パラダイムとしての消毒


 現在主流の外傷治療,術後創処置,ドレーンやカテーテルの管理はいわば,消毒を中心とした理論体系である。消毒により感染を起こす細菌を殺し,感染を防ぐという理論体系である。これは実際の医療現場でなされる医学教育で,繰り返し教育されているし,また,家庭でもものごころついた頃から繰り返し教えられている理論体系だ。当然,消毒薬を販売して利益を得ている会社はあるし,それを啓蒙することを仕事にしている人もいる。歯磨き粉にも消毒薬が入っていたり,テレビコマーシャルでは「手指は消毒,傷も消毒,喉も消毒」と繰り返し宣伝している。消毒を基本とした治療体系,消毒により生み出された利益共同体といってもいいかもしれない。その意味で,「消毒を基礎とした治療体系」はパラダイムそのものである。つまり,天動説や燃素説(フロギストン説),エーテル説と同じ,確固たるパラダイムである。


 この「消毒パラダイム」は非常に強固である。まず,19世紀半ばからの長い歴史がある。それまで誰も予防できなかった産褥熱が塩素水の手洗いで予防できたという実績はあるし,術後の敗血症も石炭酸で劇的に減らせた。これは紛れもない事実だ。また,家庭においても病院においても,傷を消毒して治療してきたし,それで治ってきたのである。消毒すると痛いが,それは「良薬口に苦し」,「治るのに必要な痛み」だと思えば我慢できる。これは普通の社会生活をする上では,天動説を信じていても何の不便も無いのと同じだ。地球が中心にいようと太陽が中心だろうと,日常生活は変わらないからだ。だから,慣れ親しんだ天動説を手放す必要もないし,地動説に宗旨替えする必然性も無い。なにより今更,地動説を勉強するなんて面倒だ。

 消毒って本当に必要なの,という疑いが頭をよぎったとしても,消毒しないで傷が化膿したらお前の責任だといわれたら,とりあえず消毒しておけば安全だ。また,過去の論文を探しても,消毒方法の優劣を比較した実験はあっても,消毒しないのとしたのを比較する論文はほとんどない。まさに,地球が宇宙の中心だということを前提としたパラダイムと同じで,消毒を中心からはずすという発想そのものが生まれないのだ。


 このように考えると,なんと言われようと消毒を止められない医者は消毒を続けるだろうし,理論的に説明されても感情的に反発してしまう医者がいてもしょうがないような気がしてくる。パラダイムへの信頼感は信仰そのものだから,消毒必要派が消毒不要派に鞍替えするのは,ユダヤ教徒がイスラム教に改宗するようなものであり,それは不可能なのだ。彼らは死ぬまで消毒薬を手放さないだろうし,消毒しないと人間は敗血症で死んでしまうと信じたまま墓場に向かうのだろう。

 だが結局は,消毒が止められない世代の医者が死に絶えるか引退し,初めから消毒しないのが当たり前だと教えられた医者たちが増えてくる。「消毒必須派」が死に絶えた後の世代は「消毒しても化膿は防げない。消毒しなくても化膿しない」ことを最初から知っているか教えられた世代である。彼らは「まな板の消毒と人体の消毒を一緒くたにしていたなんて,昔の医者って馬鹿だったんだね」と笑い話にしてくれるはずである。

 もっとも,宗教の改宗に比べると,「消毒しない感染予防」のほうははるかに容易だろう。「消毒ってもしかして不要なんじゃないか」と少しでも考えたことがある医者が少なからずいるからである。こういう人たちは,実に易々と宗旨替えするだろう。


 そう言えば,いろいろな病院で講演すると,「ガチガチの消毒派の先生がいるので,是非,講演会に出席して講師の先生を論破してみてくださいと声をかけているんですが,そういう医者に限って出席しないんですよ」と言われることが少なくない。文句があるなら面を向かって言えばいいのに,そういう度胸がないのだろう。こういうのを敵前逃亡という。情けない限りである。文句があるなら,堂々と反論すればいい。実に簡単なことである。

 いずれ,こういう敵前逃亡するしか芸の無い医者は死に絶えるはずだ。時間が彼らを淘汰するはずだ。

(2006/12/26)

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