『秘密諜報員ベートーヴェン』★★★(古山和男,新潮新書)


 本書に書いてある推理が正しいかどうかは問題にしないし,仮に間違っていたとしても本書の価値を貶めるものではないと思う。そしてこれは何より,私好みの本だ。私はこういう本が大好きだ。

 何が素晴らしいかというと,全てを疑ってかかり,あらゆる予断を排して論理的思考を積み重ねようとする著者の姿である。何しろ彼は,これまでのベートーヴェン研究,研究者の間の共通認識である「不滅の恋人は女性に当てられて書いた手紙(恋文)である」という大前提そのものを疑うのだ。こういう発想はなかなか出てこないと思うし,仮に思いついたとしてもそこから論を展開していくのは非常に大変だ。ベートーヴェンの「不滅の恋人」に関する先人のあらゆる研究や分析が利用できないからだ。なぜなら,それらは「不滅の恋人は女性宛に書かれた恋文」ということを前提にしているからだ。このあたりは「天動説時代の天文学の教科書」が地動説の時代には参考にならないのと同じだ。要するにこの著者は,参考にすべきものが(恐らく)全くない状態から一歩一歩,前に進むしかなかったなかったはずだ。


 もちろん,このような「過去の常識を根本否定する」書物のほとんどはトンデモ本である。根拠のない思い込みと恣意的な選択された情報を元に書かれるため,非論理的な内容になってしまうからだ。

 しかし本書は違う。著者はベートーヴェンがこの「手紙」を書いた1812年7月から8月の彼と彼を取り巻く人々の行動を公式記録から時系列に分析し,「手紙」の文面に書き連ねられている文字情報を虚心坦懐に読み解いていくことで,驚くべき真相を明らかにしていく。その思考過程は極めて論理的で明晰だ。

 私もクラシック音楽好きの端くれだから,これまで幾つか,「不滅の恋人は誰か?」を推理した本を読んでいるが,本書ほど論理の積み重ねで私を納得させてくれたものは他にはなかった。要するに,理系人間が書いたベートーヴェン研究書といえる。


 ベートーヴェンに興味を持っていろいろ調べていくと,必ず「不滅の恋人へ」という言葉で始まる手紙にぶつかる。1812年7月に書かれた3通の手紙であり,熱烈な愛の言葉が連ねられた手紙であるが宛先は不明,ベートーヴェンの死後に彼の遺品として発見され,死後13年を経過した1840年に公開された。
 問題はその手紙が誰に宛てて書かれたのかである。手紙の文面から,それは人目を忍ぶ相手のように考えられ,それから,恐らく相手は人妻だろうと考えられ,当時のベートーヴェンの周囲にいた女性が片っ端から調べられている。ベートーヴェンの恋の相手として今までに10人以上の女性が候補に上げられていることは,音楽ファンなら誰でも知っていると思う。しかしいまだに,ベートーヴェンの恋人として万人を納得させる女性はまだ見つかっていない。

 この手紙については「誰に書かれたのか」以外にも,謎が幾つもあるが,本書の著者は次のような「謎」に着目している。

  1. 「手紙」の発見者シントラー(ベートーヴェンの弟子であり秘書)はなぜ,死後13年間これを公開しなかったのか。
  2. 他人に出したはずの手紙が,なぜ差出人の部屋にあったのか
  3. なぜ,隠し場所から見つかったのか。
  4. なぜ,株券と一緒に隠されていたのか。
  5. なぜ,ベートーヴェン自身の署名がないのか(筆跡鑑定から彼自身が書いたことは確認されている)

 以下に日本語訳された「不滅の恋人への手紙」全文を引用するが,何やら逼迫した精神状態で書かれた文章らしい,何やら愛の言葉らしきものが連ねられた文章らしいことはわかるが,じゃあ一体,どういう事が書いてあるのかといわれると,ほとんどの人が途方に暮れると思うがどうだろうか。


