- 「<不滅の恋人>への手紙」はベートーヴェンの死後遺品から発見され、1840年になって公開される。
- 従来の諸説を根本から見直し、すべての予断を排し、論理的に考え直すために、別の角度から仮説を用いた。
- 芸術家や学者、教育者や宗教家が、自らの信念のために、身の危険を冒して政治や軍事に関わる「諜報」や「連絡」に従事した例はヨーロッパ中世の吟遊詩人から、学会出席で「鉄のカーテン」を行き来した共産圏の科学者、俳匠として諸国を旅した伊賀の松尾芭蕉まで、枚挙に暇がない。
【第一章】<不滅の恋人>への手紙とは
- 3通の「手紙」が「銀行株券」、「女性のミニチュア肖像が2点」とともに発見される。シントラーが13年後に発表。シントラーは「ベートーヴェン伝」を出版した最後の弟子だが、事実と異なる誇張した表現が多く、作意が感じられるという点で、研究者の間では評判がよくない。
- 第1の謎:なぜ13年後にシントラーは公表したのか。
- 第2の謎:他人に出した手紙がなぜ、差出人の部屋の隠し場所にあったのか。
- 第3の謎:なぜ株券などと一緒?
- 第4の謎:<不滅の恋人>という仰々しい表現。「愛されるもの」という意味で受け身表現。「私の恋人」ではなく「多くの人から愛される」というニュアンスがある。
- 鉛筆で書かれていて、文面は切迫。文章の流れや文脈も支離滅裂。筆跡は第三信は殴り書き。いくら悪筆といっても、こんな汚い手紙を恋人に送るとは考えにくい。41歳の男が書いたにしては、余りに恥ずかしい言い回しが多い。
- 第一信に「エステルハージ」と具体的人物名が唐突に出現。地名を略しているのにここだけなぜ?
- 書いた人間の正式署名なし。
- 現在までに10人以上の「恋人候補」がいて、数人に絞り込まれているが、彼女たちの状態を考えると「恋人」と特定するのは無理。
- この「手紙」の「謎の核心」は「何を伝えているか」であり、それが判れば「誰に宛てたものか」は自然に炙り出されてくるはず。
- 「手紙」を読んで感じる最大の違和感は、相手の女性にとってはどうでもよいと思われることが、余りにたくさん書かれていること。熱く恋を語っているかに見える文面の多くは、具体的に何を語っているのかよくわからず、情報としては完全に無内容。「早く伝えなければならない」と焦っている切迫感とは明らかに矛盾。
- これは第一信のエステルハージの動向を伝える部分が、実は情報として突出して価値があることに気がつく。つまり、意味のない部分は「手紙」を「恋文」に見せるための細工であり、エステルハージの情報に愛の言葉を紛れ込ませただけ?
- 当時のオーストリア帝国では手紙を一晩留め置き、秘密警察がすべて検閲していた。手紙を証拠に逮捕されることもあった。検閲官は翌朝馬車が出発するまでにすべての手紙に目を通さなければならない。そこに、鉛筆書きで読みにくい癖字で甘い言葉の羅列が10ページもあったら、全部を真面目に読む気力も萎えてしまい、適当に読みとばすだろう。後世の研究者たちが、いまでもこれを「恋文」だと信じて疑わないくらいだから、当時の秘密警察だってそうだろう。仮に疑われたとしても、「鉛筆書き」なので、誰かが手直ししたと主張することも可能。
- 当時のオーストリア当局は、ボヘミアの旅行者すべてを把握し、実に克明な記録を残している。それで、関係者の足取りは正確に追える。
- 手紙はフランツ・ブレンターノに送られたもの。
【第二章 ナポレオンの大陸制度】
