新しい創傷治療:オール・アバウト・マイ・マザー

《オール・アバウト・マイ・マザー》 (1999年,スペイン)


 映画マニアの間では知らないものがいないという超有名な作品。たいてい,こんな具合に絶賛の嵐を伴って紹介されている。

カンヌ映画祭で上映されるや、世界中のマスコミから“キャリアの集大成、文句なしの最高傑作”と絶賛を浴び、見事最優秀監督賞の栄冠に輝いたヨーロッパを代表する巨匠ペドロ・アルモドバル。愛し、傷つき、悩みながらたくましく生きていく女たちを、独特のユーモアと洗練された映像で描き続けた彼の最新作は、全女性に贈られた人生賛歌。
TIME誌は『マトリックス』を抑え、年間ベスト1に本作を選び、「この映画を観て何とも感じない人は、心臓専門医に診てもらうことをお薦めする」と手放しで称賛。エンターテインメント・ウィークリー誌でも、超大作『トイ・ストーリー2』を抑え年間ベスト1の栄誉と注目を獲得。ヨーロッパの各国、アメリカでも各映画賞を独占し、早くもアカデミー賞外国語映画賞のみならず作品賞、監督賞、主演女優賞の最有力候補と目されている今世紀最後の感動作である。

 というわけで,アカデミー最優秀外国語映画賞をはじめ,世界中の32の映画賞を総なめにしています。おまけにラテン系の各年代を代表する名女優が揃って出演したことでも有名で,主人公のマヌエラを演じるのはアルゼンチンのトップに君臨するセシリア・ロス,舞台女優のウマを演じるのはベテラン女優にしてスペインの名花,マリサ・パレデス,そして,黒髪の若い修道女を演じるのはスペインの若手のトップ,ペネロペ・クルスと言った具合だ。

 そして監督はアルモドバル。カルト映画の巨匠と呼ばれ熱狂的ファンを持つ人で,その彼が満を持して取り組んだ本格映画とのこと。しかもエンドロールに流れる「すべての母親に,そしてすべての女性に捧げる」なんて言葉まで・・・。

 こういう映画に自分の感想を正直に書くのは難しい。「で,どこが良いの,この映画?」なんて絶対に書けないもん。袋叩きに会いそうだ。

 いい映画と悪い映画に分けるとこれは文句なしにいい映画だ。面白い映画と面白くない映画に若手も文句なしに面白い映画だ。感動を覚えた映画と感動しなかった映画に分けても,これまた感動作に入る。だが,大絶賛するほどのものではないような気がするがどうだろうか。もちろん,世界中の映画評論家が手放し・大絶賛していることは十分に知っているが,何か基本的なところで説明不足というか,都合よすぎる展開に頼り過ぎているからだ。


 ま,とりあえず,ちょっと内容の紹介。

 マドリードで16歳の息子エステバンと二人で暮らす38歳のシングルマザー,マヌエラがいる。彼女は臓器移植のコーディネーターをして子供を育てている。エステバンは作家になることを夢見ていて,舞台女優のウマ・ロッホの大ファンだった。彼の17歳の誕生日の日,ウマの舞台を見に行き,彼女のサインを貰おうと楽屋口で母親と二人,土砂降りの中で待っていた。ようやくウマは姿を見せるがそそくさとタクシーに乗ってしまう。あきらめきれないエステバンはタクシーを追いかけるが,その時,横から走ってきた車にはねられて重傷を負い,そのまま脳死状態に陥る。回復の見込みがないことを知らされたマヌエルは辛い選択を迫られ,ついに心臓移植のための心臓摘出同意書にサインをする。

 残されたエステバンのノートから彼が,自分の父親のことを母親から全く話してもらえないことを悲しんでいたことを知り,17年前に逃げ出したバルセロナに戻り,かつての夫を探し,エステバンの死を伝えようと決意する。

