新しい創傷治療:コックと泥棒、その妻と愛人

《コックと泥棒、その妻と愛人 The COOK, The THIEF, His WIFE & Her LOVER 》 (1989年,イギリス/フランス)


 1989年発表とちょっと古い映画だが,今でもその面白さは超一級品だ。何しろ,監督は巨匠グリーナウェイ,音楽はマイケル・ナイマン,そして美術担当はゴルチェである。1980年代のヨーロッパ芸術の全てをぶち込んだような映画である。レストランの内装や調度,美しくもはかない音楽など,それだけでも元を取った気にさえなってしまう豪華絢爛さだ。

 しかしこの映画は同時に,ムチャクチャ下品でお下劣で暴力的で猥雑で,そこらにゲロと小便を撒き散らしたように汚らしいのである。野犬はやたらとうろついているし,たるんだ中年男の裸が何度も出てくるのだ(少なくとも私は見たくないぞ)。高級料理は登場するけれど,それを作っている厨房ではアヒルの羽をむしり,骨を断ち切っては鍋に投げ入れて煮ているわけで,画面を突き抜けて濃厚な調理場の匂いが漂ってくるのである。なんともパワフルで,何だかとんでもないものを見てしまったなぁ,と圧倒される。

 表現はかなり過激で,グロのシーンは満載だし,最後にはトンデモない残酷(?)シーンがあるため,決して万人にはオススメしないが,清濁併せ呑み,多少(?)のゲロ・グロくらいではたじろがないから,すごい映画を見たい,という人にだけ自信を持ってオススメする。そういう奇特な人以外は見ちゃだめだよ。

 ちなみに,日本語タイトルだけだと人間関係がわかりにくいが,映画のタイトルを見るとよくわかる。高級フランス料理店のシェフ,そのレストランのオーナーにして常連客の泥棒,泥棒の妻,そしてその妻の愛人,ということになる。


 それにしても,予備知識がなければこの映画が何を描いているのかは,なかなかわかりにくい。冒頭,映画のスクリーンが幕を開けるように始まり,車が一台走ってきたかと思うといきなり数人の男が外に出,いきなり一人の中年男を丸裸にするのだ。おまけに,その男の口に泥を塗りつけて全身を汚し,その周りを野犬が何匹もうろついている。一体何が起こっているのかわからないまま,男たちと一人の女は広い調理場と思われるところに入っていく。もうもうと上がる湯気,転がる肉や野菜の匂いがこちらまで漂ってくる。すると突然,美しいボーイソプラノの声で聖歌かルネッサンス期音楽のような歌声が聞こえてくる。厨房の中で一人の少年が歌っているのだ。夢なのか現実なのか,それすら定かでない。一体これは何なのか。それは後述するように,1980年代のロンドン,そして英国の状況を象徴的に描いたものらしい。これについては後ほど説明する。

 あらゆる欲望に忠実で,あらゆる富を持つ男,それがアルバートだ。どうやら泥棒たちを束ねている大元締めらしい。彼は粗野で粗暴で,教養なんてゴミ同然だと考えている。彼は美食家であり,有名フランス料理店のオーナーでもある。その料理店のシェフがリチャードで,彼の腕を見込んでアルバートが連れてきたらしい。その店に毎日手下どもと一緒にアルバートが連れてくるのが彼の妻のジョージーナ。だが彼女は,夫の粗暴で無教養で傍若無人な振る舞いにうんざりしている。手下たちとの食事の際にも片時も黙らずに下品な話を一方的にマシンガン・トークする夫には,もう我慢の限界だった。

 そんなある日,ジョージーナはレストランの片隅で本を読みながら食事をする男を目にする。本を読むこともない夫ばかり見ている彼女の目には,一心不乱に読書をする男,マイケルが新鮮に見え,その物静かな姿に彼女は一目ぼれしてしまう。そしてちょっとしたことから二人は体の関係を持ち,たちまちのうちに恋の炎が燃え上がってしまう。そして二人は毎晩,示し合わせては厨房に姿を消し,そこで短い逢瀬を楽しんでいく。

