創傷治癒システムの盲点と「毛のないサル」


 前述のように,現在の哺乳類の創傷治癒といえば,血小板とマクロファージが中心となり,細胞成長因子を介して多数の細胞が協力しあって傷を治すシステムであり,血小板もマクロファージも中胚葉由来の細胞であり,創傷治癒に関与する他の細胞も多くが中胚葉由来の細胞である。前進に血管が張り巡らされ,その血管内を血小板が流れているため,全身のどこで傷ができてもそれに対応できるわけである。

 確かにこれはこれでよくできたシステムなのだが,問題点が一つだけある。出血が起こらない程度の損傷,血管が分布していない組織での損傷には全く対処できないという問題である。何しろ創傷治癒は「傷ができるとそこで血管が破綻し,血小板が漏出して凝固し,それとともにさまざまな細胞成長因子を放出する」ことで始まるのである。逆に言えば,出血がない傷では血小板の凝固は起こらず,細胞成長因子の放出も起きないのだ(ちなみに改めて創傷治癒の教科書を読み返してみたが,血小板が創傷治癒のイニシエーターであるという記述しか見つからなかった)


 血管がない組織といえば,皮膚でいえば表皮と角質である(その他,眼の水晶体やレンズ,関節軟骨などもそうだ)。そのため,表皮内にとどまる損傷では出血が起こらず,創傷治癒も起こらないことになる。どんなに優れたシステムでも,それを起動させるイニシエーターがなければ動かないのだ。

 しかも,陸上生活をしている動物では創面は乾燥して痂皮が覆ってしまうし,専用の創傷治癒システムもないため,表皮内損傷の治癒はなかなか進まなくなってしまった。痂皮ができてしまった創での上皮化は,痂皮の下を表皮細胞が遊走することで起こるが,痂皮の下は移動に最適の環境ではないため治癒に時間がかかってしまうのだ。これは恐らく,血小板とマクロファージを中心とする創傷治癒システムを完成させた時点では,想定の範囲外の事態ではなかっただろうか。


 もちろん,皮膚表面の傷は軽微であって生命を危うくするものではないし,いずれにしても角質はどんどん作られて入れ替わるため,皮膚表層の損傷に通常の創傷治癒システムが作用しないことは大きな問題にはならないのは事実である。だから,皮膚表層に特有の損傷を治すための新たなシステムを作る必要もなかったのだろう。

 しかし,これが人間では話が違ってくる。人間が「毛のないサル」,「体毛の乏しい陸上動物」だったからだ。他の動物では全く問題にならない皮膚表層損傷が,人間では不快な症状を起こしたのだ。そして何より,全身を毛で覆われている動物とチョボチョボとしか生えていない動物では,皮膚表層損傷を受ける頻度が違う。前者は滅多に傷が付くことはないが,後者はちょっとしたことですぐに傷が付いてしまうのだ。


 自分の皮膚で荷造り用テープによる剥離実験をするとその部分にヒリヒリとした軽い痛み(痒み)を感じるが,この痛みは風に当たったり衣服にこすれたりすることで増強する。逆に,それらから患部を保護するだけで痛みはかなり和らぐことがわかる。要するに,皮膚表層が傷ついたとしても,物理的刺激さえなければ大した症状はないということである。

 このことから考えると,フサフサした毛で全身を覆われている動物と毛があまり生えていない動物(=ヒト)では皮膚表層損傷に対する症状(=痒み)が異なっていると考えられるのだ。つまり,他の動物では全く症状を呈さない浅い傷であっても,人間にとっては不快な症状となりうるのである。恐らくそれは,「毛のないサル」の宿命といえそうだ。しかも,この「毛のないサル」には長くて稼動範囲の大きい四肢が備わっていて,おまけに器用に動く指まで持っていた。

 つまり人間とは,「簡単に傷が付く皮膚を持ち」,「軽微な皮膚表層損傷を痒みとして認識」し,「痒い部位をいくらでも掻ける」動物なのである。さらに,皮膚表層の傷を積極的に治すシステムがないため,一度傷ができるとなかなか治らないのだ。このため,「痒い」⇒「掻く」⇒「傷ができる」⇒「さらに痒い」・・・という悪循環に陥ってしまうのだろう。これが,アトピー性皮膚炎,痒みを伴う種々の皮膚疾患がしばしば難治となる根本原因ではないだろうか。


 さらに,角質損傷に限って言えば,「患部を水を通さない膜で覆うと,覆わない時よりも角質修復が遅れる」という現象があることが確認されている。どうやら角質は,自分で自分の状態を感知して角質修復を自己コントロールしているらしいのだ。つまり,真皮より深い創で見られる「湿潤状態での創傷治癒」とは逆なのである。角質自身が感知しているのは恐らく,角質の水分含有量の減少だろうと推察される。角質自身が「(傷から外に漏れ出て)角質の水分量が減っている」ことを感知し,それが角質修復のスイッチを入れているのではないだろうか。だから,水を通さない膜で覆ってしまうと水分が逃げなくなってしまい,角質は損傷を受けていることを感知できず,修復機転が進まないものと思われる。


 さらに,精神的なストレスが皮膚角質損傷の修復に影響を与えることも確認されている。

 要するに,角質損傷修復は患者の精神状態に影響を受けているわけであり,患者の精神状態そのものが皮膚のトラブルの修復を促進したり阻害していることになる。そして,皮膚疾患は機能上の問題より外見上の問題が極めて大きく,患者にとっては疾患自体が強いストレスになり,治癒を抑制していることは極めてありそうな話だ。


 皮膚の傷や疾患の治療していくうちに,時々,論理で説明できない反応に出会うことがある。たとえば,ほとんどの皮膚の痒みは白色ワセリンをよく刷り込むことで軽快するが,ごくまれにワセリンで痒みを訴える患者がいたりするとか,ワセリン塗布で治らない手荒れが尿素入りクリームで治ったりするなどの事例である(もちろん,圧倒的多数の人間では尿素クリームで手荒れや乾燥肌は改善しないか悪化する)。これらは創傷治癒の原理からも皮膚の構造からもクリームの薬理学からも説明できない異常な反応といえる。だが,このような症例では次のような現象が起きていて,それらが複雑に絡み合っている可能性がある。

 これらの事象が起きているとしたら,皮膚疾患,皮膚外傷の治療でしばしば遭遇する「理論的に説明が付かない現象や症状」は説明が付けられるのではないかと考えている。

(2009/01/30)