2000年のカンヌ映画祭グランプリを皮切りに,世界各地の映画祭の賞を総なめにした大傑作。映画の面白さ,映画でしか味わえない面白さ,映画の素晴らしさを満喫した。血と暴力が渦巻いている作品なのに,見終わった時には静かで深い余韻が残るはずだ。153分と長い映画だが,全然長さを感じさせず,むしろ,もっとこの雰囲気に浸っていたかったくらいだ。
ちなみに原題の "AMORES PERROS" は 「犬のような愛」という意味だという。「犬のような愛」とは何か,それはこの映画を見ればわかる。
この長大な映画は,メキシコシティのとある交差点で起きた交通事故に当事者とそこに居合わせた男の三者三様の人生を描いたオムニバス作品である。三つの物語は絶妙にからみあい,事故に至るまでの人生,事故の後の人生を見事に描きつくしている。
第一部はスピーディーに繰り広げられる荒々しい世界,そして第二部は若いスーパーモデルを描く静かで張り詰めた世界,最後の第三部は家族を捨てたことを後悔し続ける老人の世界,という具合に連続するが,各部分間の緩急のリズムのバランスとが絶妙で,あたかも一つの交響曲を聴いているかのようだ。しかも通奏低音として「犬」と「愛」があり,有機的に校正された循環形式の交響曲となっているのだ。おまけにそれぞれの部分(交響曲の各楽章)でのストーリー展開も間合いの取り方が素晴らしく上手く,最初はバラバラに見えた各要素が次第に絡み合っていく様子は,唖然とするほど見事だ。脚本の完成までに3年を要したそうだが,長期間かけて練りに練り上げられたストーリーの重厚さとスピード感は,巷に溢れるお手軽サスペンス映画が及ぶところではない。
映画は疾走する車内の様子から始まる。二人の若い青年が乗っていて,後ろの座席には重傷を負って血を流し続ける瀕死の黒犬が一頭。その車を狂ったように猛スピードで追ってくる一台の車。しかも拳銃でこちらを狙っている。必死で逃げる車は赤信号の交差点に突っ込むが,その時,左側から一台の車が走ってきて二台は激突・大破してしまった。ここから三つの物語が幕を切って落とす。
第一話《オクタビオとスサナ》。青年オクタビオは母親,兄のラミロ,ラミロの妻スサナと一緒のアパートに暮らしている。スサナはまだ高校生の幼な妻だが,既に一人の赤ん坊の母親だ。兄のラミロは粗暴ですぐに暴力を振るうような男で,表向きはスーパーの店員をしているが,実は仲間と強盗を重ねていた。結構稼いでいるようだが,もちろん,生活費を入れるような男ではない。そして,兄にいつもひどい扱いを受けているスサナに優しく接しているのはオクタビオだけで,彼はほのかな思いを兄嫁に寄せていたが,それはやがて狂おしい愛に変化し,この家をスサナと出て一緒にどこかの町で暮らすことを夢見るようになった。
その町で手っ取り早く金を稼ぐ手段が闘犬場だった。強い犬を見つけ(何しろそこらに野良犬がうろついている),その犬が勝てば金が手に入る。その闘犬場ではチンピラのハロチョの犬が強かったが,ひょんなことからオクタビオの飼っていた犬コフィがハロチョの犬を噛み殺してしまう。その日からコフィは連戦連勝,彼は金を手にし,スサナと暮らすための資金にと貯めていた。
しかし,それで黙っているハロチョではなく,新しい犬を見つけて大金を賭けようとオクタビオに持ちかける。だがコフィは強く,ハロチョの犬を圧倒。もう少しで勝てるというところでいきなりハロチョな拳銃を抜き,コフィに銃弾を打ち込んでしまった。瀕死の重症を負ったコフィを一旦車に連れて行くが,オクタビオは怒りを爆発させ,ハロチョをナイフで刺してしまう。逃げるオクタビオの車をハロチョ一味の車が追い,あの交差点に猛スピードで突っ込んでしまう。
一方,スーパー強盗で満足できなくなったラミロは銀行強盗を企てるが,押し入った銀行にたまたま居合わせた警官に撃ち殺されてしまう。
そして第二話《ダニエルとバレリア》。バレリアはスペイン出身のスーパーモデルだ。メキシコで最も美しい女性として有名で,化粧品メーカーとの契約にも成功し,さらに,不倫相手の広告デザイナーのダニエルも妻との別居を決意して新居での暮らしが始まろうとしていた。彼女は全てを手に入れ,順風満帆だった。彼との最初の夜を祝うためにシャンパンを買おうとして車を走らせていたが,交差点の青信号で発車したその瞬間,右から暴走車が猛スピードで突っ込んできた。
大腿骨開放骨折,そして頸骨と腓骨の骨折があり,さらに大出血もしていた。何とか手術に成功したものの,創外固定器と車椅子での生活を余儀なくされ,ようやく二人の新居に戻ってくることができた。当初,ダニエルは優しく,怪我も癒えてきたが,バレリアの愛犬リッチーが床に空いた穴から床下に落ちてしまうという事件が起きてしまう。リッチーの鳴き声は聞こえるもののどうしても救い出せない。その頃から,二人の関係はギクシャクし始め,しかも,化粧品メーカーとの契約も打ち切られてしまう。そして,傷の痛みが強くなり,動けなくなっているところをようやくダニエルが見つけるが,下肢の動脈閉塞から筋肉の壊死が始まっていたため,大腿での切断を余儀なくされてしまう。
一方,一人部屋に取り残されたダニエルは意を決して床板を壊し始め,ついにリッチーを見つけ出し,腕に抱きしめる。