- 1812年5月29日、皇帝ナポレオンはボヘミアの北に隣接するザクセン王国の首都ドレスデンで、全ヨーロッパの王侯領主が見送る出陣式を執り行い、全ヨーロッパから徴兵下60万人の大群を率いて華々しくロシア遠征に出発。兵力の差からもロシアは戦う前に降伏すると誰もが考えていた。ベートーヴェンたちもそうだった。ロシア遠征に出陣した時点では、彼のヨーロッパにおける覇権がまもなく確立され、旧体制が完全に崩壊するとみられていた。
- トラファルガー開戦でナポレオンは艦隊を失う。そこで、イギリスに対し経済戦争を布告。これが「大陸封鎖令」。イギリスの国力の厳選である国際公益に打撃を与えるために、ヨーロッパ大陸の市場からイギリスを閉め出して経済的に干し上げ、同時にイギリスによらなくてもいいように大陸の産業を振興しようと考えた。経済システムが大陸で完結するように計画されたこのブロック経済体制が「大陸制度」。
- しかし、イギリス同様、大陸でも大混乱が起きた。
- 後進国ロシアは先進工業国イギリスとの貿易がなければ経済がたちゆかない。北の果てにあってナポレオンの軍事力が及んでいないこともあり、ロシアの領主たちは勅令を無視。1812年1月、ロシア皇帝は「大陸制度離脱」を宣言。ナポレオンはロシアに大軍を送り込むことになった。その徴兵動員が全ヨーロッパに及んだのは、新たに統治することになった国や地域の軍隊を、自軍に編入することで旧領主から引き離す狙いがあった。
- 大陸では農業・鉱工業の各分野で急速な興業や増産・開発が行われた。この振興政策による投資や支援を受けた産業は短期間に驚異的な発展を遂げた。
- ヨーゼフ主義(啓蒙・富国強兵政策)による産業開発の洗礼を受けていたボヘミアも、豊富で良質な好物と無煙炭を活用して、新しい鉱工業地帯となった。
- ザクセン、シレジア、ボヘミアは「大陸制度」存立の最重要産業地域となった。
- テプリッツ(ベートーヴェンが「手紙」を書いた場所)は北ボヘミアの鉱工業が盛んな地域の山中にある保養所。活気に満ち、各国の人と物資が行き来する新しい産業地域にあった。
- ウィーンが「大陸制度」に組み込まれたのは1809年。ナポレオン占領下で誕生した新政権は、大陸制度の完成に邁進。親ナポレオン政権を支えたのは、新興産業に関わって台頭してきた人々、つまり「大陸制度」によって恩恵を受ける改革は貴族たちだった。ベートーヴェンの友人や後援者の多くはこの改革派だった。
- 輸出入に頼っていた産業は苦難に直面。ハンブルクをはじめとするハンザ諸都市は1811年に「商社の大量死」に見舞われる。
- 農業は大打撃を受け、イギリスという売り先を失って作物は過剰となり、価格は暴落。その結果、土地と領民を支配してきた封建的領主の農業経営は破綻し、多くの世襲領地が売りに出された。
- オーストリアでは通貨が切り下げられ、領地を担保に金融業者から借金していた領主たちは農産物の売り上げで返済できなくなり、破産者が続出。このとき、荒稼ぎをしていたユダヤ人金融業者のロスチャイルドなどは、ただ同然で多くの農地を領主たちから手に入れた。
- ベートーヴェンの後援者のロプコヴィッツ(ボヘミアの実業家)が「大陸制度」成金の代表なら、エステルハージは没落の代表。専属オーケストラを持ち、ハイドンを楽長に雇っていたハンガリー名門貴族エステルハージは、中世的な荘園経営で既得権益を守り、前近代的な製鉄を領地で行わせ、ひたすら地場産業保護を求めるような旧体質では、時代の変化に対応できなかった。
- 農産物と木材の輸出で収入を得ていたロシアの領主たちは、ロシア皇帝に迫って「大陸制度離脱」を宣言させた。
- 貿易港の封鎖と農業の壊滅で失業者があふれていたため、ナポレオンが諸侯に割り当てたロシアの遠征軍兵士を集めるのは容易だった。職のない若者や農民たちが、十分な訓練も装備もないまま、にわか兵士としてロシアに送られた。
