エビデンスと言われると困ってしまうが・・・


 よくいただく質問に下記のようなものがある。多くの方が同様の疑問を持っていると思われるので,これについての私の考えをまとめて書くことにする。

外科の術後創のケア(入浴,ドレーンやカテーテルの処置部の処置など)についてのガイドラインやクリティカルパスを探しているのですが何か良いものはありますか?
 このような質問だ。病棟で行なっている処置法を変えるのに障害となっている「古い方法に固執する医者」を説得するためにエビデンスが欲しいのだが,ということだった。
 もちろん,大昔からのやり方を無批判に行なっているよりは,確かな証拠に基づいて科学的に意味のある方法にするのは素晴らしいことである。「昔からこうしてきた。先輩がこうしていた」というのを唯一の根拠にしているよりは,はるかに科学的である。


 しかし,これをさらに一歩進めて考えるとどうだろうか。エビデンスを求める事は全面的に正しいのだろうか。


 エビデンスとは所詮,過去の研究であり過去の論文である・・・と思う。「エビデンスはありますか?」と尋ねるのは,「昔の人が研究していましたか? 昔の人が書いた論文がありますか?」というのと基本的に同じである(・・・と思っている)
 つまり,エビデンスがないというのは単に,論文が書かれていない,というだけのことではないのだろうか。


 例えば私は,「術後,風呂に入ったっていいじゃないか」と書いているし,実行している。もちろんそれでトラブルもない。しかし,エビデンスがあるのか,と言われると困ってしまう。だって,そんな論文,ないんだもの
 なぜ論文がないかというと,以前は「術後は入浴しないものだ」というのが常識だったから,術後に入浴させたらどうなるかというのを調べた人がいなかった,というだけのことだ。


 現在,カテーテルの処置でCDCでは「2%クロルヘキシジンで刺入部を消毒して,フィルム材で覆い,1週間ごとに交換」という方法を提唱していたと思う(うろ覚えですみません)。一見,もっともらしいが,ここには「では,消毒しないと本当に感染率が高くなるのか?」という視点は欠けている
 なぜ欠けているかというと,消毒する事を前提にしている人達が行なった実験だからである。消毒する事を前提にしていれば,消毒しないシチュエーションは存在しない。だから実験も論文もない。

 要するに,エビデンスがない,というのには二通りあって,一つは「過去の実験・論文で否定されている」ものであり,もう一つは「それに言及した論文自体が存在しない」ものである。両者を混同して論じられては非常に困るのである。


 さらに上述のCDCのガイドラインにしても,なぜ「1週間」なのか,という疑問は残るはずだ。

 なぜ1週間なのか? 8日では何かトラブルが起こるのか? 5日では早すぎるのか? 神が1週間で世界を作ったから1週間なのか? 1週間というのは勤務の都合ではないのか? 1週間というのはグレゴリオ暦の区切りに過ぎないのではないか? 1週間という時間に細菌学的な裏付け(2%クロルヘキシジンで消毒すると,その消毒効果が168時間持続する,とかね)があるのか?
 このような疑問にはCDCガイドラインは答えてくれないし,ガイドラインが引用している元論文にも書かれていない。


 こんな事を書くと怒られそうだが,もしかしたら「CDCにはこう書かれています。この論文ではこう書いています」という段階で思考停止していないだろうか。CDCのガイドラインの内容を見て,それを鵜呑みにしていないだろうか。医学雑誌,看護学雑誌に書かれている事を疑うことなく信じ込んでいないだろうか。

 もちろん,CDCのガイドラインの根拠となっている論文はどれも質の高いものだと思うし,現在のところ,最も信用がおけるものだと思う。
 しかしそうであっても,「過去にある意図を持って行なわれた実験」であるという事実は揺るがないと思う。実験方法を決める段階で「その時代の常識」が入り込むはずだ。だから,「どの消毒薬が最も有効か」という実験はあっても,「そもそも消毒は必要なのか」という実験は生まれにくい。

 要するに,一流の研究者といえども時代の想像力を超えるのは大変なのである。だから,時代の想像力の範囲内での研究が大半を占めているのである。その時代に誰も想像だにしていないことを想像し,実験する事は極めて困難だ


 エビデンスを探す努力はもちろん大切だと思うし,それでエビデンスが見つけられれば最も説得力を持つものになる。
 しかし「エビデンスがないから説得できない・納得できない」というのでは困るのである。これは「聖書に書かれていないことは信じられない」と言っているのと大同小異であり,思考停止そのものである。

 CDCにしたって「永遠の真理」を書いているわけではないだろう。あと10年もすれば半分くらいは書きかえられているかもしれないし,20年後となると,現在のガイドラインのうちどれだけが生き残っているのだろうか。


 エビデンス,すなわち過去の論文がなくても,それが正しいかどうかは判断できるはずだ。幾つかの基礎的事実(皮膚常在菌の存在,消毒薬の作用機序,創感染の発症機序,水道水中の細菌数など)を元に科学的に推論すれば,術後に入浴することの是非,カテーテル刺入部を消毒する事の是非なんて簡単に結論がでるし,上述の「1週間の謎」にも気がつくはずだ。

 人間の脳味噌は,他人の書いた事を記憶するためだけにあるのでなく,新たな事を考え出すためにあるはずだ。エビデンスは他人が証明してくれるものではないし,他人が証明したものでなければエビデンスにならないわけでもないだろう。
 これは確実だと思われる基礎的事実(もちろんこれだって嘘かもしれないけどね)が幾つかあれば,あとはそれを組み合わせ,論理を展開させるだけである。そして時間があれば,それを実験的に証明するだけである。

 エビデンスがなければ自分で証明すればいいのである。存在しない(かも知れない)エビデンスを探すより,自分で作った方がもしかしたら近道じゃないだろうか。

(2003/05/24)

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