《墨攻》 (2007年,日本/中国/韓国)


 《墨攻》というタイトルを見ただけで心が躍り,胸が熱くなる。森秀樹の傑作歴史漫画『墨攻』が大好きだからだ。あの素晴らしい世界が映画になるとは,なんと素晴らしいことだろうとワクワクした。あの漫画にはいかにも映像にしたら映えそうな名場面がいくつもあった。そういう思いを持ちながら,この映画のDVDを見た。

 しかし,その思いは裏切られた。これは似て非なるものだ。あの素晴らしい漫画はほんの少し香りを残しているものの,それは単に表面だけのものだ。あの重厚にして雄渾な人間ドラマはハリウッド風の人間愛と家族愛にすりかえられているし,原作の描く「広い愛」は「男女間の小規模な愛」に入れ替わってしまった。何でこんなにつまらない映画になってしまったのだろうか。こんな馬鹿なシナリオを書いたのは誰なんだろうか。

 確かに,人海戦術を極めた大規模な戦闘シーンはすごいと思う。広大な中国大陸で繰り広げられる白兵戦は桁外れの迫力だ。だが,それが大掛かりになればなるほど,主人公,革離の苦悩が絵空事に見えてしまう。だから,原作を知っている人ほど,この映画には失望するはずだ。


 映画の内容に立ち入る前に,まずこの『墨攻』(ぼっこう/ぼくこう)について。

 『墨攻』は中国戦国時代初期を舞台とした酒見賢一氏の小説である。主人公は墨者,革離(かくり)で彼は墨子(兼愛と反戦を唱えた中国の思想家)を祖とする墨家に属している。この墨家は三代目の田襄子の代になって権力志向を強め,次第に腐敗していった。それに異を唱え,墨子の教えに立ち戻ろうと主張したのが革離だった。そんな時,趙から攻め込まれた小国の梁から墨家に城の防御の依頼が来るが,田襄子はそれに応じなかった。しかし,革離は田襄子の命に背き,単身,梁に赴いて兵士や農民たちを統率し,趙の大軍に立ち向かった・・・というような内容である。私は残念ながらまだ読んでいない。
 ちなみに,「墨守」という言葉はあるが,「墨攻」という言葉はない。これは酒見氏の造語であるらしい。

 この酒見氏の小説をもとに,さらに拡大敷衍したのが森秀樹氏の『墨攻』だ。1992年から96年にかけて青年コミック誌「ビッグコミック」(小学館)に連載された人気漫画で,私が知っているのはこれだ。原作の戦国時代初期という設定を変えて舞台を戦国時代末期(秦時代初期)にしてオリジナルのストーリーを展開し,墨家に追われる革離という集団と個人の対立,戦乱から統一への動きの中で時代に切り捨てられる墨家の運命,そして,逆境の中でさらに輝きを増す革離の創意工夫と芯の通った男気を描いた雄渾の名作である。

 そして今回紹介する映画は,酒見氏の小説を元に作られているようだし,時代はまさに中国時代初期と思われる。共通しているのはここまでだ。

 なお,以下のレビューは,10年以上前のビッグコミック連載時に読んだ森氏の漫画の記憶と,酒見氏の小説を解説したインターネットサイトの記述を基に書いているため正確でない部分があると思うが,その辺はご容赦の程を・・・。


 まず,一番違和感を持ったのは民衆の描き方だ。映画の中では民衆はどうしようもない愚かな小心者,つまり愚民として描かれている。要するに,優れた指導者がいなければ行動しない怠惰な愚者の集団である。しかし,酒見氏の原作や森氏の漫画では全く違っていて,革離の説く大義に目覚め,己の運命を切り開き家族のために戦う勇者が農民達なのだ。革離は単なる起爆剤でありコーディネーターに過ぎず,真の主人公は農民などの目覚めた大衆なのである。この差はとても大きい。

 森氏の漫画では,革離が指導し,城の防御のための命令を受けるのは名もなき民衆たちだが,その誰もが輝いた目で前を見据えていた。自分たちの運命を切り開こうという気概に満ち溢れていた。だが,この映画に登場する大衆はどれも愚鈍な表情をしていて,戦いに巻き込まれて右往左往し,庇護されるべき哀れな奴隷のように描かれている。まるで正反対なのである。


 そのためもあり,この映画では優秀な力を持った個々の人間(主に支配者階級)が前面に押し出されているが,戦争国家での個人崇拝,英雄崇拝のようで,なんだか素直に感動できないのだ。

 それと,革離が城に入って防御するのはいいとしても,城内の民衆が革離を崇拝するようになる過程が全く描かれていないのも不自然というか説明不足。革離が貴族たちや軍隊,そして民衆たちにどのようにして受け入れられていったのかは重要なポイントのはずなのに,映画を見る限り,それを説明する描写はまったくなかった。
 確か漫画の中では,革離が自分の腕を切って血を出し,「私の血を吸った土地を私は全力で守る」と檄を飛ばすシーンがあり,これで皆の心が一つになったと記憶している。こういうシーンが映画では皆無なのである。それで「革離は城内を統率し」と言われても困ってしまうのだ。


 映画にはヒロインが必要,ということで,近衛隊長(?)役は美人女優さんが演じている。ハリウッド映画なら革離と恋仲になるんだろうが,さすがにそこまでは暴走できなかったらしく,彼女は革離に「墨家は兼愛を説きますが,本当の愛を知らないのはあなたです」なんて台詞を言うに留め,二人の仲はそれ以上進展しない。だが,スクリーン上ではこの二人がやけに生臭く見え,映画全体が「二人の愛の物語」みたいになってしまった。いかにもハリウッド好みの筋書きだが,この映画に関しては余計な設定だったと思う。この近衛隊長@女性さえいなければ,映画はもっと引き締まったものになっていたはずだ。

 そのほかにも,意味不明,説明不足,前後の脈略なしのシーンが多すぎる。敵国の郷土料理を作るシーンなんて,本来ならとても大事なシーンになりそうなんだけど,この映画ではそれが全く生かされていないし,なくてもいいシーンになっている。王子様との弓合戦のシーンも,なぜこの人物が選ばれたのかという説明がなおざりだった。

 映画中の革離の苦悩もウジウジしているだけだった。どうやらこの映画は「戦争と平和」をテーマにしたかったようで,平和のために人を殺していいのか,と革離は終始悩み続ける様子が描かれている。ところが,森氏の漫画では,「相手が一方的に侵略しているのだから,こちらは防衛戦だ。知略を尽くして防衛するのは当たり前だ」という立場が一貫している。つまり「専守防衛」である。だからこそ,色々な小さな工夫が効いてくるし,トリッキーな手段も生きてくる。そして,革離も「相手を殺していいのだろうか?」なんて悩んだりしない。一方的に攻められた側が自分たちの生活を守るための闘争だからだ。この差は大きいと思う。

 あと,映画の作り方が下手だと思う。通常なら,さまざまな紆余曲折があったが,最後は弱者側が勝利した,という筋書きにするはずだし,これならクライマックスに向けて物語りは大きく盛り上がるはずだ。ところがこの映画は終盤に向かうほどトーンダウンするため,最後の戦闘シーンにカタルシスがない。最後の方にある「地面から噴出す水流」という本来なら見せ場のシーンも,大仰な割には全く生きていない。この水流は単に噴出しただけで,戦闘に全く関わっていないからだ。要するに,無駄シーンである。


 なぜこんなに詰まらなく,ダラダラ長いだけの映画になってしまったのかと,嘆息するばかりだ。

(2008/03/14)

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