《隠された記憶 CACHE/HIDDEN 》 (2005年,フランス/オーストリア/ドイツ/イタリア)


 映画マニアにはえらく評判がいい映画で,この手の映画の最高傑作の一つ,なんて評価する評論家も多い。何しろ,次のように宣伝されているのだ。

名匠M・ハネケ監督、D・オートゥイユ主演で放つ、観客を惑わし、神経に触れ、不安に陥れる、ラストカットに全世界が震撼した“深層心理”サスペンスの最高傑作!テレビ局の人気キャスターであるジョルジュの元に送り主不明のビデオテープが不気味な絵と共に何度も届くようになる。ビデオテープに映し出されるのは、ジョルジュの家の風景と家族の日常。回を追うごとに単なる映像が徐々にプライベートな領域へとエスカレートしていく…。
 こういう映画を悪く言うのはすごく勇気がいる。なぜかというと,面白くない映画だったなんて書こうものなら,「この大傑作の真価がわからないとは馬鹿だな。脳味噌,腐っているんじゃない? こんなにわかりやすい傑作映画はないのに」なんて非難を浴びるのがわかっているもの。だから,「ちょっとわかりにくかったけど,すごくきれいな映像の連続で,しかも緊迫感に満ちていて,衝撃的な作品でした」なんて無難な文章でお茶を濁すのが利巧というものである。


 でも,面白くないものは面白くないのだ。断言するけど,普通の映画ファンにとってはどうでもいい映画の一つじゃないかと思う。封切時のポスターには「ラストカットに全世界が驚愕」なんて仰々しい文字が躍っているけど,そんなラストカットなんてなかったぞ。何度見直しても,すごーく詰まんねえラストカットしかなかった。何で小学校の下校風景に驚愕しなきゃならないんだよ。おら,わけがわかんねえだよ。


 映画のストーリーは上述の宣伝文の通りで,ニュースキャスターをしている男と彼の妻が主人公。二人にはピエロという名前の子供がいて,ごく普通のいい子で水泳が上手。そういう幸せな一家にビデオテープが送られてきて,それを観ると一家の自宅が延々と映っているんだな。要するに,どこかから監視されているわけだな。おまけにそこには,不気味な絵まで添えられている。そしてそれが何度も繰り返して送られてくるもんだから,夫婦はどんどん不安になるわけね。ついに夫が生まれ育った実家まで監視する映像を収めてテープが送られてきて,ここで夫は,6歳の頃,ちょっと一緒に暮らしていたアルジェリア人の同い年の男が犯人じゃないかと疑い始めるわけ。何しろ,この夫はアルジェリア人にひどいことをしたことがあるんだよ。それを恨んでの犯行だろうというわけね。

 でも,実際の事件が起きているわけでもないので警察は取り合ってくれないのさ。そうこうしているうちに,ピエロが帰ってこないという事件が起こり,誘拐されたんじゃないか,誘拐したとしたら例のアルジェリア人親子だろうってんで,警察と踏み込むんだけど,ピエロ君は見つからないの。いよいよ心配になっていたら,ピエロは翌日帰ってきて,単に友達の家にお泊りしていただけと判明。ところがピエロ君の態度がなんだか変で,どうやら母親が浮気をしていると思い込んでいるわけよ。そしてその頃,夫がアルジェリア人の家(だっけ?)に呼び出され,「自分はビデオなんて撮影していない」と言ったかと思うと,いきなり自分の首を切って即死しちゃう。そして・・・,というような映画だったと思う。


 こんなストーリーだと,普通はサイコスリラーとかサスペンス映画かと思うんだけど,そう思ってこの映画を見始めると肩透かしを食う。何しろ,最後まで見ても誰があのビデオを撮影して送りつけてきたのかは明かされないからだ。結局この映画は,何が起きて,どうなったのか,全くわからないままに終わってしまうのだ。「全世界を震撼させたラストカット」にしても延々と小学校の下校風景がダラダラと映っているだけで,せめてラストだけでも震撼させてほしいと思っても,それすらかなえられない。

 もちろん,このラストカット,深読みしようとしたらいくらでも深読みできるし,子供の日常風景の中にも悪意ある行動が隠れていることもあるんだよ,ってな真意かな,という気もするが,その程度だったら他にもいくらでも映画があるわけで,2時間見てこの結論かよ,とツッコミを入れたくなる。

