《ポストマン》 (1997年,アメリカ)


 金をかけまくった豪華絢爛ダメ映画にして,ケヴィン・コスナーのケヴィン・コスナーによるケヴィン・コスナーのための駄作映画。コスナーはこのちょっと前にも《ウォーターワールド》というズッコケ超大作映画を作っています。どちらも,文明が崩壊して荒廃した世界の中から希望の満ちた世界を作ろう,という映画でして,ケヴィン・コスナーは自己陶酔しまくってヒーロー役を演じておりますが,肝腎の「崩壊した社会」が全然描けていないため,リアリティが完全に欠如し,ただただ滑稽なだけの作品になってしまいました。

 おまけにこの《ポストマン》,長いのなんのって,本編だけでも170分ほどあります。そして,無駄に長いシーンか,やけに説明不足のシーンばかりなんで一つの作品としてのまとまりに欠けています。

 これだけでもひどいのに,コスナーさんの息子さんと娘さん(アン・コスナー,リリー・コスナー,ジョー・コスナー)のコスナー一家揃い踏みで,カメラマンもこのお子様たちを,「ほら,これがコスナー監督の娘さんだよ」と丁寧に映しますので,予備知識なしでも誰がお子様かよくわかります。もう,コスナーの暴走を誰も止められなかった模様です。


 ま,一応,ストーリー紹介ね。

 時は2013年。21世紀には入り,世界各地で戦争が起きて世界は荒廃し,おまけに何年も雪が降り続くなどの気候変動もあり,地球文明は崩壊していた。アメリカでも政府はなくなり,生き残った人間たちは孤立した集落に固まって生きているだけで,通信網はなく,お互いに連絡を取るすべもなく,世界がどうなっているのかもわからなかった。そのアメリカを支配しているのは極悪戦闘集団のホルニストで,独裁者ベツレヘム将軍が集団を支配し,それらの集落を襲っては食料や物資を略奪していた。

 そんなアメリカの荒野を一頭のラバを連れて放浪する男がいた。彼は旅役者で町に行っては下手なシェイクスピアを演じて生活していた。そして,立ち寄った町でホルニストの襲撃にあい,彼も兵士として連れ去られてしまう。そこを何とか逃げ出し,その途中で乗り捨てられている車を見つけ,そこで,白骨化した郵便配達人(ポストマン)の死体と手紙の束を見つける。そこで旅役者は死体からポストマンの制服を剥ぎ取り,バッグを奪う。政府から派遣されたポストマン,つまり役人になりすまし,ただ飯を食おうという算段らしい。

 そして彼は,パインヴューという町にまんまと入り込み,たまたま一人の住人宛の郵便を持っていたことから信用される。彼は「新たなアメリカ合衆国政府が設立され,新大統領はスターキーという。自分は彼から信頼されているポストマンだ」と口からでまかせのデタラメを並べるが,住民達は,外にも世界があること,合衆国政府が機能を始めたことを知り,彼を救世主と大歓迎する。そして,彼を尊敬し,ポストマンになることが夢だったという黒人青年のフォードが中心となり,ポストマンの集団が作られ,周囲の町との通信が再開し始めたのだった。

 しかし,ポストマンが伝える新政府の噂が広まることは,ホルニストにとっては許せない事態だった。実際,ホルニストに反抗的態度を取る住民も現れたため,ホルニストとベツレヘム将軍は軍事力で彼らを押さえ込み,ポストマンを捕まえろという命令を出した・・・,という内容である。


 このように近未来(といっても,もう5年後だけどね)を舞台にしているが,基本的には大昔の西部劇を彷彿とさせる画面ですね。移動手段は馬しかないし,夜になるとカントリーソングみたいなのを歌いながら踊っているし,主な武器はライフルだからです。だから,ホルニスト軍団はなんだか「悪いインディアン」の襲来みたいに見えてきます。要するに,映画の基本構造が古臭くみえてしまうのですが,その最大の原因は,この映画の背景となっている世界が全く描かれていないために,世界観が希薄でリアリティが完全に欠如していることにあります。