 最初,全く気がつかなかったアルバートだが,ちょっとしたきっかけから妻の不倫を知ってしまい,残虐な方法でマイケルを殺してしまう。マイケルが殺されたことを知ったジョージーナは夫への復讐を誓い,シェフのリチャードに一つの頼みごとをする。そしてアルバートの元に一通の招待状が届く・・・という映画。


 とにかく,悪党アルバートがすごい。善悪なんて知ったことか,金さえあればこの世は俺のもの,世の中の法律はどうでもいい,俺がしたことが唯一の正しいことだ,とやりたい放題である。レストランでも,手下たちにはテーブルマナーを守れと口うるさいのに,自分ではそのマナーをことごとく破り,そのくせ,手下の一人が自分の真似をすると激怒してボコボコにしてしまう。

 おまけに,食事の間中,肥溜めの汚穢のような言葉が口から流れ続けるのだ。うわあ,こんな奴がレストランの中にいたら,私ならすぐに絶対に外に出るだろうな。そして,二度とそこには行かないだろうな。でも,「あの客がうるさい! 支配人を呼べ!」というのはこの店ではご法度だ。オーナー様がこの肥溜め男だから。文句をつけようものなら,その客本人がやってきたかと思うとテーブルの上のスープをいきなり頭からぶちまけてくれるのだ。傲岸不遜,厚顔無知,傍若無人・・・なんて四文字熟語を並べ立てて煮詰めるとこういう男になる。映画の中の野犬はうろついているだけだが,野犬より始末が悪いと言える。

 妻のジョージーナはそんな夫に愛想を尽かしているが,逃げようがない。以前にも逃げようとしたことがあったが,逃亡先で捕まえられたという過去があるからだ。彼女にできることといったら,ちょっと嫌味を言うことくらいしかないが,そのあとで何をされるかわかったものではない。何しろ,暴力を振るうか,優しくするか,女性に対してそれ以外の選択枝を知らない男が夫だからだ。

 そういうアルバートに対等に口をきけるのはただ一人,シェフのリチャードしかいない。彼がいなければ,某君アルバートといえども,毎日の食事に事欠いてしまう。満足できる食事を作れるのはリチャードだけなのだ。だからこそ,彼が妻と愛人の密会を手助けしていることを知ってもなお,アルバートはリチャードに手を出せない。このあたりの人間関係の力学は見事だ。

 そして,読書家のマイケル。彼はいわゆる知識人であり,古典に通じ,芸術の造詣は深い。しかし,そういう能力はアルバートが支配している世界では意味を持たず,無能力者に過ぎない。同じことは,美しいボーイソプラノで歌うことができる厨房の少年にも言える。彼はうまい料理を作ることもできなければ,盗みをすることもできない。だから彼は,アルバートに簡単に痛めつけられ重傷を負う。アルバートの前では全く無力だ。彼の歌声に耳を貸す余裕がある世界でなら彼は優れた歌手として認められただろうし,同様にマイケルも大学教授くらいにはなれただろうが,ここはそういう世界ではない。


 アルバートが支配する世界とはつまり,そういう世界である。美しいもの,心奪われるものに目をやる余裕はなく,ただひたすら食うだけの世界。ガツガツと餌を食うだけの世界である。

 この映画でアルバートは美食家として紹介されている。実際,部下たちの食事の場面ではさまざまな料理についての知識を披露するし,厨房ではソースを一口なめただけでその素材を言い当てている。だが彼は,未知の料理を味わう能力はないし,未知のソースを楽しむこともできない。慣れ親しんだ料理の味をなぞっているだけだ。その意味で彼は美食家ではなく,あてがわれた肉にがっついている野犬と同じだ。


 なぜこういう世界になってしまったのだろうか。この映画に関する評論を読むと,当時のサッチャー政権との関係で論じているものが多いが,私もその考えでいいと思う。これは要するに,サッチャー改革後の世の中のカリカチュアなのである。そしてそれは,現代日本と無縁ではない・・・どころか,そのサッチャー時代と同じことをしようとしている政治家が政権の座にいたりするからだ。

