《蝶の舌 LA LENGUA DE LAS MARIPOSAS》 (1999年,スペイン)


 物語の背景になっている1936年冬から翌年の夏にかけての当時のスペインの政治情勢を理解していないとちょっとわかりにくい,という欠点はあるが,心に残る素晴らしい作品である。自然に満ちた驚きと社会の仕組みについて子供たちについて教えようとする老教師と,その教えにより次第に成長していく8歳の少年,そして美しい自然と素朴な民衆の営みと生活・・・それら全てがフランコ将軍による軍事クーデターで破壊されていく悲劇を描いている。


 舞台はスペインのガリシア地方の片田舎。主人公の8歳の少年モンチョは持病の喘息のため,他の生徒より一年遅れて小学校に入った。学校では教師の厳しい体罰が普通だった時代で,モンチョもそれが怖くて学校に行きたがらない。何とか初登校の日を迎えるが,初めての教室で恐怖のあまりお漏らしをしてしまい,教室を飛び出してしまった。しかし,初老の教師,グレゴリオ先生はモンチョを温かく迎えるように他の生徒に話し,モンチョは次第に教室に受け入れられ,隣の席の男の子はモンチョに「君はお漏らしだけど,僕は最初の日に怖くてウンコをもらしちゃったんだ」とまで話してくれた。

 グレゴリオ先生は1個のジャガイモを例にとっては,それがどこで作られているのか,ジャガイモはいつスペインに持ち込まれたのか,それまでスペインでは何を食べていたのかという風に,知識の詰め込みでなくものの考え方を教えていく。晴れた日には子供たちを外に連れ出して昆虫を捕まえてはその体のつくりを教え,植物の秘密を解き明かす。そして,モンチョたちに蝶の舌は口吻といってゼンマイのように丸まっていて,蜜を吸うときに伸ばすのだと教える。そして,顕微鏡が届いたら皆で蝶の舌を観察しようと提案する。

 物語は,服の仕立て屋をしていて共和国政府支持者の父,音楽家になりたくてサックスを練習中の兄,政治的には夫と立場が違うが優しくも厳しい母といったモンチョの一家を中心に,ゆったりと時間が流れるスペインの小さな村の様子を丹念に描写していく。その中で,一人の女の子に淡い思いを寄せたり,カーニバルでの演奏があったり,商売女が客を取っている様子を盗み見たりと,さまざまな小さな出来事が描かれるが,それらはちょっとずつ成長していくモンチョの様子と重なっていてなんだかほほえましい。

 そして,グレゴリオ先生が最後の授業をする日がやってくる。彼は熱烈な共和国政治の支持者であり,聖書でなく科学を信奉する教育者だった。そして生徒たち,父兄たち,町の有力者たちの前で堂々と,「この子供たち,そしてその次の世代は必ず自由を手に入れる。次世代の子供たちの自由を奪うことは許されない。そして一度自由を手にしたものは,もうそれを手放しはしない。そんな時代が必ずやって来ると私は信じている。生徒たち諸君,これまでありがとう。君たちは自由に羽ばたけるのだ」と高らかに自由の大事さ,自由とは何かを訴えかける。ガチガチの保守派の父兄は子供を連れ出して教室を飛び出してしまう。


 だが,1936年6月18日,全てがひっくり返る。フランコ将軍による軍事クーデターがおき,政治的自由は廃止され,独裁政治,恐怖政治が始まったからだ。昨日までの共和党支持者は投獄されるか,亡命するか,共和党支持者だった証拠を消去するしか生き延びる道はなくなった。モンチョの父は放心状態で,母は父が持っている党員章と共和国を支持する新聞を全て焼き捨て,モンチョに「お父さんはグレゴリオ先生に服をプレゼントしなかったの。そう言うのよ!」と言う。

 そして,共和党員が次々に検挙され,トラックに乗せられる。その中の一人がグレゴリオ先生だった。群集は口々に「アテオ(無心論者),アカ,詐欺師,人殺し野郎!」と罵声を浴びせる。モンチョの母は父に「あなたも叫ばなければ駄目。ここで皆と一緒に叫ばなければ,今度はあなたが捕まる番だ」と言い,父も最初は小声で罵声の列に加わる。そして母はモンチョにも叫びなさいと命じる。

