手術前にはイソジンなどの消毒薬で手洗いし,滅菌水で流すのが医学界の常識。手術の前には,こうやって5分以上両手を洗うことになっている。
ごく一部の先進的な病院では「水道水での手洗い」を行っていると聞いているが,圧倒的多数の病院ではもちろん,滅菌水での手洗いをしていると思う。なぜ,滅菌水で手を洗うかと問われれば,「手術中の感染を防ぐため」,あるいは「手を無菌にするため」という答えが返ってくるはずだ
いかにももっともらしい答えであるが,しかし,この問題をちょっと深く考えてみると,滅菌水だろうと水道水だろうと,感染率に差が出ないはずだ。要するにこの「滅菌水で手洗い」は単なる慣習に過ぎないのではないか,と考えている。そして,この行為に医学的根拠,論理的根拠はないと思っている。
以下,それを論証する。
手術の時に手袋をするようになるのは,20世紀の初頭だったはずだ。手術の際,ゴム手袋をつけた最初の医者は,乳癌根治術であるハルステッド手術を提案した若き天才外科医,ハルステッドである。彼がどのような経緯から手袋をつけることを思いついたかに関する人間ドラマは,名著『外科の夜明け』(トールワルド著)に詳しいが,要するに当時,どんな消毒薬を使っても手を無菌化できないことが明らかになったからだ。
19世紀後半,細菌の存在がわかり,それが病気の原因になったり傷が化膿する原因であることがわかってきた。そして人間の皮膚(もちろん手にも)には皮膚常在菌が沢山生息していることもわかっていた。
当時手術をする際,外科医は素手で行っていたため,手術創の感染を防ぐためには,外科医の手を無菌化する必要があることは明らかだった。そのため,どんどん強力な消毒薬が開発されたが,皮膚がボロボロになるくらい強い消毒薬を使っても,結局,皮膚は無菌化できなかった。無菌にできたとしてもそれはごく短時間に過ぎなかった。
感染を起こさないためには手を無菌化しなければいけないのに,手を無菌化することは不可能,という事実を前に,外科医たちは途方に暮れてしまった。
この時,手を無菌化するのでなく,無菌化した手袋をつけて手術すればいいではないか,と気がついたのがハルステッドだった。要するにコロンブスの卵だが,手は無菌化できないが,手袋は簡単に無菌化できることに気づいたハルステッドは,やはり天才といっていいだろう。
この逆転の発想により,手術時の感染が激減し,腹腔内臓器や脳なども手術することが可能になり,すべての臓器への手術が可能になったことは,皆様,ご存知の通りである。
ここで重要なのは,「手はどういう手段を使っても無菌にはできない」ということだ。事実,手術前に5分以上かけて手洗いして滅菌手袋をつけても,数十分すると手袋の中の手の表面は手洗い前の常在菌一杯の状態に戻っている。これは厳然たる事実だ。
となると,消毒薬で手洗いをした手を滅菌水で流そうが水道水で流そうが,差はないはずである。たとえ水道水に細菌がいたとしても,それは通常ごく少数であるし,また,十分な量の水道流水で洗い流せば,事実上,ほとんど無菌と考えていいだろう。そして,たとえ全ての細菌を洗い流せずに滅菌手袋をつけたとしても,手袋の中の手が「手洗い前」の常在菌一杯状態に戻る時間に差が出るとは到底考えられない。それこそ,目糞鼻糞の違いである。
「水道水で手洗いして,それで感染が起こったらどうするのだ。責任を取れるのか」という声が聞こえてきそうだ。だが,「手術により感染したら大変だ」ということと「感染を防ぐための手洗いは滅菌水が有効だ」ということの間には,全く関連性がない。
このことについては項を改めて論じることにする。
なお,「手洗いの水は滅菌でなくてもいい」ことを証明した実験があることを教えていただきました。御興味をお持ちの方はこちらをご覧ください。
(2002/04/22)