- メッテルニヒも「大陸制度」で崖っぷちだった。ナポレオン占領により領地を失った亡命貴族だった。領地すらないメッテルニヒがウィーン宮廷で要職にいられたのは、その卓抜した外交手腕を期待する皇帝フランツの後ろ盾と、ハンガリーの領主である妻の実家の支援によるもの。
- ボヘミア・シレジアで大規模開発を行うには大規模な資本が必要。その資金提供にはフランクフルトの金融業者が貢献。
- 「大陸制度」では自由な民間交易は禁じられていたが、フランス軍が例外的に認めるものは輸入が許され、フランクフルトは独占的に輸入する特権を与えられていた。1810年以降、フランクフルト、ストラスブール、ライプツィヒなどの自由都市は密貿易で空前の活況を呈していた。ロスチャイルドも密輸で財をなした。
【ベートーヴェンとブレンターノ家の人々】
- 「大陸制度」の推進に深く関与していた自由経済都市フランクフルト。その銀行団の代表者として積極的にナポレオンに協力したのがフランス・ブレンターノ。
- フランツはオーストリアとプロイセンに事業展開を考えていた。1809年、ウィーンに支店を開設。
- 1809年、ウィーンの宮廷はフランスに完全支配された。
- 妻のアントーニエの父親は、ベートーヴェンにとって人生の師ともいえる自由主義者。
- オーストリアは以前の政治秩序が転覆し、政治的に混乱の極みにあった。さらに「大陸制度」という経済システムの大転換が加わる。
- 「改革派」の自由主義者たちが政府を支配していたが、封建領主である宮廷「守旧派」も抵抗をあきらめていなかった。その一つが「秘密警察」による情報線と非合法活動でありテロ同然の誘拐、暗殺までしていた。メッテルニヒの指示により外交官だけでなくオーストリア貴族まで通信(手紙)が傍受されていた。秘密警察にとって、フランツのもとに届く情報は「価値ある情報」であり、フランツ側も情報管理に最大の注意を払ったはず。
- ベートーヴェンは心地よい音楽を書くことに腐心した作曲家ではなく、社会を変革するという信念を抱き、それを社会的使命だと考えていた。いわば革命家の精神を持ち、作曲でテロをやってのけるような過激派男だった。
- 「大陸制度」でベートーヴェンの弟たちも恩恵に与っていた。下の弟は薬屋をフランス軍に薬を納める仕事を得て事業を拡大。これには相当に有力な人脈や後ろ盾が必要。上の弟は1806年に金融業を始める。恐らくこれもフランツ傘下だったのかも。
【第四章 1812年7月,テプリッツ】
- ナポレオンは自分の不在中もヨーロッパの要所にフランス防衛軍「ギャルド」などの軍団を駐留させ,守旧派の動きを牽制。
- ナポレオンが特に重要と考え,強力な残留部隊を置いて警戒させたのはドレスデンからボヘミアにかけての地域。プロイセンとオーストリアの間にあるこの地域を押さえれば,どちらにも睨みがきかせられる。
- 1812年5月29日、ナポレオンはドレスデン出発。それを見送ったオーストリア皇帝は5月31日にプラハに重臣たちを召集。メッテルニヒも諜報連絡員を集結させる。ベートーヴェンは7月1日にプラハ入り。フランツ・ブレンターノは7月3日プラハ到着。
- ナポレオン出陣の壮行会の後、ドレスデンには軍隊を取り上げられた全ヨーロッパの王侯領主が残され、山中にある保養地テプリッツに滞在(幽閉)。外部との接触や連絡はフランス軍が厳しく管理。
- テプリッツは建前としては内部は自由な行動が許される中立地帯。諸侯の従者などのほか、芸術家や学者・文化人が招聘された。そのほとんどが諜報連絡要員だった。ベートーヴェンは病気治療やピアノ演奏を理由にテプリッツに自由に出入りできた。7月1日、プラハに到着したベートーヴェンはキンスキーから金貨を受け取っている。