 モンチョもついに「アテオ! ペテン師!」と口にし,他の子供たちと一緒にトラックに石を投げつける。そして泣きながら「ティロノリンコ(グレゴリオ先生が教えてくれた鳥の名前)! LA LENGUA DE LAS MARIPOSAS!」と叫ぶ。そこで画面がストップし,凍りつく・・・。


 戦争が人間性を破壊し,人間関係を破壊し,平和な生活を破壊することについては,いまさら書くまでもないだろう。敬愛する恩師に向かって怒号を浴びせなければ少年の心の痛みと,その怒号を強制する恐怖政治の恐ろしさが描きつくされているし,その罵声を浴びながら敢然と頭をあげて前を見据えるグレゴリオ先生の決意に満ちた眼差しには頭が下がる。私にはとてもこんな生き方はできない。だからこそ,モンチョの最後の叫びが余計に痛々しい。


 この映画を鑑賞する上では,やはり当時のスペインの政治情勢を知っておいたほうがいいだろうから,邪魔にならない程度にまとめておく。

 第一次大戦後のスペインでは各地方の対立,種々の政治勢力間の対立が続いていて,1931年の総選挙で左派が勝利し王政から共和制に移行したが,それでもまだ左派と右派の対立が続き,統一国家には程遠い状態だった。1935年からは共産主義勢力のコミンテルンが左派と手を組むようになり,1936年の選挙では再び左派が勝利し,人民戦線政府が成立した。しかし,人民戦線側が力で右派の制圧に乗り出したため,共産主義革命を恐れたカソリック教会と資本家,資産家がフランコ将軍率いる軍隊と結びつき,ついには7月から内戦状態となった。いわゆるスペイン内戦である。

 ドイツのナチス政権とイタリアは直ちにフランコ将軍の指示を打ち出し,ここにフランコを総統とするファシズム政権が成立した。豊富な資金を背景に次々とフランコは軍事展開し,ポルトガルなどもフランコ支持に回った。一方,イギリスとフランスは国内事情もありってスペインに対しては中立的な立場を取るを決め,人民戦線側を指示するのはソビエトとメキシコのみとなった。

 内戦の初期,人民戦線側は地中海沿岸地方と国土の東側を全て制圧して優勢で,フランコ軍(=反乱軍)はポルトガルに近いガリシア地方(この映画の舞台はまさにこのガリシアであり,この映画で描かれる民衆の混乱の背景はここにある)を押さえているのみで,圧倒的に人民戦線側に有利だった。首都マドリードは完全に人民戦線側に握られていたため,反乱軍はスペイン北部への勢力拡大を狙い,1937年春までにはバスク地方を除く北部は反乱軍によって陥落し,激しい戦闘の後,バスクも反乱軍に制圧された。ちなみに,1937年4月26日,バスク地方のゲルニカという町にドイツとイタリアの空軍の無差別爆撃が行われ,この町は火の海となった。そして,その惨禍はピカソの手によりキャンバスに描かれ,今もなお抗議の声を発し続けている。

 さらに,フランコは国内のカソリック教会を保護することを約束したことから,バチカンはフランコ政権を容認し,さらに,第二次大戦当初のイギリスとフランス政府がファシズム勢力との融和政策を採ったため,状況は一挙に反乱軍側に有利となった。

 一方の「共和国軍+人民戦線」側は,共和主義者,コミンテルン,急進的マルクス主義者の寄り合い所帯であり,反乱軍に抵抗するどころか内部対立を繰り返していた。このため,当初はこの勢力を指示していた地方のグループもバラバラに近い状態であり,唯一,ソビエトが援助したスペイン共産党のみが対抗勢力であった。

 1938年後半はカタルーニャ地方を舞台に,人民戦線側とフランコ側の消耗戦が続くが,数に勝るフランコ軍は翌年の1月,ついにバルセロナを支配下に置く。2月にはイギリスとフランスがフランコ政権を国家として承認し,人民戦線側の最後の牙城,マドリードも3月に制圧され,4月1日にフランコは勝利宣言を出すことになる。

