私は音楽映画にとても弱い。そして子供成長物語にも弱い。頑張る男の子にも弱い。その全てがこの映画に詰まっているのである。まさに私の弱点ど真ん中である。これでは泣かないわけにはいかない。今でも,幾つかのシーンを思い出すだけで胸が熱くなり,目頭がゆるんでくる。
これは,ブラジルでは国民的人気を誇る兄弟デュオ,ゼゼ・ヂ・カマルゴ&ルシアーノ(Zeze di Camrgo & Luciano)の伝記映画,波乱万丈のサクセスストーリーである。このデュオは1962年生まれのゼゼと1973年生まれのルシアーノからなり,これまでリリースしたアルバムは14枚で,総計2000万枚を超える売り上げを記録しており,ブラジル音楽界の押しも押されるトップミュージシャンである。
フランシスコはブラジルの片田舎で小作農として働いていた。妻エレナの父から借りた土地に住んでいて,古いラジオから流れる音楽を聴くのを楽しみにしていた。そしていつしか,子供ができたらミュージシャンにしようと考えはじめる。小作の子供は小作となるしかない。そこから抜け出すためにはミュージシャン(か,サッカー選手)を目指すしかない。しかしそれは途方もない夢だった。
やがて二人には男の子が生まれ,ミロズマルと名付けた。そして毎年のように子供が生まれ,子供は七人になる。まさに貧乏の子沢山である。そしてフランシスコは子供をミュージシャンにするという夢に驀進し,全財産をはたいて長男ミロズマルにアコーディオン,次男のエミヴァルにギターを買い与える。それを見た周囲の人たちは「フランシスコはついにイカれてしまった」と嘲笑した。
とはいっても,音楽の先生もいなければ指導者もいない。ただアコーディオンがあるだけだ。しかし,広場でアコーディオンを弾きながら歌う男にフランシスコが「子供に教えてもらえないか」と持ちかけ,最初は渋っていたが,少年の様子を見て一度限りのレッスンをつけ,アコーディオンの弾き方の基本を教える。やがてミロズマルは見よう見まねでアコーディオンが弾けるようになり,弟とのデュオは田舎で少しずつ知られていく。
しかし,フランシスコはついに地代を払えなくなり,土地と家を義父に取り上げられる。仕方なく一家は都会に引越し,そこで暮らすようになるが,慣れない仕事をするしかないフランシスコ一家の生活は次第に窮乏していく。ついに食料も尽き,妹たちは空腹に泣き出してしまう。一家を飢餓が飲み込もうとする。
その時,ミロズマルはエミヴァルに「一緒に来い!」と声をかけ,アコーディオンとギターケースを抱え,家を出て豪雨の中を一生懸命に歩く。そして市場に行き,勇気を奮って歌を歌う。天使のような歌声と絶妙のハーモニー,そして懸命に歌う健気な姿に立ち止まって聴く人が次第に増え,兄弟が置いた箱に金がたまっていく。幼い兄弟は一家の危機を救う。
そんな兄弟の前に音楽プロモーターと名乗る男ミランダが現れ,フランシスコに「絶対にスターになれる素質を持っている」と説得し,兄弟を車に乗せて連れ出す。当初,1週間の予定だったのに,兄弟は1ヶ月たっても2ヶ月たっても帰ってこないし,連絡も入らない。4ヵ月後に兄弟を伴ったミランダが戻るが,約束を守らないフランシスコはミランダを許さず,関係を絶つ。
しかし,そんなミロズマルに碌な仕事があるわけではない。1年後,ミランダは「心を入れ替えた。もう一度だけ信じて欲しい。この1年間,色々なデュオに会ったがこの兄弟のような素晴らしいデュオはいなかった。もう一度だけチャンスが欲しい」と,フランシスコとエレナに必死に訴えかける。フランシスコ一家にとってもミランダにとっても,這い上がる手段は兄弟デュオしかない。
そして兄弟は音楽活動を再開し,ミランダも少年たちの世話を必死にする。父親のように,友達のように兄弟の世話をするミランダの姿が何だかとても格好いい。
しかし,すべてがうまく行きかけてきたある日,悲劇が兄弟とミランダを襲う。
何とかそれから立ち直り,音楽ができるようになるが,今度は全く売れなくなってしまう。結婚したばかりの妻も生活のために働き出す。何とか新曲の録音までは漕ぎ着けたものの,ヒット曲がないという理由でレコード会社はレコード発売を渋り,ミロズマルは八方塞がりとなる。
息子たちのデモテープを手にしたフランシスコは,息子たちの苦境を救う奇策を思いつく。そして彼は給料全てを公衆電話用のコインに両替し,職場に向かい・・・・というような映画だ。
