リスターはなぜ,消毒で創感染率を下げられたのか?


 次のような質問を受けた。

 「外傷の消毒は不要」「消毒しても感染予防にはならない」と言うが,19世紀の半ば,手術創を消毒する事で感染率を劇的に下げたと言う事実と矛盾するのではないか?

 もっともな疑問だと思う。この「消毒による術後敗血症の克服」の経緯については,かの名著『外科の夜明け』に詳しく書かれていて,私も何度も取り上げている。産婦人科医のゼンメルワイスが分娩の前に消毒薬で手を洗っただけで産褥熱が劇的に減少し,リスターが手術創や外傷の創を消毒薬の石炭酸で処置し,術後の敗血症による死亡が劇的に下がったのは紛れもない事実である。確かにこれだけ見ると,私の主張と矛盾しているように見える。

 『外科の夜明け』を素直に読めば,「傷を消毒する事で感染率が下がった」となるはずだ。だが,事実はそれほど単純ではない。


 消毒薬として石炭酸は決して強力なものではなく,むしろ非力な消毒薬剤に過ぎない。だから現在,石炭酸は消毒薬業界の表舞台から姿を消している(現時点で石炭酸は,「陥入爪治療のフェノール法」で使われるくらいだろう。この場合の石炭酸は,消毒薬としてではなく,爪母を破壊する「組織破壊薬」として使われている)
 また,リスターの時代から,石炭酸で死なない細菌が多数いることは実験的にも証明されていて,より強力な消毒薬が開発されたのも,歴史的事実である。要するに,リスターの時代から石炭酸は殺菌力の弱い消毒薬として知られていたのである。

 となると,たいして殺菌力のない石炭酸なのに,なぜ創感染率を下げる事ができたのか,と言う疑問が生じないだろうか。殺菌力の弱い消毒薬が劇的に創感染が低下させたという方がおかしくないだろうか。


 実は,感染率が下がったのは「石炭酸の殺菌効果」によるものではないのである。創感染率を下げたのは「石炭酸の殺菌力」ではなく,石炭酸で「洗った」ことによるのである。つまり,「傷を洗った」事が重要であり,洗うものは石炭酸でも水道水でも生理食塩水でもよかったのである。

 これと同じ勘違いは「強酸性水による褥瘡洗浄の有効性」とか「カテキン水による褥瘡洗浄は効果的」と言う形で,今日でも健在である。いずれも「洗った」事が重要なのに,なぜか,強酸性水とかカテキンとか,「洗ったもの」にばかり興味が集中するのである。


 なぜこのような勘違いが生まれるかと言うと,医療関係者は基本的に薬とか薬効成分に弱いからである。薬効成分が明記されていると,それを盲目的に信じてしまうからである。
 つまり,なにか治療上の効果が得られたら,それは薬の成分が含まれていたからと考えてしまうのだ。逆の言い方をすると,薬効成分を含まないものに治療効果があるはずない,と考えてしまうのだ。

 だから,「石炭酸で洗ったから」効果があった,「強酸性水で洗ったから」効果があった,「消毒したから」治った,と考えてしまい,「石炭酸で洗った」から効果があるのであり,「普通の水で洗う」のは効果がないと考えてしまう。つまり「何で」洗ったらいいのか,ということしか考えなくなるのだ。


 これが「消毒による感染率の劇的低下」の真相ではないかと思っている。

(2003/10/30)

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