「手術の苦痛が無くなると,患者の悲鳴にもひるがずにメスを振るう『青銅のように強靭な精神』が外科医から失われてしまう」というのがその理由だった。
しかし,当然のことながら患者は「痛みのない手術」をしてくれる外科医を選択し,麻酔を導入しない外科医は淘汰されていった。
一方,「傷は化膿して治る」という常識への挑戦も,同じく1840年代に始まる。その最初は産婦人科医,ゼンメルワイスだった。当時,出産には産褥熱がつきもので,多くの場合,それは避けられないものと考えられていた。
しかし彼は,医者が行なった出産介助で高率に産褥熱が起こっているのに,助産婦が介助した場合にははるかに少ない事に着目する。医者と助産婦で何かが違っているはずだ,とゼンメルワイスは考えた。さまざまな可能性について考え,最後に行き着いたのは「医者の手」だった。
医者は病人や産婦を見るだけでなく,病理解剖も行うが,助産婦が解剖を行なう事は無い。
当時,手術や処置の前に手を洗う習慣は無く,素手で解剖を行なった後,手についた膿を布でぬぐって,出産にたち合う事もしばしばだった。ゼンメルワイスは,解剖の時に何かが医者の手に付き,それが産婦の体内に入り込み,産褥熱を起こすと考えた。これが最も合理的に,助産婦と医者の間での産褥熱の発生率の差を説明できる。
彼は直ちに「出産に立ち合う前には,必ず手を洗うように」と医局員に命じる。それにより,産褥熱の発生は劇的に下がり,多くの産婦が救われた。
しかし,医学会は彼のこの簡単な提案とそれによる産褥熱の発生率の圧倒的な低下のデータを,徹底的に拒否した。「手を洗うなんて煩わしい」「手を洗うなんて,教科書に書かれていない」「手を洗うなんて誰もしていない」という理由で・・・。結局彼は,病院から追放され,紆余曲折の果てに失意のうちに発狂し,人生を終える。
この「正常の治癒過程としての化膿」「膿が出るのは治っていく証拠」という常識に反旗を翻し最終的な勝利を納めたのが,1860年代にイギリスの片田舎で開業していた外科医,リスターだった。
彼は「フェノール(その頃,コールタール精製の副産物として発見された)をドブ川に流すと,臭いが消えた」という新聞記事に着目する。当時の常識としては「膿の臭いは病院に付き物」だったが,あるいはその膿の臭いに閉口していたのかもしれない。彼はある日,骨が見えている傷(常識的には敗血症必発!)をフェノールに浸した布で覆ってみた。
翌日,布を除去したりスターは膿の臭いがない事に気付く。膿も出ていなければ発赤も無い。全身状態も良好で敗血症の徴候は微塵も見えない。おまけに骨折した骨の面には見た事も無い赤い組織(肉芽)が上がり始めているではないか。
彼はおっかなびっくり,フェノールによる創面を続け,やがてその患者の創面は全て肉芽で覆われ,創が自然に治っていく様子を見る事になる。
このような症例を重ねる事により,彼は「化膿しなくても傷が治り,むしろ化膿しないほうが速く治る」事を確信する。彼の病院からは膿の臭いは一掃され,代わりにフェノール(石炭酸)のちょっと刺激的のある化学的な臭いが漂い始めた。
彼はこの大発見を学会で報告する・・・が,しかし,完全に無視される。何しろ,ヨーロッパで最も優れた病理学者の学説を,片田舎の無名の開業医が否定しているのである。ここはやはり,大学者を支持し,田舎医者を無視するのが常識ある態度というものである。
イギリスで無視され続けたリスターは国外に赴き,この治療法についての講演会を何度か開いた。アメリカなどでは熱狂的に迎えられたが,従来からの方法とあまりに違いすぎているために正しく実践できた人は少数であり,また,不完全な方法で行なったために化膿させたりしたため,従来の方法に戻る医者が多いなど,その普及は一進一退だった。リスターの元に次第に熱心な理解者が集まってきたが,そういう医者はまだまだ少数派だった。