一言で言えばよくある映画だ。こんな筋書きの映画は珍しくもない。陳腐といっても言い。しかし,奇を衒うことなくストレートに描かれたフランシスコ一家の物語には圧倒されてしまうのだ。特に,最後の場面で本物の兄弟が歌うステージにフランシスコとエレナ本人が登場し,エレナが息子たちを抱きしめるシーン,そしてそれを見守るフランシスコを見たらもう涙が止まらなくなってしまった。そして兄弟の歌声の素晴らしいこと。魂を込めた歌声といったら言いのだろうか,伸びやかで心に迫ってくる歌である。そして実在のフランシスコがまたいい顔をしているのだ。年をとってこんな顔になれたらいいな,と思う,実にいい顔である。
そして,少年たちが雨の中を重いアコーディオンケースを持って歩き,市場で歌うシーンも泣けて泣けてしょうがなかった。空腹に泣く妹たちのために,知っている人が誰もいない市場で歌うのである。それも10歳くらいの少年が,だ。思い出しただけでまた涙腺が・・・。同じくらいの子供がいる人なら恐らく号泣ものだろう。
それにしても,父親のフランシスコは言ってみれば星一徹@音楽バージョンである。音楽の才能があるかどうかもわからない時期から「男の子ができたら音楽家にしよう」と一方的に決め付け,全収入でアコーディオンを買い与えるのである。これはどう考えても無謀だ,というか無理である。その前にハーモニカをミロズマルに買い与えるエピソードがあり,どうしようもない音痴だった彼が次第にメロディーが吹けるようになるのだが,これはハーモニカだったら納得できる。ハーモニカの場合は吸うか吐くかするだけで遊んでいるうちに音階らしきものが吹ける様になっても不思議はない。
しかし,ハーモニカが吹けるようになったから次はアコーディオン,というのはあまりに飛躍しすぎている。楽器としての複雑さはハーモニカの比ではない。少なくとも楽器の持ち方,音が出る原理くらいは教えてもらわないと,次のステップに進めないはずだ。いくらアコーディオン弾きに教えてもらったとしてもたったの一度である。このあたりは実際どうだったのだろうか。
それと,たまたまミロズマルは音楽の才能があったからいいようなものの,もしもそれが全くなかったらどうなっていたのだろうか。何しろ,家の全財産をかけたアコーディオンである。子供たちに立派になって欲しいと願う父親の一途な愛,といえばそれまでだが,こればかりは星一徹@フランシスコにとっても,人生をかけての大博打だったと思う。
それにしても,ミロズマルは1962年生まれだから私より5歳若いだけで同年代といっていいと思うが,私の記憶と比較してもフランシスコ一家の最初の家の貧しさは当時の日本と比べ物にならないものだ。何とか電気は通っているらしいが,近くに学校はなく(子供たちの教育のためにフランシスコが奮闘する,というエピソードがそれを物語っている),フランシスコ一家の移動手段は牛だったか馬である。そういう状態で,小作人が自分の子供を小作人にしたくないと思っても,教育体制そのものができていないのだから,小作人状態から抜け出す手段はそれほどなかったはずだ。その少ない手段の一つが音楽だったのだろう。
先ほど,「教育なしにアコーディオンが弾けるようになるのか?」と書いたが,全く教育を受けずにそれなりにピアノを弾いていた人間が身近にいたことを思い出した。私の父である。既に鬼籍に入り10年以上たつ。ちなみに,父親が死んだ年齢まであと17年である。
死んだ父親には苦労のかけ通しだったから,罪滅ぼしとしてちょっと書かせていただく。
この父は秋田県の片田舎のなかでも特に田舎に生まれ育ち,身近に楽器なんて全くない環境で育ち,太平洋戦争では兵役につき,その後,田舎の中学校の教師になった人だ。つまり音楽の教育は一切受けていない。
しかし,田舎の中学校でも音楽の教師はいるわけで,ピアノがちょっと弾ける先生がいたらしく,そのピアノを聴いているうちに見よう見まねでピアノを弾くようになり,いつもまにかそれっぽく弾けるようになったそうだ。そして子供ができたら是非ピアノを習わせたいと考えるようになり・・・というわけで私がピアノを弾くようになったのだが,このあたりはフランシスコ親父に似ているような気がしないでもない。
ちなみに,父親はワイマンの『銀波』をよく弾いていたのを記憶しているから,この曲くらいはらくらく弾いていたのは確かだ。それなのに,楽譜は最後まで全く読めないままだったし,指使いも全くの独学,それなのにそれなりに弾けていたのだから,耳コピーの才能は素晴らしかったのではないかと思う。
ちなみに,私はこの父のおかげでピアノを人前で弾けるくらいになったが,父親の耳コピー方面の才能は一切遺伝せず,調音は今でも苦手である。
映画のフランシスコを見て,自分の父親のこと,父親が私にしてくれたこと,私に残してくれたことを思い出してしまった。翻って,自分が自分の子供に何をしてきたのか,何を彼らに残せるのかと考えると反省しきり,忸怩たる思いである。
(2008/07/16)