《ゴールデンボーイ Apt Pupil》 (1998年,アメリカ)


 こういうスティーブン・キング原作の映画を見るたびに,私ってキングの小説を一つも読んだことがなかったことに気がつく。手当たり次第に本を読んでいた頃,駅の本屋さんで慌てて買ったキングの小説を新幹線で読んだことがあるんだけど,それが全然面白くなくて,あまりの詰まらなさに乗っていた新幹線のゴミ箱に捨てちゃったんですね。あれ以来,キングの小説には手を出さなくなったんだよな。

 で,その後,週末は移動ばかりする生活になってしまったために暇つぶしに映画を見始めるようになり,そこでキング原作の映画も見るようになったわけだが,どれもいまいち面白くないんだな。一通り観終わった時,「それで結局,この映画は何を言いたかったわけ? 何を伝えようとしたわけ?」というもどかしさばかりが残るものばかりなのである。
 この映画も悪い作品じゃないし,暇つぶしとしてみる分にはそれなりに面白いし,ナチによる大量虐殺とか,ホロコーストとか,そういうのを思い起こさせる力はある映画だとは思いますよ。でも,「人間の心の闇」とか「誰しも持つ残虐性の恐ろしさ」とかを言いたかったのか,あるいは「ナチスで大量虐殺をした人間は,死ぬまで残虐性を持っているものだ」ということを表したかったのか,そこら辺がよくわからないのである。前者だとするとこれは人間普遍の問題になるし,後者だとするとそれは個人の問題になる。そのあたりが,私のような「原作を知らずに映画だけ見る」人間には十分に伝わってこないのだ。

 ちなみに,監督は以前紹介した傑作映画,《ユージュアル・サスペクツ》の監督である。


 ま,一応,映画のストーリー。

 成績優秀な高校生(?)のトッド(ブラッド・レンフロ)はふとしたことから,おなじ町に住む老人が元ナチスの将校で,捕虜収容所でユダヤ人大量虐殺をした人間としてイスラエルが追っている人物,ドゥサンダー(イアン・マッケラン)であることを知る。しかしトッドはそのことを警察に通報せず,ドゥサンダーに正体を知っていると話し,通報されたくなかったら自分に捕虜収容所で何があったか,囚人たちはどうやって死んでいったかを教えるように迫る。毎日のようにドゥサンダーの家に押しかけて当時の話を聞くうちに,トッドの要求は次第にエスカレートしていき,ナチス将校の軍服を手に入れてそれをドゥサンダーに着させ,行進するように命令する。そしてこの時,老人の中に眠っていた何かが目覚めてしまい,トッドと老人の力関係は逆転することになる。やがて,老人の自宅で一つの事件が起き,それをきっかけにしてトッドまでもが殺人を犯してしまう。しかし,ふとしたことから老人の正体が世間にばれ,トッドと老人の関係に疑問を持つ男が現れ・・・というような映画である。


 まず,ドゥサンダー役のマッケランがいい。元ナチス戦犯というネタでゆすってくるトッドに対し,心理戦で揺さぶっていき,主導権を握るまでの過程はお見事。理論的に考えれば,トッドとの取引材料では絶対にドゥサンダーのほうが不利というか,取引材料にもならないはずなんだが,マッケランの老獪な演技はそういう不自然さを感じさせないのはさすがだ。

 それに対するトッド役のレンフロ,美青年というか美少年です。しかも,前半,ドゥサンダーを追い込んでいく場面(特にナチスの軍服を無理やり着せるところ)なんか,底意地が悪くて性格の悪さは憎たらしいほどで,これまた素晴らしかった。「性格の悪い美少年」ってのは現実に身近にいたら嫌だけど,映画の画面では華があるね。

 また,この映画はどちらか・・・といわなくてもゲイの香りがたっぷりで,浮浪者のシーンとか,指導カウンセラーのしぐさとか,まさにゲイそのものという感じだし,トッドにガールフレンドがお色気たっぷりに迫ってくるんだけどトッドがそれに応じない,なんて場面は明らかにそっち方面の観客は喝采するんでしょう。また,ところどころにあるレンフロの裸(もちろん上半身だけだよ)のシーンなんて,そっち方面の嗜好のある観客へのサービスシーンとじゃないかと思う。逆に,そういう嗜好がない観客(もちろん私もこちらに含まれます)はちょっと辟易かな?