 世界が大戦争のために荒廃して住めなくなり,人々は小さな集落(コミュニティ)で暮らしている,という設定を考えたとき,その集落は完全に自給自足していなければ維持できません。何しろこの映画によると,「外の集落との連絡も取れない」ことになっていますから,物資の移動も人の移動もないことになりますので,食料にしろ衣類にしろ武器にしろ,完全自給自足社会でなければいけません。

 そうなると,一番困るのがまず食料。舞台はアメリカですから,麦かトウモロコシを栽培し,あとは野生動物の狩猟でもしていると思われます。地下水の灌漑設備は崩壊しているでしょうから,必然的に集落は川沿いか湖沿いにあり,そこで作物を栽培しているとしか考えられません。登場人物の衣類は皆古びていますが,最低限,それを修繕するためには糸が必要で,綿花も栽培していると予想されます。また,ホルニストの襲撃を住人達が迎え撃つシーンがあり,住人側は大量の銃を準備し,銃弾を撃ちまくって撃退します。銃は古いものを修理して使ったとしても,銃弾は消耗品なのでどんどん新たに作る必要があります。つまり,集落内に製鉄所も必要です。おまけに,夜の「歌って踊る」シーンでは煌々と電灯もついていますから,発電所も完備しているとしか考えられません。


 となると,これだけの施設をあの集落だけで持っているのかという疑問が生じるし,耕作面積だけでもかなりないとあの人口は維持できないことになります。

 要するに,「集落ごとに孤立し,相互の情報伝達もない」という設定だからこそ,ポストマンがもたらすニセ情報が人々に希望となるわけですが,情報伝達すらない社会は必然的に自給自足となり,映画で描かれるような生活は不可能なのです。

 同様のリアリティのなさは,ホルニスト軍団の基地にもいえます。ホルニストは要するに軍隊みたいなものです。「軍隊とは歩く胃袋だ」という言葉があるように,兵士には戦闘があろうと無かろうと,常に食べさせる必要があるし,餓えた兵士集団は急速に統率が乱れます。映画の中では,ホルニストは周囲の集落を襲って食料などを窃取していることになっていますが,襲われた村は自給自足生活していますから,一度食料を奪ったらその時点で食料はなくなり,次に奪えるのは次の作物ができた時です。だから,ホルニストの略奪は次第に広範囲に及ばざるを得ず,兵站戦はどんどん延びていくことになります。つまり,ホルニストの戦略は必ず行き詰まります。なぜかというと,ホルニストの移動手段は馬しかなく,一頭の馬が運べる物資の重さと移動距離には上限があるからです。

 いずれにしても,世界が崩壊して少人数の人間が生き残ったとして,必然的に平坦な川沿いなどに集まり始め,その川を通じて情報と物資が運ばれてるようになり,この映画で示すような孤立集落が完全自給自足する社会はないと思います。


 こういう基本的な部分も駄目なら,その他の部分もツッコミどころ満載です。

 まず,主人公の旅芸人の性格設定が駄目。この映画は要するに,口からでまかせに「自分は新政府のポストマンだ」といい,それを信じた人々がホルニストの圧制に武器を持って蜂起し,新しい国を作るという内容です。だから,旅芸人はちゃらんぽらんな中年男として最初描かれますが,皆に担ぎ上げられ,英雄のように慕われるようになるにつれて「ここは腹をくくって自分がやるしかないか。最初は口からでまかせでも自分で信じていればそれは真実になるんだ」とか何とかいいながら,最後はやけくその勇気を出して本当に英雄になる,なんてストーリーで誰も文句を言わないのに,そうじゃないのです。

 周囲の人が盛り上がれば盛り上がるほど,ポストマンの表情がさえないし,お世話になった住民達がホルニストの襲撃で次々射殺されているというのにポストマンは物陰に呆然と隠れて一人だけ逃げ出そうとするし,そのくせ,安全になると格好よく登場したりと,等身大に格好悪いのです。最後の最後は格好よく決めるけど,そこに至る内面の変化がまるでないのです。やはりこういう映画なら,人間的な成長を描いて欲しかったのです。

