フェルメールの名画「真珠の耳飾りの少女(別名:青いターバンの少女)」を素材にした,絵画を思わせる重厚かつ極美の映像美に溢れる映画である。舞台となっているオランダの町並みの美しさ,そして,その町で生まれたフェルメールの絵の美しさには息を呑むばかりである。恐らく,絵画好き,フェルメール好きにはたまらない映画だろう。
だがこの映画は,観客を選ぶのである。選ばれた観客はそのものズバリ,絵画好きにしてフェルメール愛好者だ。それ以外の「普通の映画愛好者」には,何がなんだかよくわからない,という映画ではないかと思う。以前《マーラー》という映画を紹介したが,これとまさに同じである。要するに,マーラーやらフェルメールが大好きという人間には一瞬も目を離せない面白さなんだけど,そうでない人にとっては,そもそもの設定からしてよくわからない,という感じなのである。
映画のタイトルとなっている「真珠の耳飾りの少女(別名:青いターバンの少女)」はこのような作品だ。静謐でありながら動きがあり,少女の表情は清純でありながら官能的であり,見るものの心を射抜くような眼差しが印象的な作品だ。この一枚の絵を元に,壮麗な物語を紡ぎ出すのがこの映画だ。
ではちょっとだけ,フェルメールについて。ヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer, 1632-1675)はオランダの画家。レンブラントの弟子の弟子にあたるらしい。40年足らずの生涯でしかも遅筆であったため,現存する真筆は35点ほどで,1年にせいぜい2作程度を描いただけらしい。
さて,本映画のテーマである《真珠の耳飾りの少女 Girl with a Pearl Earring》である。非常に印象的な作品だが,この少女が誰なのか,昔から議論されていたテーマらしい。当初は,フェルメールの末娘のマリアがモデルではないかといわれていたが,製作年とマリアの年齢と絵の少女の年齢が合わないことから疑問を呈する人もいるようだ。
そして,モデルの少女がかぶるターバンは女中の服装のようであるのに,彼女の耳に輝く真珠の耳飾は高価なものに見え,そのアンバランスさも以前から指摘されていたらしい。これらの事実から,「絵のモデルはフェルメール家の女中の少女であった」という推理を元にした小説が生まれ,それを映画化したのが本作品なのである。
で,どういう映画かというと,家が貧しい少女グリート(スカーレット・ヨハンソン)がたまたまフェルメール(コリン・ファース)の家に女中として奉公し,やがて,鋭い色彩感覚をフェルメールに見出され,弟子としてフェルメールの仕事を手伝うようになるが,二人の関係を嫉妬して出来ているのではないかとかんぐるフェルメールの妻に疑われ,新作のモデルになったばかりに,「絵のモデルも一緒にいただく約束だろ!」と迫るフェルメールのパトロンに迫られる・・・ということになると思う。
まず,圧倒的に素晴らしいのが,撮影当時19歳だったスカーレット・ヨハンソンの圧倒的な美しさだ。映画の中では喋るシーンは非常に少ないが,目の表情で全てを物語っている。これは見事としか言いようがない。そして,最後に「真珠の耳飾」をつけ,振り返る姿はフェルメールの絵画の少女をはるかに凌駕する美しさだ。実際,ヨハンソンに重ね食わせるようにフェルメールの原画が映るシーンがあるが,どう贔屓目に見てもヨハンソンの方が美しいと思う。このシーンを見るためだけにこの映画を見る価値があると断言する。
細部にちりばめられる絵画の知識も楽しい。「アトリエの窓を掃除していいですか?」「いいわよ」「でも,窓を掃除すると窓から差し込む光が変わってしまいます」なんて会話は見事である。これだけで,少女グリートの色彩に関する感性を見事に描いている。
そして,17世紀のオランダの風景の再現も圧倒的に素晴らしい。当時の家の作り,主要な交通手段としての運河のありかた,市民の飲み水の確保方法,市場の雰囲気など,思わず見とれてしまうほどだった。
そして,画家とパトロンの生々しい関係も如実に描かれている。パトロンの意にそぐわない絵を描いても,それはパトロンに買ってもらえないわけで,生活のためにはパトロンからの注文に応えるしかない。これは絵画だけでなく音楽でも同じで,ハイドンもモーツァルトも,パトロンの注文に応じて,ホイホイと注文作品をこなしていた。それがプロの作曲家としての生き方であり,それができない作曲家はプロにはなれず,飢え死にするしかなった。
そういう意味で言うと,フェルメールは「注文をこなして量産できる」画家ではなかったし,「自分の好みを殺して作品を書ける」画家でもなかった。その意味では,フェルメールはプロではなくアマチュアの画家だったのではないかと思う。要するに「心はアマチュア,腕はプロ」である(開高健の名言)。
また,「マスオさん」としてのフェルメールの苦悩もよく描かれている。どうやらフェルメールは婿養子らしく,家では強大な権力を振るっている姑が全てを仕切っているのである。しかも彼女は,絵は単なる商品と思っている。,芸術家肌の婿養子は辛いのである。
さて,映画に話を戻す。この美麗・華麗な映画の欠点は何か。それは,物語としてあまりに平板であり,起伏がないことにある。物語の進行が一直線で,枝葉の部分があまりなく,「絵画の奥行き」はあるのに「映画としての奥行き」が全くないのである。フェルメールのファンだったら,フェルメール役の役者の筆遣いの一つ一つ,顔料の製造法が興味の対象になるだろうが,そうでない映画ファンにとっては,退屈極まりないのである。
それから,肉屋の徒弟,ピーターとの恋物語も物語り全体からすると余計な気がする。確かに,「パトロン@ヒヒ親父」に襲われそうになり,何とか逃げ出して淡い思いを寄せていたピーターに身を委ねる,というのはわかるけれど,その後,ピーターが活躍する場面があるわけでないし,ピーターが主要な役割を果たすわけでもないのである。要するに,ピーターはいてもいなくてもいい人物だ。
そして,こういう出来事に対するグリートの感情の動きがほとんど描かれていないのである。彼女が自分の感情を言葉に出すことがないのだ。
あと,フェルメールの長女による,グリートへの陰湿ないじめがあるんだけど,それが全然生きていない。グリートはそれに怒るわけでもなく,反発するわけでもなく,抗議するでもなく,淡々と受け入れているだけである。せっかく,「フェルメールの長女」という,いわばボスキャラを登場させているのだから,このあたりはもっとドラマチックに展開できたと思う。
というわけで,画面はこれ以上ないという美しさだが,物語性が希薄な映画である。それはあまりに主人公のグリートが無口すぎ,感情をほとんど外に出さないためだ。もちろん,口に出して言わない分,フェルメールのモデルになった時の表情豊かさが際立ち,そのギャップが鮮烈なのだが,こういうグリートの設定はやはり両刃の刃だったような気がする。
(2007/10/05)