 では次に残念な点だが,説明不十分な点が少なくないことが気になった。例えば,トッドがナチスの虐殺に興味を持つようになった経緯が全くわからない。歴史の授業でホロコーストのことを教えられるシーンがあり,教師が「もっと深く知りたかったら図書館で調べなさい」というが,それだけでここまで興味を持つか,という気がする。観客を納得させるのであれば,この授業の前からトッドがどういう人間だったのかを描かなければいけないはずだし,そうでないからトッドの行動は唐突なものとしか思えないのだ。

 トッドの興味とは要するに,「人間はどんなに残酷なことができるのか,人間はどんな風に死んでいくのか」という方面への興味であり,要するに鬼畜系の興味である。倫理的にはまずいかもしれないが,ま,そっちの方面に興味を持つ人間がいるのは事実だし,そういう映画は掃いて捨てるほどある。問題は,そういう興味が「元ナチス戦犯探し」という方向に結びつくのか,という点にあるのだ。まさにこの映画の基本となる設定である。ここに無理があるのだ。

 トッドは人間が残虐に殺された様子に(恐らく元々)興味があり,それをもっと知りたくなって,ナチスの強制収容所で実際に虐殺に当たった人間を探し出し,そいつから直接話が聞こうとした,というのが映画前半の流れである。そのためにトッドは,イスラエル政府が公開している「まだ捕まっていないナチス戦犯」リストを手に入れ,戦犯たちの指紋のデータを入手する。そして,たまたま乗ったバスに乗り合わせた老人の横顔を見て,彼がそのナチスの戦犯の一人だろうとあたりをつけ,彼の指紋を入手して前述の指紋と照合するのだ。これがこの映画のそもそもの発端である。


 だが,これってすごく不自然じゃないだろうか。「ナチス収容所の将校に話を聞きたい」と考えるのはいいとしても,そういう将校は世界各地に散らばっているはずだし,逃げて生き延びている将校は年々死んで少なくなる。だから,日常生活でこういう将校に遭遇する確率はほぼゼロだ。おそらく,新幹線の隣の席にアイドル歌手が座る確率より低いだろう。まして,入手できる将校たちの写真は数十年前のものである。毎日その数十年前の写真を見て覚えたとしても,たまたまバスに乗り合わせた老人がその一人だとわかるものだろうか。多分無理だと思う。

 要するに,「残虐なことを知りたいから,元ナチス戦犯の将校に会って話が聞きたい」という基本設定自体に無理があるのだ。キングの原作小説ではこのあたりをどう説明しているのかわからないが,少なくともこの映画では理解不能である。

 そういえば,映画の最後のほうで,老人が心臓発作を起こして病院に入院し,たまたま隣のベッドに寝ていた患者が実は第二次大戦にナチスの捕虜収容所に収容され妻子をドゥサンダーに殺された男だった,というのも無茶すぎる。ナチスの将校と収容所にいたユダヤ人の男が同じ街にいる,というだけでも「ありえねー」という感じなのに,その二人が全くおなじ時期におなじ病院に収容され,おまけに隣同士のベッドというのは,いくらなんでも「ありえねー」と思う。こ二人が入院している病院は画像で見る限りかなりの巨大病院なのだから,おなじ時期に救急室に搬送されたとしても二人が隣のベッドになるという確率はこれまたかなり低い。この部分はあまりにも都合よすぎるために,観ていて笑ってしまった。


 あと,老人の家に浮浪者が入り込み,そいつを老人が殺すのはありとしても,後から訪ねてきたトッドを地下室に閉じ込めるシーンも意味不明。あの時点で,老人には浮浪者が本当に死んでいるのか,まだ生きているのかはわかっていなかったはずだし,そういう状態で浮浪者のいる地下室にトッドを閉じ込めて,この老人はトッドに一体何をしてほしかったんだろうか,何のために閉じ込めたんだろうか。何度考えても意味がわからなかった。

 そして何より最悪なのが《ゴールデンボーイ》という邦題。なんだ,このタイトルは? 意味,ねーじゃん。原題は《Apt Pupil》,つまり「優等生」とか「よく出来た生徒」という意味だ。この映画を見終わるとわかるが,トッドは優等生だがゴールデンボーイではない。大学の総代を務めるが,基本的には勤勉な優等生だ。優等生だからこそ,元ナチスの老人と接することで次第に彼の悪魔性が明らかになる過程が怖いのだ。だからこそ,この映画のタイトルは原題の《Apt Pupil》に忠実なものにすべきだったと思う。何でこんなにセンスの悪い邦題にしちゃったんだろうか?

(2007/11/13)

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