 同様に,ピエロが疑う母親の不倫にしてもその後の説明はないし,かと思うと,ランボーの詩をめぐる討論番組の収録風景とか,友人を招いての食事のシーンなどはすごく時間をかけているのに,それがストーリーには全く絡んでいないため,とてもバランスが悪いのだ。


 主人公の夫が子供のとき,アルジェリア人の子供に嘘をついてニワトリの首をはねるシーンがある。ここは多分本当にニワトリの首を切り落としたものと思われ,首がなくなってもしばらく飛び跳ねるようにしてやがて痙攣していくニワトリの姿がショッキングな凄惨なシーンだ。後半のアルジェリア人が自分の首を切って自殺するシーンと並んで,この映画の見せ場の一つなのだが,ニワトリを殺しちゃっていいのかよ,たかが映画のために・・・というツッコミを入れさせてもらう。

 それと,このニワトリのシーンの超リアルさと,アルジェリア人の自殺シーンの情けないほどのリアル感のなさのアンバランスさには,笑ってしまった。自分で首を切って即死するか? 首を切ったのに血が吹き上げるでもなく,ちょっと出血したくらいで死ぬか? このシーンだけ学芸会風なのである。おまけに,その場に居合わせた夫は助けるでもなく,首から出る血を押さえるでもなく,歩き回っては困った演技をして見守るだけ。しかも,目の前で人が倒れているというのに救急車を呼ぶでもなく,警察に連絡するでもない。このシーンで笑わない人はいないと思うんだけど・・・。ま,この映画全体が現実でなく,夢オチなんじゃないの,という可能性はあるけどね。


 この映画はずっと緊張感が続き,それを高く評価されているようだ。何しろ,最初から最後まで音楽が一切なく,観客は嫌でも映像に集中するしかないからだ。例えば,冒頭のシーンなんかはその例だろう。住宅の映像がずっと映しだされ,フランス語の文章がその映像に重なってくるシーンだ。観ているほうとしては,何が起こるんだろうと思って画面を凝視するしかない(・・・何しろフランス語が読めないから・・・)
 ところが,何も起きないのだ。延々と同じ画像を見せ付けられるだけだ。この映画では,このような「延々と同じ画像だけ」というシーンが何箇所かあったと思う。緊張感が続く,ともいえるけれど,正直に言えばかったるいだけだった。確かに,音楽で盛り上げる部分もなければ,音楽で不安を高める部分もないから,観客は映像に集中するしかないのだが,それって単に,不自然な強制された集中じゃないだろうか。


 じゃあ,この映画の本質というか根源にあるものは何かというと,どうやら「隠された記憶=原罪」という図式にあるらしい。つまり,主人公である夫が幼い時に犯した悪意ある悪戯があって,それがあのアルジェリア人を疑う原因となり,ひいてはこのアルジェリア人が自殺するという悲劇に結びつくわけだ。人は誰しも罪人,というわけね。だからこそ,この映画を見た欧米人(=キリスト教文明)は絶賛したんだろうし,逆に,キリスト教って馬鹿だな,と考える私みたいな罪深い人間には「何だ? この映画は」となるわけだ。

 それがキリスト教文明ってやつなんだろうが,過去数千年にわたって「原罪だ,原罪だ」って言い張ってきた手前もあるだろうが,原罪なんて,君たちしか信じていない概念であって,他の文明には原罪意識なんてないんだってことに,そろそろ気がついてもいいんじゃないだろうかと思う。だって,原罪なんて所詮は人間の脳味噌が生み出した概念なんだから,それを否定するのも脳味噌の仕事だろう。数千年前の人間の脳味噌が生み出したものに縛られ続け,それを否定もできずに守るだけってのは,あまりに情けなくないか? 理にそぐわないものは否定する・・・それが理性・知性ってもんだろう。違うか?


 原罪なんて意識がなくても人間社会はうまく運営できるし,原罪意識がなくても犯罪がない社会は現実に存在する。逆に,原罪意識があっても犯罪だらけの世界最強国家なんてのもある。なぜか・・・それは,現在という概念は人間が作り出したからだ。だから,それなしでも社会は問題を生じることなく動いていく。

 私に言わせれば,たかがキリスト教,たかが仏教,たかがイスラム教,たかがユダヤ教である。それらは所詮,昔の人間が作り出した幻想だ。それに縛られているほうが異常であり,滑稽だ。神なんて,いてもいなくてもいい存在の一つに過ぎないと私は思う。

(2007/11/20)

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