七月六日、朝――

私の天使、私のすべて、私自身よ。――きょうはほんの一筆だけ、しかも鉛筆で(あなたの鉛筆で)――明日までは、私の居場所ははっきり決まらないのです。こんなことで、なんという時間の無駄づかい――やむをえないこととはいえ、この深い悲しみはなぜなのでしょう――私たちの愛は、犠牲によってしか、すべてを求めないことでしか、成り立たないのでしょうか。あなたが完全に私のものでなく、私が完全にあなたのものでないことを、あなたは変えられるのですか――ああ神よ、美しい自然を眺め、あなたの気持ちをしずめてください、どうしようもないことはともかくとして――愛とは、すべてを当然のこととして要求するものです。だから、私にはあなたが、あなたには私がそうなるのです。でもあなたは、私が私のためとあなたのために生きなければならないことを、とかくお忘れです。もし私たちが完全に結ばれていれば、あなたも私もこうした苦しみをそれほど感じなくてすんだでしょう。――私の旅はひどいものでした。きのうの朝四時にやっと当地に着きました。馬が足りなかったので、駅馬車はいつもとちがうルートをとったのですが、まあなんともひどい道でした。終点の一つ手前の宿駅で夜の通行はやめた方がよいと言われ、森を恐れるように忠告してくれたのですが、それはむしろ私をふるい立たせただけでした ――でも私がまちがっていました。もし私がやとったような二人の馭者がいなかったら、底なしにぬかるんだ、むき出しの田舎道のために、きっと馬車がこわれて、私は道の途中で立ち往生してしまっていたでしょう――エステルハージ(侯爵)は、別の通常ルートをとり、馬八頭で同じ運命にあった由、私の方は四頭立てだったのに。――とはいえ、幸運にも何かをのりこえたときいつも味わうような、ちょっとした満足を覚えました。――さて、外面的なことから本質的なことにもどりましょう。私たちはまもなく会えるのです。きょうもまた、この二、三日、自分の生活について考えたことをあなたにお伝えできない――私たちの心がいつも互いに緊密であれば、そんなことはどうでもいいのですが。胸がいっぱいです。あなたに話すことがありすぎて――ああ――ことばなど何の役にも立たないと思うときがあります――元気を出して――私の忠実な唯一の宝、私のすべてでいてください、あなたにとって私がそうであるように。そのほかのこと、私たちがどうあらねばならないか、またどうなるかは、神々が教えてくれるでしょう。――あなたの忠実な

七月六日、月曜日、夕方――

あなたは、ひどく苦しんでおられる、最愛の人よ――たったいま、手紙は早朝に出さねばならないことを知ったところです。月曜と――木曜、この日だけ、ここからKへ郵便馬車が出るのです――あなたはひどく苦しんでいる――ああ、私がいるところにはあなたもいっしょにいる、私は自分とあなたとに話しています。いっしょに暮らすことができたら、どんな生活!!!!!そう!!!!!あなたなしには――あちこちで人々の好意に悩まされる――私が思った、好意はそれに価するだけ受けたいものです――人間に対する人間の卑屈さ――それが私を苦しめます――そして自分を宇宙との関わりで考えれば、私の存在などなんでしょう。また人が偉大な人物とよぶものがなんだというのでしょう――しかしそれでも――そこにはやはり人間の神性があり――私からの最初の消息を、あなたが土曜日でなければ受け取れないと思うと、泣きたくなります――あなたがどんなに私を愛していようと――でも私はそれ以上にあなたを愛している――私からけっして逃げないで――おやすみ――私も湯治客らしく寝に行かねばなりません――ああ神よ――こんなにも親密で!こんなにも遠い!私たちの愛こそは、天の殿堂そのものではないだろうか――そしてまた、天の砦のように堅固ではないだろうか。――

七月七日、おはよう――

ベッドの中からすでにあなたへの思いがつのる、わが不滅の恋人よ、運命が私たちの願いをかなえてくれるのを待ちながら、心は喜びにみたされたり、また悲しみに沈んだりしています――完全にあなたといっしょか、あるいはまったくそうでないか、いずれかでしか私は生きられない。そうです、私は遠くへあちこちとしばらく遍歴しようと決心しました。あなたの腕に身を投げ、あなたのもとで完全に故郷にいる思いを味わい、そしてあなたに寄り添われて私の魂を霊の王国へと送ることができるまで――そう、悲しいけれどそうしなければならないのです――あなたには、あなたに対する私の忠実さがお分かりだから、いっそう冷静になされるはずです。他の女性が私の心を占めることなどけっしてありません。けっして――けっして――おお神よ、これほど愛しているのに、なぜ離れていなければならないのでしょう。それにしてもV(ウィーン)での私のいまの生活は、なんとみじめなことか――あなたの愛が、私を誰よりも幸福にすると同時に誰よりも不幸にしているのです――この年になると、波瀾のない安定した生活が必要です――私たちの関係でそれが可能でしょうか?――天使よ、いま郵便が毎日出ることを知りました――この手紙をあなたが早く受け取れるように、封をしなければなりません――心をしずめてください、いっしょに暮らすという私たちの目的は、私たちの現状をよく考えることによってしかとげられないのです――心をしずめてください――愛してほしい―― きょうも――きのうも――どんなにあなたへの憧れに涙したことか――あなたを――あなたを――私のいのち――私のすべて――お元気で――おお――私を愛し続けてください――あなたの恋人の忠実な心を、けっして誤解しないで。