 だから逆に,自分もポストマンになりたいと必死に努力し命を懸けるフォードが痛々しく見えるし,何でこいつはそこまで郵便配達にこだわるのかも見えてきません。フォードにとってポストマンは憧れの職業というけど,他の職業でなく郵便配達人でなければ,という必然性が伝わらないんだよね。

 それと,フォードが立ち上げた郵便組織にしても,この規模の集落に郵便配達人だけ増えてもしょうがないだろう,それより先に,安全に郵便を届けるために配達人を守るための人員も増やさないとどうしようもないだろうと思うのです。


 さらに,ポストマンがもたらした情報で人々が立ち上がり,住人が蜂起して圧制者を倒す,というのはいいとしても,それだったらベツレヘム将軍とポストマンの一騎打ちで解決,という最後もちょっと変。ここは,無名の人々の総合力で悪を倒す,という構図の方がスッキリしたような気がします。折角,皆が立ち上がったんだから,彼らに活躍させればいいのに,最後のおいしいところだけコスナーがかっさっらっちやうのです。いくら彼が監督といってもなぁ・・・。おまけにコスナー,「私はアメリカ合衆国を信じている!」って絶叫するし。これってそういう映画だったの?


 あと,ホルニストにしても,移動手段,情報伝達手段は馬しかないわけで,しかも根城にしているのは一箇所のキャンプ地だけです。それで広い国土を制圧するのは不可能だし,第一,あれほど弾を撃ちまくったら,銃弾がすぐに底を尽いてしまうのではないでしょうか。

 さらに,旅役者が放浪して集落を回っているとして,全く地図もなしに歩けるのか,という問題も大きいでしょう。何しろ画面で見る限り,果てしない荒野の連続で碌な草も生えていないような大地なのですが,山勘だけで歩いたとしても次の町に到着できる確率は限りなくゼロでしょう。画面には立派な道が映し出され,これは「人類絶滅戦争」前に造られた道と考えるしかありませんが,道があれば歩きたくなり,歩いたらその道筋を記録したくなるのが人間の性ですから,全くの地図なしという状態は考えられません。また,狩猟生活をしていたとすると,当然獲物が取れる場所を記録しておくだろうし,そうやって地図が少しずつでも書かれていけば,やがて隣の集落との物資や情報の交流が生まれるはずです。このあたりもかなり不自然。

 それと,あの唐突なベッドシーンは必然性も説得力も全然なし。しかも彼女は脱いでいるのにコスナーは服着てるし・・・。変なの!
 また,山小屋のシーンで,あの状況でもコスナーが髭剃りを持っていたというのは笑っちゃったな。


 そして,この映画の感動シーン(とコスナーが思っているらしい)場面,馬に乗ったポストマンが少年の手紙を受け取るところなんだけど(ちなみにこの少年は,コスナーの息子のジョー君らしい),ここも思いっきりはずしていたな。道端に立っているジョー君が手紙を差し出すんだけど,馬に乗ったポストマンはそれに気がつかず画面の右から左に走り去ります。しばらく走ってからジョーに気がつくコスナー父ちゃんは戻ってきて,馬をパカラン,パカランと走らせ,ジョーの手に握られた手紙を鷲掴みにして,コスナー父ちゃんは画面右に走り去っていくのです。オイオイ,君は画面左側の町に手紙を届けに走っていたんじゃない? 右側じゃ,元に戻っちゃうよ。第一,馬を走らせて受け取ったら少年が危ないだろう。きちんと馬から下りて手紙を受け取れ! それがポストマンとしての礼儀だろう!

 おまけに映画の最後では,この「馬を全速力では知らせながら少年の手紙を掴もうとするポストマン」が銅像になっちゃうのです。これはマジ,恥ずかしかったな。

(2008/02/05)

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