なぜ,リスターの方法(そして,ゼンメルワイスの方法)で劇的な治療効果が得られるのに,それが普及しなかったのだろうか。それは,「なぜ,これらの方法で傷が化膿しないのか」がリスターに証明できなかったからだ。「何か」が傷に入って化膿させることは類推できたが,それが何なのか,彼にはわからなかった。
治療法を普及させるためには,万人が納得できる理由を提示する必要があった。
それを解明したのがコッホだった。彼は化膿している創に細菌がいること,その細菌を化膿していない組織に移植することで化膿が起こる事を証明する。文句のつけようの無い厳密な実験であり,完璧な証明だった。彼は初めて「化膿」という現象を,誰もが納得できる形で説明することに成功した。
この時,なぜゼンメルワイスが手を洗っただけで産褥熱を激減させたか,リスターの方法で化膿せずにきれいに治癒するのかが明らかになった。この瞬間,リスターの勝利が決まった。彼は化膿と敗血症から人類を開放した天才医師として賞賛を欲しいままにした。
このように,1850年前後で外科を取り巻く状況は一変した。患者は苦痛なしに手術を受けられるようになり,同時に,外科医も感染症を心配せずに手術ができるようになった。12世紀から19世紀までの数百年間,全く進歩の無かった(進歩のしようが無かった)外科学が突如,近代外科,そして現代外科に変貌した。春を経ずに冬から一挙に夏が訪れたように,外科学は長い低迷を脱し,一挙に花開いた。それを可能にしたのは「麻酔と消毒」の発明だった。
この『外科の夜明け』は,麻酔発明前夜の外科手術がどれほど苦痛を伴うものだったか,消毒法開発前夜の手術がどれほど恐ろしい死亡率だったかを描き,この二つの発見が人類に計り知れない福音だったことを,あたかもその場に立ち会っているかのようなリアルタイムの生々しさで描き尽くしている。
しかも,それだけではない。尿道−膣瘻の治療のために腎臓摘出を決断する外科医の苦悶と患者の苦痛,「心臓に手が触れると鼓動が停止する」という医学常識に挑戦して心臓の外傷を縫合をした外科医の勇気と決断,最初の胃癌手術が成功するまでの挑戦など,最上級の冒険小説にも比肩する感動の物語がぎっしりと詰まっている。
患者を救うための決断とは言っても,それらはすべて,医学常識を真っ向から否定するものである。恐らく彼らの心境は,海図もなしに航海に乗り出すようなものだったのではないだろうか。
この本は,全ての外科医にとって必読の書である。いや,全ての医療関係者に読んで欲しいと思う。ここで取り上げられている先駆者達の凄絶な苦労があって,現代の医学が成り立っているのだ。
私たちがごく普通に行なっている医療行為がどういう経緯で行なわれるようになったのか,医療器具がどのように開発されたかを知る事は,大きな意味があると思うし,それを知ることで新たな感動で日々の診療に向かえるはずだ。
そして同時に,「これは医学の常識」と考えた時に,見えているものも見えなくなり,新たな工夫を「常識はずれ」の名の元に葬り去ってきた事がわかる。こういう時に治療は「患者のための治療」でなく「治療のための治療」になり,患者を苦しめる事になると,この本は教えてくれる。
この本は最初,講談社文庫で出版され,それが絶版になってからは小学館から「地球人ライブラリー」の一冊としてハードカバーで出版された。しかし残念な事に,小学館版は「全身麻酔と消毒法」だけに内容が制限され,分量的に講談社版の1/3程度に削られている。もちろん,「麻酔と消毒」はこの本の中心を成すテーマであるが,それ以外のところにも興味深い感動の物語が詰まっているのである。
2007年4月に本書は新しい翻訳で,『外科医の世紀 近代医学のあけぼの』(翻訳:小川道雄,へるす出版,\3,780)として再出版されている。
(2003/04/14)