派手な事件が起こるわけでもなく,超有名な俳優が登場するわけでもない映画だ。インスブルックからローマに向かう旅客列車を舞台に,3組の乗客たちに起きた出来事をさりげなく描いただけの作品である。それだけなのに,なんと素晴らしい映画なのだろうか。見終わった後に残る余韻に酔い痴れてしまった。声高に何かを主張する映画ではないが,伝えたかったであろう事が静かに,そして確実に伝わってくる作品である。
ちなみに,この作品は3人の巨匠監督(エルマンノ・オルミ,アッバス・キアロスタミ,ケン・ローチ)のコラボレーションによるもので,各々が3つのエピソードを演出・撮影し,それらをゆるやかに関連させることで,1本のオムニバス映画としたものだという。映像でしか伝えられないものを映像で伝える術に長けた名手たちの映画というのは,やはりすごいなと思う。
その日,オーストリアではテロへの警戒のため,飛行場が封鎖されていた。このため,仕事のためにオーストリアを訪れていた初老の薬理学教授は列車を乗り継いでローマへの帰還を余儀なくされた。その旅客列車の手配をしてくれたのは仕事相手のオーストリア企業の女性秘書だった。彼女は教授が列車の中でも仕事が出来るようにと気を利かせ,食堂車に二人分の席を取ってくれた。テーブルが広々と使えるからだ。教授は,知的で心配りができる彼女に淡い思いを寄せてしまう。
しかし,その列車にはさまざまな人種の移民,そして,テロ警備をする軍人たちも乗り込んでいた。そして貧しい移民たちは,座席に座れず車両連結部に乗るしかなかった。そんな連結部に立っている若い母親が子供にミルクを飲ませようとしていたが,軍人がぶつかり,ミルクは床にこぼれてしまった。軍人はそれに目もくれず,立ち去ってしまう。それを見た教授はウェイターを呼び,温めたミルクが飲みたいと告げ,届いたミルクを持って連結部に歩いて行く。
続いて列車には,太った初老の女性が若い男を伴って乗り込む。彼女は指定席を取っていないが,全く気にせず,一等車の席に座り込む。後でその席を予め予約していた客が来ても,「ここは私の席,気に入っているから動かない。あなたこそ別の席に移りなさい」の一点張り。傲岸不遜,尊大無礼であり,周りの客も呆れ顔。そして,若い男に次々と命令し,奴隷のようにこき使っている。それもそのはず,彼女は将軍の未亡人であり,若い男は兵役義務として彼女に付き添っているのだった。しかし,耐えに耐えていた若い男の怒りがついに爆発する。
次の駅で乗り込んできたのは,スコットランドからやってきた若い男3人組。彼らはスーパーの店員で,サッカーチームのセルティックの熱狂的ファン。彼らは何とか金を貯め,ローマで行われるセルティックの試合を見るためにその列車に乗ったのだった。ようやく試合が見られるという高揚感からすっかり舞い上がっていた彼らは,ベッカムのユニフォームを着た一人の少年に声をかける。そして,このアルバニア難民の少年に列車のチケットを盗まれてしまう。
無賃乗車の場合,罰金を含め62ユーロを払わなければいけないが,3人の有り金を全て集めても62ユーロに届かない。そこでアルバニアの少年を見つけるが,彼は4人の家族と一緒で,ローマで働いている父親が家族で暮らそうと呼び寄せてくれたために,その列車に乗り込んだのだ。しかし,金が足りず,チケットは3人分しか買えなかったと涙ながらに訴える。
アルバニア移民一家が言っていることは本当なのか,本当だとすればこの家族の誰かが警察に捕まってしまう,しかし,このままでは自分達の一人が警察に捕まり,恐らくスーパーを解雇されてしまう・・・,スコットランド3人組はいきなり,難民問題,移民問題に巻き込まれてしまう。そして彼らは一つの決断をする。この移民一家と自分達を救うために・・・。
このオムニバス映画のテーマは何だろうか。「人は一人では生きていけない,人は他者との繋がりの中でこそ生きている」ということだろう。
第1エピソードの教授が持っていくミルク,あるいは,秘書が手配してくれた食堂車の座席がそうだ。第2エピソードの将軍未亡人は何とか列車からホームに降りられたが,大量の荷物(もちろん,兵役義務の青年に持たせるつもりで持ってきたものだ)に座り込んで途方にくれている様子は,「権力を失った裸の王様の末路」そのものだろう。手に余るほどの荷物を持っていても,持てなければ意味がない。そして,第3エピソードの結末は,移民問題,難民問題を避けて通れないヨーロッパの現状と,彼らの排除でなく共存にしか未来に通じる道がなく,そのためには柔軟な法律解釈も許されるのではないか,という提言ではないかと思われる。
第3エピソードの結末は,法律を杓子定規に当てはめれば違法行為そのものだが,あの移民一家を救い,彼ら3人組も救うにはこの方法しかなかったと思う。難民一家の男の子が逮捕されても,セルティックファンの1人が逮捕されても,どちらにしてもすごく後味が悪かったと思うし,救いようがない結末になっただろう。だからこそ,ローマ駅に集結したサッカーファン達が彼らの逃亡を助けるシーンが爽快なのだ。団結心が堅いことで知られるセルティックファンだからこそ,あの逃走シーンが生きてくる。
それにしても,第1エピソードで車内を警戒する軍人達のなんと無機的なこと。特に部隊長(?)は全くの無表情に列車内の親子を突き飛ばしている。これを見て,ゴヤの「5月3日」でゲリラたちを射殺するフランス軍兵士を思い出した。ゲリラたちは一人一人の人間として描き分けられているが,兵士たちは顔がなく無機質な塊のように描かれていた。兵士というのは,時代が変わっても本質的に変わらないものなのだろう。
ちなみに,第1エピソードではショパンの「前奏曲集 作品28」が控え目に,そして効果的に使われていたことを付け加えておこう。
(2008/05/22)