全国各地で「消毒しない,ガーゼをあてない外傷治療」の布教(?)に飛びまわっているが,症例を出して説明していると必ず,「たかが10例程度ではないか。医学でものを言うなら100例なり200例なり,症例数がなければ何もいえないはずだ」と反論してくる医者が必ずいる。
一見,もっともらしい事を言っているように見えるが,実は本質的なところで全く意味がない反論である。
なぜ100例なのだろうか。なぜ200例なのだろうか。100と200ではかなり違うが,それって「五十歩百歩」程度の大雑把さではないだろうか
なぜ100と言う数字をもっともらしく持ち出すかと言うと,この社会が10進法で動いているからである。10進法で思考する事に慣れているから,つい100例と言っているだけの事である。数学的に見れば100だろうと134だろうと96だろうと,同程度の重みしかない数字であり,特別な数字ではない。
もしも100に特別な意味があるというのなら,もしもこの社会が2進法だったらどうするつもりだろうか。2進法なら「64例(注:10進法表記でね)とか128例(注:10進法表記でね)とか研究しないと,何も言えないはずだ」とでも言うのだろうか。8進法の世界だったらどうするのか。3進法だったらどうだ。
これでわかったと思う。100と言う数字には意味なんてないのである。たまたま10進法だから区切りになっているだけで,2進法の世界,16進法の世界では,10進法の100とか200なんて区切りでもなんでもないのである。
ここまで来れば,一番最初に書いた「医学は100例くらいは集めないと何も言えない」と,鬼の首でも取ったように言い張る医者は,単に因習の世界に生きているだけだということがわかる。科学者であれば「100例集めなければ」と言う前に,「そもそも100と言う数字は何だろうか」と自問すべきであろう。
なぜこういうタイプの医者はことさら,100例などの症例数にこだわるのだろうか。それは恐らく,統計処理のためだろう。統計処理が,医学で結論を得るための絶対的手段だと考えているからだ。
ここに「統計処理の呪縛」「統計処理原理主義」という落とし穴がある。数さえ多ければ正しさが証明できる,という考えだ。
三角形の面積は [(底辺×高さ)÷2] で求められるが,それは三角形100個で調べて正しいと判ったのか?
「フレミングの左手の法則」は電流を200回流して確かめたのか?
ケプラーの定理は100個の惑星で調べたから正しいのか?
リンゴの落下から万有引力の法則を発見したニュートンは,リンゴ以外の200種類の果実を落として調べたのか?
この問題については,次回(?)論じてみよう。
(2004/06/01)