明治だったか大正の頃の話だったと記憶しているが,村始まって以来の秀才が東京帝国大学理学部大学院に進学し,帰郷したところ,村の古老が「そんなに勉強して,まだ読めない字があるのか?」と訊ねたそうである。もちろん,この老人はふざけていったのではない。真面目にそう質問したのだ。
さて,この話を理解するためには,前提となる知識が必要である。平安時代から明治時代に至るまで,日本人にとって「学問」とは何だったか,と言う点である。
実は,日本人にとって「学問」とは「漢字を読めるようになること」だった。何のために漢字を覚えるかと言うと,漢文が読めるようになるためにである。何のために漢文を読むかと言うと,四書五経などの中国の古典を理解するのが目的である(ここで,「中国語を習得するため」でなく,漢文という「日本語に変換した漢字だらけの文章を読む」ことが目的であることに注目して欲しい。中国語を学ぶことが目的でなかったのである)。つまり,史書五経が読めるように漢字を学ぶ事がすなわち「学問」なのである。これが江戸時代までの常識であり,前述のように明治になっても一般庶民の間ではその考えが生きていたことがよくわかる。
なぜ,史書五経を読まなければいけないかというと,そこには中国の哲人,聖人達が到達した永遠の真理が書かれているからだ。だから,史書五経を読めるようになると自然に人生の真理,世界の真理を会得できると考えたのだ。だから,上述の村の古老は「20年も勉強して,まだ史書五経が読めないのか」と素朴な疑問を投げかけたわけである。
ここで漢字をアラビア語に,史書五経をコーランに置きかえると,「全ての真理はコーランに書かれてあるから,コーランを読めるようになるためにアラビア語を勉強するのが学問だ」という図式になるわけである。もちろんこれがイスラム原理主義である。
また,「真理が書かれている書」の名前を聖書にするとキリスト教原理主義になり,そして「真理の書いてある書」を「真理を知る個人」にしたものが,開祖を持つ宗教というわけだ。
さて,私が村の古老の話を持ち出したのは,われわれが「真理は昔の聖人が既に到達している」と考えがちだということを言いたかったからである。つまり,真理は既に誰かが見つけていて,自分達はそれを学ぶだけでいい,とする傾向を問題にしたいのである。
こういう傾向は科学のはしくれである医学でも無縁ではない。「いい教科書はありませんか?」,「エビデンスとなる論文を教えてください」,「○と△ではどちらが正しいですか?」という質問がそれである。どこかの誰かが既に正しい方法,真理を会得していて,それを学べばいいと考えているからこのような質問がでるのではないかと思っているが,どうだろうか。
だが,どんなに素晴らしい教科書でも10年経てば内容は書き換えが必要になるし,スタンダードな治療として全世界で行われていた治療でも,10年経てば古臭い方法になって見捨てられる。つまり医学に関する限り,「その時代のベストの教科書(方法)」はあっても「正しい事が書かれている教科書」は存在しないのである。どんなに素晴らしい教科書であっても,せいぜい,「その時代のスタンダード」とされる知識が書かれているだけである。
教科書(論文)は書かれた途端に古くなる,というのが唯一の永遠の真理である。
史書五経がいかに素晴らしい名著であろうとも,そこで書かれている「真理」は所詮,中国春秋時代(でしたっけ?)の常識の範囲内の「真理」である。もちろん,現代に通じる真理も書かれているが(何しろ,人間の「精神」はその頃からほとんど進歩していないからね),現代には通じない「真理」も書かれているはずである。
永遠の真理,絶対に正しい方法がどこかにあるはず,真理はどこかの誰かが知っているはず,それを教えてもらえれば問題が解決するはず・・・と考えるのは止めるべきだと思う。その考えが正しいかどうかの判断を他人に委ねるのは止めるべきだと思う。便利で重宝な「青い鳥」はどこにもいないのである。
でなければ,東京帝国大学理学部学生をつかまえて,「20年も学校に行っているのに,まだお前には読めない漢字があるのか」と言った古老と変わらないと思う。
(2003/12/22)