本書の著者の前作,『ペンギンもクジラも秒速2メートルで泳ぐ』(光文社新書,2007)は数年前に読んでいる。水中を泳ぐ鳥類や哺乳類に各種センサーを組み込んだデータロガーを取り付けて,野生状態で彼らがどのように行動しているかについて書かれた本だ。そこでは水生動物が生物種や体のサイズにかかわらず時速1〜2キロで泳いでいるという,とても面白い内容の本だったが(何しろ類書が一つもないから,どのページを開いても新しい知識に出会える!),その時はレビューを書かなかった。確かにデータそのものは面白かったし,そのデータを得るための研究方法は素晴らしと感動したが,「なぜ同じ値になるのか?」という問題の本質部分がペンディング扱いになっていたからだ。科学論文ならこれでいいが,一般向けの読み物としては中途半端だなと思った。
そして4年ぶりに書かれたのが本書である。前回ペンディングだった「なぜ同じ値なのか?」という疑問に見事に答えていて,さらに「巨大翼竜は本当に飛べたのか?」という進化史上の大問題にも極めて論理的な回答を導き出している。これなら一般向けの新書としては十分すぎるほどの内容だ。
本書のタイトルである「巨大翼竜」は本書の最終章に登場するだけで,その前の5つの章は鳥類の飛翔を研究する難しさと,そこから得られるデータが浮き彫りにする「飛翔する動物」の戦略の見事さが浮かび上がってくる。ミズナギドリもアホウドリもカワウも,生きていくのに必死なんだな,飛ぶために必死なんだなということがよくわかる。そういう膨大な基礎知識を得て最終章を読むと,プテラノドンなどの翼竜が空を飛ぶということがどれだけ大変なのかが自然に納得できるし,従来の翼竜の研究の欠点がどこにあったのかもよく理解できるのだ。
そして同時に,過去の文献やデータを無批判に受け入れることの怖さも浮き彫りにされるし,実測値と推測値はまるで違うこともよくわかるはずだ。その意味で,実に素晴らしい科学書となっている。
例えば,自然界でペンギンが時速何キロで泳いでいるかはどうやって調べたらいいだろうか。動物園で調べればいいではないか,と素人は考えるが,実はこれは間違い。自然界のペンギンは餌を取るために泳ぐが,動物園のペンギンは自前で餌を取る必要がないからだ。まして,卵が孵化したら子供も育てなければいけない。だからのんびり泳いでいる訳にはいかない。しかし,全速力で潜ってしまっては魚のいる場所に到達できても魚を捕らえるエネルギーは残っていないし,巣に戻ることもできないはずだ。
そこで本書の筆者らはデータロガーという装置を開発する。直径22ミリ,長さ120ミリの耐圧ケースに各種センサーと記録メモリ,コントロール用ICチップとバッテリーを内蔵したものだ。しかし,電波は海水中を通らないため,電波をとばしてデータを得るという方法は使えず,データを収めた記録メモリを回収する必要があるわけだ。問題はどうやってそれを回収するかだ。何しろ相手はどこに行くのかもわからない野生動物である。このように考えてみると,基本的に二次元しか移動しない陸上動物と,三次元世界を自由に移動する鳥類や水生動物では観測の難易度がまるで違うことがわかる。そして筆者らは,次々と新しい事実を明らかにしていき,「定説の嘘」を暴いていくのだ。
そして第六章「巨大翼竜は飛び続けられない」である。もちろん結論は章タイトルにあるとおりだ。だが,ここまで読んできた読者にとっては,飛べるにしても飛べないにしても著者がどのように論証していくのかが興味の中心となるはずだ。
まず,鳥の羽ばたきには2種類あることを筆者は発見する。飛び立つ際の羽ばたきと,滑空時に風が弱まった際の羽ばたきだ。前者がトップギア,後者はローギアに相当する。そして,多くの鳥のデータロガーから得られたデータから,鳥の体重が増加するこの二つの羽ばたきの周波数が小さくなり,同時に両者は近い値に収斂する。これが飛翔性動物の体重の限界値となり,これより重い動物は飛び立てないし,飛翔を続けることも不可能となる。
同時に,翼開長と体重の関係にも相関関係があり,体重の限界値から翼開長の最大値も決まる。すると困ったことに,巨大翼竜(プテラノドン,ケツァルコアトルス)や古代の巨大鳥(アルゲンタビス)の推定翼開長がこの上限値を越えてしまうのだ。
アルゲンタビスについて古生物学者はさまざまな仮説を積み重ねて議論をしているが,本書の筆者は「そもそもアルゲンタビスの体型や翼開長を見積もる手段そのものが怪しくないか?」と突っ込むのだ。詳しくは本書を読んでほしいが,体のごく一部の骨化石しか見つかっていないアルゲンタビスについて仮定と仮説を重ねて類推値を出していたことがよくわかるのだ。これは「そもそもアルゲンタビスのサイズはどうやって誰が決めたのか?」という疑問を持たなければ気がつかない問題だろうし,もしかしたら古代生物の専門家たちは「アルゲンタビスの体サイズは正確な値でわかっている」ことを前提にしていただけではないか,という気がしてならないのだ。
さらに,ケツァルコアトルス(翼開長10メートル,体重70キロ),プテラノドン(翼開長7メートル,体重17キロ)に関しては以前から,翼開長の割に体重が軽すぎないか,という疑問が出されているらしい。
例えばケツァルコアトルスは私の両腕に5メートルの翼がついているようなものに思える。しかし,翼はある程度の強度がないとダメなことに気がつく。でないと,翼は安物傘のように強風にあおられたら折れてしまう。その強度をリン酸カルシウムで保とうとすると翼の重量が決まり,そうなると翼以外の部分はかなり軽くならざるを得ず,そうなると・・・と考えていくと,どうやっても飛べっこないのだ(このあたりの見事な論証は是非とも本書を読んで欲しい)。
要するに,現実の鳥類の研究者は「飛ぶ」という行為がどれほど大変かを知っているが,古生物学者は翼さえあれば簡単に飛べると思ってしまう。このあたりの溝はなかなか埋まらないようだ。
同様に,「研究者は得てして自分の対象動物に深い思い入れを抱きがちだ。そのため,自分の対象動物には,他の動物にはない特別の能力が備わっていると主張をしたがる」という指摘は強烈だ。研究者にとって研究対象は自分の分身みたいなものだから,他の動物と一緒にされて論じられることに我慢がならない。だから,巨大翼竜が鳥類より遙かに進化した飛翔能力を持っていて,流体力学の限界を超えて軽々と飛んでいたと考えてしまう。愛する翼竜を飛ばすためなら,流体力学も生物の体の基本構造も無視してしまうのだ。
ちなみに,この「自分の専門分野だけは特別扱い」というのは医者の世界でもよく見ることだ。「消毒しても無菌操作しても術後創感染は防げない」と説明しても,「それは外科や産婦人のことでしょう。脳外科(心臓外科,人工関節移植・・・)は特別に扱うべきです」と文句を言ってくる脳外科医(心臓外科医,整形外科医)が必ずいるからだ。
では,巨大翼竜は本当に飛べなかったのか。飛べないのに翼を持っていたのか。この点について本書は「現在の地球では飛べない」と明確に説明している。要するに,推定される翼の揚力で推定される体重を浮かび上がらせるためには,大気の気体密度が上昇するか,重力定数が低下すればいい。前者については,先日紹介した『大気の進化46億年』と併せて読むと面白いし,後者については「ジュラ紀にあれほど巨大な陸上生物が生存できたのはなぜか?」という視点から支持する人もいるらしい。
(2011/12/19)