第三話《エル・チーボとマル》。ここでは,共産主義革命に身を投じるために家族を捨て,その後20年間投獄され,殺し屋稼業で糧を得ている老人エル・チーボと,2歳の時にチーボに捨てられた娘のマルを中心に話が展開される。チーボは町外れの廃墟のような家に,何匹もの犬(恐らく,彼が拾ってきたものだろう)と一緒に暮らしていて,髪も髭も伸び放題だった。そこに二人の男が訪れる。一人は元警官,もう一人は実業家のようだ。その実業家はある男を殺して欲しいと依頼し,チーボはそれを引き受ける。彼はターゲットを尾行して行動を観察するが,どうしても,娘のマルに会いたいという感情も高まっている。「お父さんは死んだ」と妻は説明していたが,先行きが長くない年齢になり,せめて,娘に本当のことを説明したいと思っている。
そして,ターゲットを付け狙っていた最中に,あの交通事故が目の前で起きる。一台の車には若い女性が乗っていて,足を挟まれて動かせない。もう一台には若い男が二人乗っていて,一人は生きているが,もう一人は既に息を引き取っている。救急車が到着し,怪我人を搬送するが,男たちが載っていた車の後部座席にいた黒犬は路上に置かれたままになっていた。犬たちと暮らすチーボはその犬を抱き上げ,自分の荷車に乗せ,自宅に連れ帰り,懸命な看病をする。そして,その黒犬は瀕死の重傷から生き返り,ついに歩けるまでに復活する。そして悲劇が起こる。
チーボがターゲットの追跡から戻ると部屋は血みどろで,犬たちが死んでいるのだ。生き残っていたのはあの黒犬だけだった。この犬が噛み殺したのだった。
そしてチーボはターゲットを拉致して自宅に監禁し,依頼主を呼び寄せる。ターゲットと依頼主の関係を知ったからだ。そして二人を監禁し,二人の間に拳銃を置き,「お前達で決着をつけろ」と言い残して部屋を出る。チーボは髪を切り,髭を剃り,すっかり姿を変えていた。そしてチーボはマルの部屋に忍び込み,稼いだ大金を置き,留守電にメッセージを入れる。その後,チーボは車を売り払い,黒犬とともに荒涼とした大地に歩き出す。
まず,圧倒的に素晴らしいのが,エル・チーボ役のエミリオ・エチェバリアだ。通常,このくらいの年齢の俳優の演技に対しては,「年輪を感じさせる」とか「存在感のある演技」という枕詞で賞賛するのが常識というものだろうが,この映画でのエチャバリアの演技は,鬼気迫るというか,尋常ならざる水準だと思う。リアカーみたいなのを引いている表情,ターゲットを観察する表情,犬たちの世話をする表情,傷ついた黒犬を世話する表情,その黒犬が愛犬を殺したと知ったときの表情,髪の毛を切り髭を剃りメガネをかける表情・・・など,言葉はほとんどないのに微妙な表情や顔色の変化で全てを語ってしまうのだ。彼の演技を見るだけで,この映画を見る価値があると断言する。
同様に,オクタビオを演じる若い俳優も上手い。淡い恋心がいつしか狂おしいばかりの恋情に変化し,それはいつの間にか,恋の対象であるスサナの心と意思を無視して暴走するのだが,その変化を見事に演じている。そして,ことあるごとに暴力をふるい,暴力でしか物事を解決しようとしない兄のラミロへの反発から出発したはずのオクタビオなのに,スサナへの態度は一方的に自分の意思を押し付けるものに変化してしまう。そこに,ラミロとオクタビオの姿が二重写しになって見えてくる。
そんなオクタビオの変化に対応するかのように,スサナの表情も変化していく。高校生なのに望まぬ妊娠をしたために結婚し,義母に子供の世話を頼むのも一苦労。かといって,実家の実母はアルコール依存症。そんな中で健気に育児をしながら勉強しようとしているのがスサナだ。しかし,ことあるごとに夫には暴力を振るわれ,義母には嫌味を言われる。そんな中で,唯一心許せる話し相手がオクタビオだ。だから,オクタビオと話しているときのスサナの表情は,10代半ばの少女そのもので初々しく輝くばかりに美しい。そんな彼女を自分のものにしようと,オクタビオは暴走する。
しかし,彼女の夫ラミロは警官に射殺されてしまう。彼女の表情は暗く,夫を亡くした大人の女に変貌している。それなのに,兄の葬儀の日にオクタビオは無神経に「一緒に町を出よう」とスサナを口説く。「あなたは何もわかっていない」と言い,彼女はオクタビオを捨てることを決意する。
そして,バレリア役の若い美人女優も,彼女の不倫相手の男優も素晴らしい。「存在感のある」という月並みな表現をぶっ飛ばすほどの実在感で,スクリーンの向こうからこちらをにらみつけ,観客にぶち当たるほどの迫力で演技している。この映画に満ちていたものはまさにこの「生命の迫力」であり,それは命の輝きそのものなのだ。そして,その生の輝きは,噛み殺されるだけの役の犬にも満ちているのだ。犬を含め,薄っぺらな登場人物がなく,どいつもこいつも,全力で生きている感じが画面全体から伝わってくるのだ。
この映画は循環形式の交響曲だ,と書いた。第1楽章は疾風のようなプレストで始まり,主部はアレグロ・アッサイのソナタ形式。第2楽章は愛情に満ちた穏やかなアンダンテだが,中間部で悲劇に転じる。形式としては,主部の再現部で調性を長調から短調に変えた三部形式といったところだろう。そして第3楽章は緊迫したアレグロ・モルトで始まり,過去のエピソードが交錯して繰り返されるロンド形式。そして,美しい黄昏を思わせるアダージョのコーダで幕を閉じる。まさに,見事な交響曲である。
(2008/06/05)