- エステルハージはカールスパートに行くと当局に届けておきながら、テプリッツに向かったらしい。夜陰に紛れてテプリッツに入り込もうと計画。この「不測の事態」を知ったベートーヴェンはこれを追い、エステルハージの行動に関する情報を集めようとしたらしい。伝える相手はフランツ。商人のフランツはテプリッツにいっても入れないがベートーヴェンは入れる。メッテルニヒがエステルハージをテプリッツに送ったのは、ナポレオンのロシア遠征に関して、守旧派諸侯に要請したことがあったからだろう。ベートーヴェンの「手紙」が伝えているのは、エステルハージがテプリッツの関門の強行突破に失敗したこと。
- 「エリーゼのために」のEliseは人名ではなく「エリジウム(自由の女神の住む天界)」ではないのか。
- 「不滅の恋人」とは「自由の女神」ではないか。
【第六章 大崩壊】
- ロシアに入ったナポレオンの「大陸軍」はさしたる抵抗も受けず、ロシア軍に決定的打撃も与えることもないままずるずると進軍。ここで、ナポレオン軍の問題(各国部隊の連係不全、指揮系統の混乱、兵站の不備、練度と志気の低さ)が露呈。食料や馬の飼料を調達するのも困難で、略奪や強盗が横行し、落伍者も続出。しかし、ナポレオンは勝利を得るまでモスクワに向かうしかなかった。
- それでもロシアの各都市は次々に占領され、ナポレオン軍は連戦連勝で進軍しているように見え、ドレスデンやウィーンにはそのように伝えられた。
- 9月14日、ナポレオンはモスクワ入城。15日夜、ロシア側のゲリラ活動が始まり、モスクワ大火災。19日にロシア部隊の掃討作戦のためにモスクワから出発。
- フランツは情報を分析。ロシアは降伏もしなければ挑発もしてこない。直接対決を避けている。悪い兆候だ。フランツはこれ以上テプリッツでの諜報活動は不要として移動。ベートーヴェンも8月8日にテプリッツからカールスバートに移動。
- ナポレオンはロシア軍を力で叩きのめすしかなくなった。大規模な壮行会を開き、テプリッツに諸侯を隔離して情報管理する戦略は失敗した。
- フランツは交通の要衝、郵便馬車網の中継点、フレンツェンスバートに移動。
- フランツ等にとってはロシア全土を「大陸制度」に取り込まない限り意味はない。戦線を拡大し、都市を占領しても目的は達成できない。
- ナポレオン等のロシア遠征への見通しで欠けていたのは、イギリスの経済力に対する認識。
- 「封鎖」によってイギリスでもっとも打撃を受けたのは、競争力の高い先端技術の工業製品産業。それが一挙に海外市場を失った。1810年から翌年にかけて、イギリスを恐慌が襲う。金融経済も混乱。大陸でもスイスの金融業者も莫大な損害を蒙る。大陸の経済は実体も経済もイギリスと連動していた。さらに、大陸内の生産力増進のため、供給過剰による物資の価格暴落が発生。
- ナポレオンのロシア遠征は、イギリス産業界の息を吹き返させる景気になった。ロシアへの軍需物資輸出だけでなく、大陸側への工業製品、資源や素材の供給が増えた。ナポレオンは大戦争を起こすことで結果的にイギリスを救済した。イギリス産業界にとって、ロシアの早期降伏だけはなんとしても阻止すべきこととなった。
- 9月7日、ナポレオンは一応勝利したが、戦果の割に損害は甚大。フランツはこの時点でロシア遠征に見切りをつけていた。
- 11月8日、ナポレオン軍退却が巷間に広まる。これは「大陸制度」破綻を意味する。ウィーンの改革派貴族からなる経済界に衝撃が走る。ナポレオン関連銘柄の株価は暴落、金融業者は苦境に陥る。ベートーヴェンの弟のカール(金融業)も破綻。ブレンターノ一家はウィーン支店を閉鎖し、フランクフルトに撤退。フランツは早期に情報を分析し、事業の危機を乗り切り、情報力で経済都市フランクフルトそのものも救った。その後も彼はフランクフルトの有力者であり続けた。
