『謎の解剖学者 ヴェサリウス』


 『外科の夜明け』は面白い,とこれまで何度も書いてきたが,同様に私にとっての座右の書が『謎の解剖学者 ヴェサリウス』(坂井建雄,ちくまプリマーブックス132)。これも非常に面白い。医療関係者にオススメの一冊。
 ヴェサリウスは16世紀の解剖学者だ。下の図の右側が彼の不朽の名著である解剖学書『ファブリカ』に掲載されている筋肉の図である。筋肉の走行,位置,筋肉の重なり方など極めて正確・精緻に書かれている。美しささえ漂う見事な図だ。医療関係者なら必ずどこかで見たことがある,有名な図でもある。

ケタム(15世紀) ヴェサリウス(16世紀)

 「解剖図なんて見たままに書けばいいんだから,何でそれがすごいの?」と思われるかもしれないが,上の15世紀に書かれたケタム著の『医学叢書』の解剖図を見て欲しい。これが解剖図に見えるだろうか。何だこりゃ,いたずら書きか,って思わないだろうか。
 でも15世紀ではこれが普通の解剖図であり,当時の医者はこの図で人体の構造を勉強していたのである。


 ケタムもヴェサリウスも同じ人体を見たはずだ。それなのに二人の解剖図はあまりに違っている。今日の目からすると,ケタムのそれはいたずら書きだが,ヴェサリウスは今日でも通用する正確さである。それなのに,両者はわずか100年しか違っていないのだ(外科学が19世紀半ばまで,800年以上にわたってほとんど進歩しなかったことを想起して欲しい)

 この変化は,冬から春を飛び越していきなり真夏になるようなものだ。バイエルを弾いていた人がいきなりラフマニノフを演奏するようなものだ。九九を習ったばかりの小学生が,いきなり微積分をするようなものだ。
 これはやはりただ事ではないだろう。


 実は人間は,見たままに現実を認識できない。自分の知識や社会の常識に合わせるようにして,そういうフィルタを通して現実を認識している。まさにケタムの解剖図は15世紀の「人体の見方」を背景に,それに合致するように書かれている。

 それではなぜ,ヴェサリウスは現実の人体を正しく認識できたのだろうか。
 理由はただ一つ,自分で解剖をしたから・・・


 当時の解剖学教授は自分で解剖する事はしなかった。高い椅子に座り,ガレノス(古代ローマ時代の有名な医者)の解剖学書の記述を読み上げながら,弟子に解剖させるのが習わしだった。要するに,ガレノスの教科書の内容を確かめるための解剖なのである。
 もしも,ガレノスの記述にないものが解剖中に見つかったらどうするか。その時は「なかったこと,見なかったこと」にするのである。ガレノスの記述に間違いを見つけたらどうするか。この時は,目の前の人体の方が間違っているから,と考えるのである。

 要するに,正しい知識は大昔に見つけられているから,自分達はそれを確かめ,正しい知識に近づくようにしよう,という姿勢である。
 このような姿勢は決して珍しいものではない。例えば,江戸時代の教養人の証(あかし)とは「史書五経」などの中国の古典が読める事だった。つまり,大昔の中国の聖人達が到達した最高の真理を学ぶために勉強することが学問であり,学問とは漢字が読め,漢文が読めるようになる事だった。  同じような考え方は,現在の社会でも時々目にする事があるはずだ。


 そのような解剖学の教授達と違い,ヴェサリウスは自分でメスを執って解剖を行った。もちろん,ガレノスの教科書は絶対的権威である。何度も何度もそれを読み返し,他の文献にあたり,彼はガレノスを生涯尊敬していた。しかしその上で,実際に自分が見たものを直視し,体系化したのだ。自分の目で見て考える,ということを実践しただけのことなのだ。

 彼がこのような考え方ができたのは,彼の生きた時代と無縁ではない。ヴェサリウスが生まれた1514年は,ダ・ビンチの最晩年にあたる。そのちょっと前にエラスムスが『痴愚神礼賛』を発表し,1517年にはルターの宗教改革が始まる。ヴェサリウスが名著『ファブリカ』を出版した同じ年に,コペルニクスが地動説を発表している。ヴェサリウスが亡くなった年に生まれたのがガリレオ・ガリレイだ。
 まさに「自分の目で見て,自分の頭で考える」時代が到来したのだ。それが100年前のケタムとの違いを生み出したのだろう。そのような時代を背景に,ヴェサリウスは古代ローマ以来の現実に役に立たない机上の解剖学を,一挙に実際の医療に使えるものに引き上げたのだ。

 正確な医学は正確な解剖の知識なくしては行えない。その意味で,ヴェサリウスは今日の医学の源流の一つと言えるだろう。

 この本ではヴェサリウスの生涯を丹念に追いながら,同時に,あまり取り上げられる事のない,16世紀から17世紀にかけて行われていた治療法(例:瀉血法など)についても詳しく言及されていて,それだけでも読む価値があると思う。


 それにしても,時代は防腐剤すらなかった16世紀である。防腐できない以上,解剖している遺体はどんどん腐っていったはずだ。まさに当時の医者にとって解剖とは時間との戦いである。
 腐敗が刻々と進んでいく人体を前に,権威とされる教科書に頼らず,複雑に入り組んだ人体組織を自分の目を頼りに正確に記録していく姿は鬼気迫るものを感じると同時に,深い畏敬の念を感じざるを得ない。

 そんな解剖室の様子を思いながら,この『ファブリカ』の1枚を見て見て欲しい。そしてその美しさに感動して欲しい。

 なお,本書は現在絶版で,再販される可能性もほとんどないため,手元にある本を解体してPDFファイルを作成している。お読みになりたい方は,メールでご連絡下さい

(2003/01/28)

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