そして,新しい創傷治癒システムへ


 これまで,「人間の表皮細胞に中枢神経系の神経伝達物質の産生能と受容能があり,これらの物質は皮膚表層損傷の修復を促進したり阻害したりしている」という事実から敷衍して,実はそれは原初の1胚葉生物の損傷修復システムだったのではないか,という仮説を提示したわけである。この修復システムは人間の体にも残っていて,実験的に皮膚損傷部に神経伝達物質を塗布すると修復は促進されるのだ。

 しかし,この損傷修復システムは多細胞生物の進化と生活様式の多様化とともに,次第に実情に合わなくなっていった。その理由は主に次の2点だろう。

  1. そもそも外胚葉生物での損傷修復システムだったため,外胚葉の損傷しか対象にしていなかった。
  2. そもそもこの修復機能は水中(海中)で誕生したため,陸上生活で受ける損傷への対応は想定外だった。

 最初の問題に対しては生物は程なく解決策を見つけたが,後者の問題は困難を極めたはずだ。


 9億年ほど前に誕生した海綿動物が損傷を受けるとして,原因は恐らく熱とか紫外線など,環境から受ける損傷しかなかったはずだ。捕食動物がいなかったからだ。そして,外胚葉しかない生物だから,修復すべき組織も外胚葉しかなかったわけだ。

 しかし,補食動物が出現し,運動能力が増すにつれ,損傷の程度は重症化しただろうし,3胚葉動物では中胚葉や内胚葉も損傷を受けることになり,それらを含めたより総合的な創傷治癒システムが必要になったのだろう。それが,現在のサイトカイン(細胞成長因子)を中心とするシステムではないだろうか。


 人間の創傷治癒をおさらいすると,次のようになる。損傷を受けた血管の破綻部から血小板が流出し,この血小板からカルシウムやATP,セロトニンなどが放出され,さらに各種の成長因子が分泌されることで各種の細胞が活性化し,創傷部の修復が始まる。ここで中心的役割を果たすのは血小板とマクロファージである。

 ここで気がつくのは,血小板もマクロファージも中胚葉由来の細胞だと言うことだ。つまり,この創傷治癒システムは中胚葉が登場した後に成立したことになる。つまり,3胚葉生物特有のものであるはずだ(もちろん,この修復システムは哺乳類全体で確認されているが,さらに他の脊椎動物ではどうなのか,脊索動物はどうなのか,昆虫や環形動物ではどうなのか・・・などについての確認作業は必要になるが)。いずれにしても,海中で誕生した3胚葉生物で,血球成分を司令塔とする創傷治癒システムが採択されたのだろう。

 実際の人間の傷の治り方を見ても,中胚葉由来のさまざまな細胞から形成される「肉芽」が最初に創面を覆い,その後,外胚葉や内胚葉細胞が肉芽表面に遊離するという現象が起きていることはご存知の通りだが,これからも,人間や哺乳類では中胚葉由来の細胞や組織が創傷治癒の中心となっていることがわかる。その理由は恐らく,「中胚葉由来の組織は全身にくまなく分布しているが,外胚葉や内胚葉は体の一部にしか分布していない」ということではないだろうか。要するに,1胚葉生物や2胚葉生物のような「外胚葉基点の創傷治癒システム」では深部損傷に対応できなくなったのだろう。


 問題は,なぜ血小板やマクロファージが3胚葉生物の創傷治癒の司令塔として働くようになったのか,なぜ血小板が選ばれたのか,なぜ血小板でなければいけなかったのか,そもそもこの「サイトカインによる創傷治癒システム」はその前の時代の何を転用したものなのか・・・というあたりまで考えてみようとしたのだが,そのあたりを考えるためには絶対に基礎知識が不足しているし,また調べようにも,哺乳類以外の3胚葉生物の創傷治癒のメカニズムについて研究がなかなか見つからないのである。

 いずれ,この方面の知識を仕入れてから,もっと深く考えてみようと思っているテーマである。


 少なくとも哺乳類の場合,血小板が創傷治癒システムの基点となるのは理に適っている。血管外に漏れ出た血小板は凝集して血栓を作り,創面に付着するため,そこで放出される物質(サイトカイン)を感知して他の細胞が集まるのは,傷を治すのに必要な細胞を必要な場所(=創部)に集めるのにもっとも合理的だからだ。血管は全身に張り巡らされているため,体のどこで傷ができてもそこには血栓が必ず作られるから,血栓をターゲットに創傷治癒に必要な細胞が集まればいいのだ。

 人間の血小板は骨髄中の巨核球(巨大核細胞)の細胞質がちぎれたものであり,細胞質のみから構成されて細胞核を持たない特異な細胞成分である。創傷治癒はさまざまな中胚葉由来の細胞が関与する複雑な反応だが,それをコントロールするために造血幹細胞の直系の子孫(?)である巨核球由来の血小板でなければいけなかったのでは,という気がする。恐らく,造血幹細胞⇒巨核芽球⇒前巨核球⇒巨核球⇒血小板と変化していく過程の中で,巨核球になる前の巨核芽球,前巨核球あたりが持っていた「何かの機能」が,その後の創傷治癒システムに利用されているのではないかと,適当に想像している。

 それにしても,昆虫や環形動物や脊索動物の創傷治癒はどうなっているのか,それらでは血液成分はどのようにして分化しているのか,興味は尽きないのである。


 現在の「中胚葉を司令塔とする創傷治癒システム」も万全ではない。乾燥状態ではさすがに治癒機転がうまく働かず,治癒がストップしてしまうのだ。これは陸上生活では極めて不利であり,なぜ進化の途上で「乾燥状態でもストップしない創傷治癒システム」を獲得しなかったのかという疑問にぶつかる。

 だが,これはさすがに無理だったと思われる。なぜなら,このような「乾燥下でのみ進行する創傷治癒」を実現しようとしたら,細胞の基本構造レベルからの改変が必要になるからである。いくら何でも,傷を治すために生命体としての基本構造を変えるのは割に合わないのである。それよりは,体の外表面を強固にして容易に傷が付かないようにする方が現実的であり,実際の陸上生活する動物たちもその方向に進化の道を選んでいる。

(2009/01/28)

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