《es [エス]》★★★(2001年,ドイツ)


 大嫌いな映画である。「人間性をここまで深く追及した映画はない。観るのは辛いが,見るべき映画である」と評価する人も多い作品だが,私はこの映画,嫌いだな。だって,こんな映画を見なくたって,人間の本質とか残虐性なんてわかっているもの。過去の人類の歴史をちょっと勉強すれば,そんなの,わかるもの。「そんなことを言ったって,人間がどこまで残酷になれるものかは実験しないとわからないだろう」と考える人もいるだろうが,そういうお馬鹿さん連中とは友達づきあいはしたくない。

 これは1960年代に行われた心理実験を元に作られた映画とのことだが,この映画に起きたことが全て現実に起きたものかというと,多分違うんじゃないだろうか。あまりに非現実的な部分が多すぎるからだ。そのことについては後述する。


 あらすじをまとめると次のようになる。新聞に「2週間の実験に参加すれば報酬は4000マルク」という募集広告が出て,それに10数人の男たちが応募する。実はその事件は,ある大学病院の地下(?)に模擬監獄を作り,応募者を看守役と囚人役に分け,看守には「監獄の規律を維持すること」を命じ,囚人役には「看守の命令を守ること」が命じられている。元ジャーナリストで現在タクシー運転手をしている男タレクは,それが軍の秘密実験だろうと当たりをつけ,カメラを仕込んだ眼鏡を調達して実験に応募する。もちろん,新聞社にスクープとして売りつけるためだ。そして彼は囚人側に分けられ,2週間の実験が始まる。

 その実験は単なる実験のはずだった。しかし,看守役たちは「規則を守らせる」ためにどんどん暴力的になりサディスティックな残虐性をエスカレートさせていき,逆に,囚人役たちは誇りも尊厳も剥ぎ取られ,あるものは卑屈になり,あるものは発狂していく。

 4日目にして収集がつかない状態になったことを見た実験助手(女性)は,実験を発案した教授に実験中止を訴えるが,出世欲と名誉欲にとらわれた教授は耳を貸さず,実験の続行を決定する。そして,実験6日目,惨劇が起こる。

 とまあ,こんな映画である。


 まず,この映画をどうこう言う前に,この映画の元になった実験についてだが,こんな実験を本気で考えた心理学の教授がいたとしたら,よほどの馬鹿である。「権力を与えた人間がどう変化するか,実験しなければわからないじゃないか」ということかもしれないが,そんなの実験するまでもなく,答えは過去の歴史的出来事にあるからだ。つまり,歴史書を読めば実験なんかしなくたってわかるのだ。

 例えば植民地では何が起こったか。その植民地が2つの人種から構成されていたとする。過去にその民族間で争いが起きたことはなく,共存していた。そこをある国がいきなり植民地にしたわけだ。

 そこを占領した宗主国はどうするかというと,少数派民族に軍隊,警察などの権力と経済的利益,そして教育を与え,多数派民族には何も与えず差別的に扱うのだ(これが植民地政策の基本だ)。植民地を支配者と被支配者に分裂させて民族抗争を起こし,互いに争わせることで宗主国に不満を覚えなくさせるのが目的だ。これが安定した植民地政策の基本である。その結果,多くの植民地で支配者側の少数派はより強権的になり,秘密警察を作り,従わないものは拷問にかけてでも権力を守ろうとする。

 そして,第二次大戦後,宗主国は植民地の独立を認め,植民地は独立国となる。宗主国という重石が取れたとき,多数派(=被支配民族)の不満が爆発し,内戦の泥沼に突入している。


 ある集団を人工的に支配者と被支配者に分けるとどうなるか,何が起こるかは,この植民地の歴史が全てを物語っている。それが人類の歴史である。

 要するに,実験なんかしなくたってゲロが汚いことは誰でも知っているし,糞が臭いことも知っている。権力で他人を押さえつける快感を覚えてしまったら,その権力を守るために色々なことをするのが人間だということも誰でも知っているし,権力で押さえつけられたら反抗するか,権力におもねて卑屈になるか,そこから逃げ出すかのいずれかだということも知っている。そんなことは実験しなくたってわかるよね,というのが常識であり良識というものだろう。その意味で,この映画の元になった実験とは要するに「ゲロが汚いものであることを証明するための実験」に過ぎないと思う。


 第一,この実験で看守役があそこまで暴走するものか,という根本的疑問があるのだ。私は映画を見ている最中から非常に気になっていた。

 この実験とは要するに,2週間という期間限定の看守・囚人ごっこである。2週間の実験期間が終わってしまったら,それでおしまいである。実験参加者同士は互いに面識はないが,実験が終わって実社会に戻ったときに,偶然町で顔を合わせないとも限らないのだ。というか,その大学病院に来るくらいだから,全員が比較的近いところに住んでいる可能性のほうが高いはずだ。道でばったりと囚人役と看守役が出くわしたとき,囚人役は看守役に笑って挨拶できるだろうか。何しろ,あそこまで一方的に痛めつけられ,傷つけられているのである。普通だったらそこで看守役を殴り殺すだろうし,道で出会わなければ看守役を一人残さず見つけ出し,報復するんじゃないだろうか。そうしなければ気がすまないし,看守役はそういうことをしでかしてしまったと思う。

 要するに,この看守役たちの権力は期間限定のものであり,いわばバブルである。それは看守役たちにもわかっているはずだし,それに気がつかないとしたら大馬鹿である。


 アウシュヴィッツの看守たちやポルポトによる大量虐殺は,ナチス政権,ポルポトの天下がずっと続くと考えていたからできたことだと思う。つまり,自分が生きているうちにナチスやポルポト体制が崩れるなんて考えていなかったから,何でもできたのだ。

 つまりこれは,「大金をあげるからいくらでも使ってもいいよ」というのと,「大金をあげるからいくらでも使っていいけど,使った分は君の借金だからね」というのとの違いだ。借金になるとわかって大金を使う馬鹿はいないと思う。


 もしも本当にこの映画の元になった実験があって,この映画のような結末を迎えたとしたらかなり疑わしい。なぜかというと,もしも看守役の中で一人でも,「2週間たったら自分たちは看守でなくなるし,奴らも囚人でなくなる。あまりひどいことをしたら,後で仕返しされるかもしれない」と考え始め,他の数人を説得し始めたら,この実験は成立しなくなるからだ。

 つまり,看守役と囚人役にランダムに人を分けて心理実験を始めたとしても,看守役が彼らの看守としての権限は2週間限定のものだ,ということに気がついた瞬間,彼の行動は変化するだろうし,それは,実験を計画した側にとっては一種のバイアスになってしまうだろう。もしも本当に,このような実験をして人間の心理を探るのであれば,看守と囚人という関係は無期限に続くとしなければ意味がなく,この映画の元になった「2週間限定の実験」は最初から意味がないのである。この程度のことなら,実験の計画をしている途中で誰かが気がつくはずだし,研究者なら気がつかなければおかしいと思う。


 だから私は,こういう実験があったということすら疑わしいと思うし,実験が本当にあったとしても八百長実験,つまり,看守側は最初から決められていて,しかもどう行動するかが命令されていたと思うのである。つまり,実験者が最初から想定した結論が起こるように仕組んだインチキ実験だったと思うし,行っても何も得られない実験だったと思う。


 というわけで,人間がどれほど汚いゲロを吐くのかは実際に見ないとわからない,ウンコがどれほど臭いかは実際に嗅がないとわからないという人は,是非この映画を見てください。うんざりするほどのゲロとウンコを鑑賞できます。

(2007/11/16)

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