 内戦に勝利したフランコ側は,バスク地方とカタルーニャ地方(以前からスペインからの独立自治を主張してきた)を徹底的に弾圧し,政治的自由を奪った。このため,多数の難民が国境ピレネー山脈を越えて隣国フランスに亡命し,また,国家として人民戦線を最後まで支持していたメキシコも1万人の知識人,技術者の亡命を受け入れ,後にこの亡命文化人たちがメキシコの文化に大きな影響を与えることになった。

 なお,フランコ政権はその後,1975年のフランコの死まで続き,その後,ファン・カルロス1世が即位し,1978年より立憲君主制に移行している。


 1975年といえば,1936年に8歳だったモンチョが生きているとしても47歳である。40年という歳月の重さに言葉を失うしかない。

 作家,ヘミングウェイはこのスペイン内戦に政府側(共和国軍側)について従軍し,その経験を元に『誰がために鐘は鳴る』を書いた。


 不世出の天才チェリスト,パブロ・カザルスは1876年カタルーニャ地方の生まれで,バッハの「無伴奏チェロ組曲」の復活などを通して,20世紀初頭には既にその名を不動のものとしていた。第一次大戦中,カタルーニャに戻っていたが,1939年に内戦の激化をうけて国境を越えてフランスのプラドに居を構えた。

 第二次大戦終了後,演奏活動を再開したが,大戦終了とともに世界各国がフランコ政権を容認する様子に抗議して,一切の演奏活動から身を引くことを宣言し,以後,沈黙を守っていた。
 1950年,ヴァイオリニストのシュナイダーの説得に応じ,音楽祭の総監督をすることを引き受け,これがプラド音楽祭の始まりとなる。偉大なチェリストにして伝説の音楽家の薫陶を受けるべく,世界中の俊英音楽家が集まる音楽祭となり,カザルスの音楽と思想は次世代に受け継がれていった。そして,1971年10月24日「国連の日」を記念して国連本部はカザルスに国連会議場で演奏をするよう招聘する。ニューヨークの国連本部でついにカザルスは26年ぶりにチェロの封印を解き,チェロの弓を握る。

 当時彼は95歳の高齢であり,歩くこともおぼつかず車椅子生活同然だった。アイザック・スターンなどの超一流弦楽器奏者が見守る中,カザルスはマイクに向かい,「私の祖国カタロニアでは,鳥はピース(平和),ピースと鳴いています」という感動的なスピーチを行い,その後,震える手でチェロをかかえ,カタロニア民謡『鳥の歌』の演奏を始める。そこにはかつての超絶技巧を誇る名手の音はなかったが,命ある限り平和を訴える熱い魂がほとばしり,自在でのびやかな歌があった。人間の尊厳をかけた戦いを続け,齢90を越えてもなお自由と平和を希求する老闘士の姿は神々しいばかりだった。朗々と流れる『鳥の歌』に国連本部は涙に包まれた。

 その2年後,カザルスは永遠の眠りにつく。享年97。だが,彼が死ぬまで闘ったフランコ政権はさらに2年間,この世に存続した。


 実は私,この国連でのカザルスの演奏をリアルタイムでテレビで見ている。当時,私はまだ学生だったがなにかの事情で学校を早引けし,家に戻ってテレビをつけたら偶然にも「カタロニアでは鳥が・・・」というスピーチのシーンだったのだ。当時私はピアノしか頭になく,カザルスの名前は知らなかった。テレビの画面では,よぼよぼの爺さんが大きく手を広げ「ピース,ピース」と話していた。その後,手を引かれるように椅子に座ってチェロを抱えた。周りの弦楽四重奏がトレモロの伴奏を弾き,それに導かれるようにチェロの音が流れてきた。歩くのもやっとの爺さんだからこんなものかなと思ったが,その旋律が妙に心に残り,チェロを弾く爺さんの表情がとても印象に残った。そして,その演奏を聞く聴衆が皆涙を流していたことを覚えている。それがまさに,パブロ・カザルスの26年ぶりの演奏だったのだ。

 その後,カザルスについて知り,無伴奏チェロ組曲に出会い,本格的にバッハを勉強することになる。
 私は無神論者だ。この世に神はいないと思っている。しかし,1971年10月24日,私は間違いなく幾つかの偶然の重なりからカザルスを聴くことができた。この時,音楽の神は確かに存在した。

(2008/02/13)

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