- ベートーヴェンの後援者だった改革派の実業家は一挙に没落、彼はウィーンにおける活動と生活の基盤をすべて失う。1812年夏以降、ベートーヴェンから女性に当てた「恋文」は書かれなくなる。
- 「大陸制度」破綻で暴落していた農産物の値段も反騰し、農地の値段も戻った。しかし、多くの領主はすでに領地を安値で売るか、領地を担保に借金した。土地を担保に融資していたロスチャイルドが暴利を得た。
- ロシア遠征失敗以後、諸国はナポレオン体制から離脱。1813年、プロイセンなどがフランスに宣戦布告。9月9日、テプリッツにおいてロシア、プロイセン、オーストリアの三国同盟締結。10月には「テプリッツ同盟」にイギリスも加盟。16日からの「ライプツィヒの戦い」で同盟軍はナポレオンに勝利。1814年、反ナポレオン同盟はフランスに攻め込みフランス国内を転戦。ナポレオンはエルバ島に流される。
- 「大陸制度」崩壊後もブレンターノは破産も没落もせず、フランクフルトで有力な地位を維持。守旧派にとっても、依然としてフランクフルトの財力が頼りであり、金融力を必要としたから。
- その後歴史は、プロイセンを盟主とする「拡大ライン同盟(フランクフルトはライン同盟の首都)」による「ドイツ統一」に向かう。フリーメーソンも啓蒙主義的近代化路線をとったプロイセンに期待し、肩入れ。ベートーヴェンの「第九」がフリーメーソンであるプロイセン王に捧げられたのはこのような背景がある。
【第七章 <不滅の恋人>の去ったヨーロッパ】
- ナポレオン戦争後の「ウィーン会議」で君主性が復活。オーストリア帝国では反動的で抑圧的なメッテルニヒが恐怖政治をしく。
- メッテルニヒ政権はベートーヴェンをウィーンに引き留めて監視。当局の許可なしに旅行もできなくなった。イギリスの市民団体がベートーヴェンを消退したが、出国ビザが発給されなかった。
- 警察の監視があり、密告者が至るところにいるウィーンでも、筆談するしかないベートーヴェンにはかえって有利だった。会話が「聞かれなかった」から。
- 「交響曲第8番」から10年の空白を経て「第9」が書かれる。反動体制に逆戻りしたウィーンでベートーヴェンは迫害され、自由を奪われ、苦難を強いられた。そんな恐怖政治を跳ね返し、人間の尊厳を守るため、ベートーヴェンは不屈の反骨精神を発揮させた。それが「第9」だ。
- フリーメーソン、かつての友人や後援者にとって、反動の都ウィーンに集い、官憲の検閲をかわし、メッテルニヒの妨害を跳ね返して披露された1824年の「第9」の初演に熱狂し喝采したのは、そこに「革命的」なメッセージが込められていたため。その3年後にベートーヴェンは世を去る。
【第八章 結論】
- 第1の謎。シントラーは「手紙」をなぜ死後13年封印したか。フランツなど関係者の高齢化が進み、これ以上遅らせることができなかった。ウィーン反動体制も制度疲労してきて、弾圧が弱まってきた。
- 第2の謎。「なぜシントラーは、ベートーヴェンの部屋から手紙が見つかったと言ったか」。ベートーヴェンがフランツから「手紙」を返してもらい、シントラーにその由来を説明していたかも。フランツが、上手に公表するようにシントラーに依頼したかも。
- 「真実を語っていない」と研究者には不評の伝記を書いたシントラーだが、本当のことが言えなかった時代に巧妙にこれだけのことを後世に伝えたとすれば、なかなかの役者であり、信念の男であったと言える。