永遠にあなたの
永遠に私の
永遠に私たちの


 まず何より,文面がメチャクチャだ。一方的に激しい思いを書き連ねているだけで,まともな精神状態で書いた文章とは思えない。要するに,恋人にあてた恋文としてはかなり異常である。また,前後の脈略なしにいきなり「エステルハージ」なる人物の名前が文面に出てくるのも唐突すぎて訳がわからない。そして,あまりに大袈裟すぎる表現が多く,読んでいる方が恥ずかしくなってこないだろうか。しかも,その大仰な字句の間になぜか,すごく冷静な文章が不規則に入り込んでいることに気がつくはずだ。
 おまけに,ベートーヴェンの文字はミミズが腸捻転を起こしたような殴り書きであり,これで愛する相手に自分の思いが伝わるのだろうかと,逆に心配になるほどだ。恋人に思いを伝えるなら,せめて文字は丁寧に書けと助言したくなる(ちなみに,ベートーヴェンの悪筆は有名である)
 要するにこの「不滅の恋人」を「分別ある41歳の男が恋人に当てた手紙」として読むと,腑に落ちないことばかりなのだ。いくら200年前のこととはいえ,恋人からこんな訳の分からない手紙を届いたら,恋人はついにおかしくなった,まともじゃない,と思うはずだ。少なくとも私はこの文章を読まされたらそう思うし,途中で投げ出してしまうと思う。

 そういう「腑に落ちない事」を放っておいて恋人探しをしても意味が無いのではないか,と本書の著者は考えたわけである。そして何より,「不滅の恋人」という言葉にしても,「愛されるもの」という受け身表現であり,「私が愛する人」ではなく「多くの人から愛される」というニュアンスらしいのだ。そして本書の著者は「そもそもこれは恋文である」という1840年以来の常識を捨て去ることを決め,そもそもこの「手紙」には何が書かれているのかを読み直すことにしたのだ。


 そして本書では,「手紙」が書かれた1812年に何が起きたのか,ベートーヴェンが「手紙」を書いたテプリッツという保養地で何が起きていたのかを丹念に掘り起こしていく。そして,この「手紙」が伝えたかったことは愛の言葉ではなく,エステルハージなる人物の動向であり,その情報を隠すために意味のない甘い愛の言葉を書き連ねてカモフラージュしたという結論に到達する。要するにこの「手紙」は,ある人物に事態が切迫していることを伝えるため,ベートーヴェンは音楽家という立場を最大限に利用してテプリッツに入って情報収集にあたり,それを彼に伝えるために恋文を装った秘密通信文を書いたのだ。ベートーヴェンがそうまでして守ろうとしたのは「自由」である。

 その「自由」を作り上げたのはナポレオンだった。そして,彼が作り上げた「大陸制度」という政治・経済システムがその「自由」を確固としたものとし,同時にこの「大陸制度」がベートーヴェンの後援者たちの財政基板となっていたのだ。つまり,新たな産業を起こし,新しい発想で事業を興していった新興勢力がベートーヴェンの活動を支えていたのだ。一方で,守旧派の領主や貴族たちは「大陸制度」に経済的に追いつめられていく。もしも仮にナポレオンがロシアを屈服させた場合(ちなみに,当時の誰もがロシアはナポレオンの大軍の前に戦わずに降参すると考えていたらしい),「大陸制度」は完成し,守旧派領主は完全に息の根が止められてしまう。だからこそ,両者は激しい情報戦を繰り広げ,その舞台になったのがテプリッツだったのだ。なぜ山中の保養地が情報戦の舞台になったかは本書を読めば納得できる。


 しかし,この秘密通信文を書いた数カ月後,ベートーヴェンとその後援者を取り巻く状況は一変する。ナポレオンがロシア戦で大敗北したのだ。その結果,守旧派領主や貴族が息を吹き返し,ナポレオン戦争終結後のウィーン会議で君主制度が復活し,オーストリア帝国ではメッテルニヒが抑圧的・強圧的な恐怖政治を敷くことになる。そしてベートーヴェンは不穏分子として厳重な監視下におかれ,後援者が経済的に没落すると同時に経済的にも困窮し,その日の食べ物にも困るようになる。ベートーヴェンが交響曲第8番(1814年初演)から第9交響曲(1824年初演)まで10年間,大規模な曲を作曲できなかった背景には,このような事情もあったらしい。

 そして本書を読むと,保守反動の総本山であるウィーンで,「人間の自由と尊厳」を高らかに歌い上げる第9交響曲がなぜ初演できたのか,なぜこの曲が聴衆の拍手喝采を浴びたのかがよくわかる。この交響曲は,古い音楽の破壊神にして新しい音楽の創造主ベートーヴェンが,貧困と迫害の中で反骨精神を奮い立たせ,人間の精神は不屈であり自由への希求の炎を消すことはできないと高らかに宣言した音楽なのである。これはまさに,不撓不屈の革命戦士ベートーヴェンの一世一代のアジテーションだったのだ。それは1824年だから可能だったのだ。
 だからこそ,200年前に作られたこの曲は21世紀においても聴く人の心を鼓舞し揺さぶり感動させる。自由とは人類が手にした至高の権利であり,それは200年前も現在も変わりないからだ。


 本書の,従来からの定説を一切否定し,事実を元にした科学的思考で新たな可能性を探る姿勢は,科学の王道といえる。そのため,従来からのベートーヴェン研究者からすれば異端の説であり,容認できない考えではないかと思う。だからこそ私は科学者の端くれとして本書の姿勢を支持する

(2010/06/17)

秘密諜報員ベートーヴェン

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