 マーガレット・サッチャーは1925年生まれ。彼女は保守党の党首であり,1979年から1990年まで英国首相を務めた。英国で最初の女性宰相である。

 1970年代後半,英国は没落の一途だった。新しい産業は生まれず,「ゆりかごから墓場まで」という福祉政策は財政の足かせとなり,海外の新興国の躍進が加わって国際競争力は低下していたため,「没落する大英帝国」は「老衰するしかないかつての大国」になっていった。

 そこに異を唱えたのが,1978年に保守党の党首となったマーガレット・サッチャーだった。彼女は「規制緩和」と「民営化」を中軸に据えて「大きな政府から小さな政府への転換」を訴え,1979年の総選挙で勝利を収め,そのまま,イギリス史上初の女性宰相となった。そして,「規制緩和,民営化,大きな政府から小さな政府へ」は彼女の名前を取って「サッチャリズム」と呼ばれることとなった。

 ちなみに,ここでピンと来る人はピンと来たと思うが,「規制緩和,官から民へ,小さな政府へ」は小泉政権,安部政権の基本政策と同じである。


 首相になったサッチャーや矢継ぎ早にいろいろな政策を打ち出す。電話会社,空港,ガス会社,水道局の民営化を決め,改革の障害になっているとして労働組合を解体し,所得税を大幅に引き上げ,さらに消費税率を倍増させた。

 その結果,イギリス経済はどん底状態から脱して上向きになったが,同時に失業者の数も増える一方だった。同様に,金融面の緩和により海外資本が流入したために一次的に収益は上がったが,結果的に金融市場を海外資本に奪われる結果になり,国内金融企業は海外資本との競争の敗れてしまった。

 同時に彼女は教育改革にも着手し,地方単位の教育を認めず,中央一括管理の教育,教科書選定の方針を進めた。

 彼女は3回の総選挙全てに勝利したが,人頭税の新たな創設,ヨーロッパ連合への不参加・不信任への方針を打ち出したために急速に求心力を失い,同じ保守党のメジャーが政権を引き継ぐが,メジャー政権不支持の国民の声が高まり,労働党のブレアに敗れることになる。


 このようにして,10数年にわたるサッチャリズムは幕を閉じることとなったが,「規制緩和,民営化,小さな政府」は20世紀末から21世紀初めの自由世界に麻薬の如く蔓延することとなる。各国指導者たちはサッチャーの成功神話をなぞろうとした。

 サッチャリズム終焉から10年以上経った現在,この政策がもたらした世界がこの映画と同じだということには誰も異論ないと思う。金が全て,力が全て,権力が全て・・・を追求したのがサッチャリズムだったからだ。もちろん,彼女の頭の中には,「いつか,需要と供給のバランスが取れる。いつか見えざる神の手がバランスをとってくれる。人間はそれほど愚かでない」という考えたあったかもしれないが,結果的に,読書家のマイケルもボーイソプラノの少年も生き残れない世界になってしまった。「神の見えざる手」は,いつまでも待っても「見えざる手」に過ぎなかった。そして,知識を重んずる社会が崩壊し,芸術を生み出す人が生きられない社会になった。野犬の群れは恐らく,サッチャリズムが生み出した失業者の群れではないだろうか。ちなみに,イギリスの教育水準は21世紀に入ってから回復したが,それがサッチャリズムの結果なのか,その後の労働党政権による軌道修正の結果かについては,まだ結論がついていないようだ。

 こういう社会がどこに行き着くのか,その終点はどこにあるのか。それはこの映画を見ればわかる。人が人を喰う世界だ。喰うか喰われるかという経済社会,競争社会は,結局のところカンバニズムの世界と同じになる・・・と,この映画は看破する。そしてあの最後の恐るべきシーンで見事に描ききる。


 私たちの社会が目指しているのは,アルバートとその一党だけがわが世の春を謳歌する社会なの,ボーイソプラノの少年が歌えマイケルが本を読める社会なのか,とこの映画は20年たった今でも私たちに問いかけてくる。

(2008/07/25)

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