 バルセロナに戻ったマヌエラは偶然,親友のアグラードと再会する。彼はいわゆるニューハーフ(つまり,豊胸手術を受けたが下半身はまだ男性のまま)だが,心優しく,義理に厚く,人生の機微に通じていた。バルセロナでの生活が始まってすぐに,娼婦の社会復帰活動をしている若い修道女ロサ(ペネロペ・クルス)と出会うが,彼女は妊娠していて,しかもエイズに感染してしまったことから,自宅では生活できなくなり,マヌエラのアパートに転がり込むことになった。彼女を妊娠させエイズを感染したのは,何とかつてのマヌエラの夫だった。そしてこの夫もニューハーフだった。

 丁度その頃,女優のウマの劇団もバルセロナにきていて,ひょんなことからマヌエラはウマの付き人となり,やがてロサの体調が思わしくなくなったことからアグラードをウマに紹介し,マヌエラの代わりに付き人として働き始める・・・という感じの映画だ。


 こうやって文章化すると明確になるが,この作品のストーリーは要するに,偶然の連続である。どこをとっても必然性のある流れがない。「たまたまであった人が偶然にも昔からの知り合いで・・・」の積み重ねなのである。

 例えば,冒頭のエステバンの事故死にしても,走り去っていくタクシーを走って追いかける必然性が全く感じられないのだ。それは,その前のシーンで,エステバンが女優のウマ(年齢は50代くらいの設定だと思う)の熱狂的ファンであることが充分説明されていないし,ノートにさまざまメモを書いている作家志望の少年と,彼の祖母の年齢に近い女優の演技に夢中になることがどうしても結びつかないのだ。

 また,マヌエラが臓器移植コーディネーターという特殊職業にした必然性もよくわからないし(エステバンが脳死状態になり,臓器摘出の書類にサインするというのは涙を誘うシーンだが,だからといって臓器移植コーディネーターである必要はない),修道女のロサの母親がシャガールの贋作作家,というのは極端過ぎないだろうか。確かにシャガールは模写しやすい画家の筆頭で贋作が多いことは有名だが,ロサの母親が贋作画家であるというのはその後の展開には一切かかわってこないのである。だったら,何もこんな特殊な職業(?)の人物設定にする必要もないだろうと思う。

 しかもロサの実の父親はアルツハイマーで自分の娘もわからなくなっているという設定だし(しつこいようだが,父親がアルツハイマーである必然性も必要性もほとんどない),二人しか登場しない男性はどちらも巨乳のバイセクシャルである。そしてその一人は,エステバンの父親でありロサのおなかの子供の父親でもあるのだ。ただでさえ少ない登場人物の中に,これでもかこれでもかと,濃ゆい人間関係が詰め込まれていく。これを不自然といわずして,何が不自然だといいたい。


 マヌエラとアグラードの再会も偶然だし,マヌエラがウマの楽屋に初めて行くシーンも不自然だ。なぜあそこで,ウマと競演している若手女優のについてのウマの質問に,マヌエラが答えられたんだろう? 何しろこの二人は初対面同士なのだから,会話が最初から成立しないと思うんだけど・・・。

 ロサの産んだ赤ちゃんも,生まれた時にエイズに感染したが,世界中の研究者がびっくりするスピードでウイルスに対する抗体を作り,もう感染の心配がない,という最後の部分はよかったね,という感じだが,これもあまりに都合よすぎないか?

 もちろん,極端な条件設定,ありえない舞台設定でしか描けない世界があることはわかるし,ニューハーフの巨乳男性を二人登場させることで,女性になろうとして必死に努力して得られる美しさを通して,本当の美しさの意味を描こうとしたのかもしれないが,ここまで偶然の連続が重なってしまうと,普通の感覚ではついて行きにくい。基本的にとてもいい映画なだけに,ここまで不自然な設定にする必要はなかったような気がして,感興がそがれてしまった。


 もちろん,実はスペイン男性のほとんどはニューハーフで,みんな巨大なオッパイとオチンチンがついているんだよ,というのなら話は別だけど・・・。

(2008/07/30)

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