《パフューム ある人殺しの物語》 (2006年,ドイツ)


 人間の五感といえば,視覚・聴覚・触覚・味覚・嗅覚の5つを指す。このうち,画像化,絵映像化が最も困難なものは嗅覚だろう。視覚はそのままだし,聴覚はさまざまな工夫で映像で表すことができる。触角も画像や映像である程度感じることができるし,料理の味覚は見た目がかなり作用する。その点,嗅覚は目に見えないし形もないし色もない。映像化するのに最も適さない知覚情報である。

 そういう「嗅覚」にまつわるある青年の物語を扱ったのがこの映画だ。つまり匂いと香りと臭気の映画だ。ちなみに「におい」というと「臭い=smell」という気がするし,「かおり」というと「匂い=perfume」という気がするし,「におい」というとどうしても「トイレの臭い」が最初に頭に浮かんでしまう「このお酒のにおい,とてもいいね」という言葉にはすごく違和感を感じる。ま,どうでもいいことだが・・・。


 さて,舞台は18世紀のフランスはパリ。当時のパリは悪臭の都であったことは有名だ。何しろ,起床時の最初の仕事は「おまる」にたまった糞尿を窓から外に捨てることだったと言われるし(糞尿を2階の窓から捨てるときには「ご注意を!」と声をかけてから撒き散らすのがマナーだったとか),ハイヒールもウンコを踏まないように歩くための必需品だったと,なにかの本で読んだことがあるくらいだ。もちろん,風呂に入る習慣もない。そこで香水が必需品となったとか。

 そのパリでとりわけ悪臭がひどかったのが魚市場だった(臓物も血もそのまま捨てていたんだから当たり前)。そこで一人の女が産気づき,一人の男の子を出産した。それがこの物語の主人公,ジャン=バティスト・グルヌイユだった。この赤ん坊は何とか産声を上げたものの母親は赤ん坊を捨てて逃げ,孤児として引き取られて何とか生き延びることができた。しかし彼は,他の誰にもない特異な能力を持っていた。どんな微弱な匂いも嗅ぎ分け,記憶することができたのだ。

 彼は香水混合師,バルディーニの門をたたく。バルディーニはかつては有名だったがもう既に才能は枯れ,新しい香水を作り出せなくなっていた。そしてグルヌイユはその頃パリで大流行している有名香水の調合を簡単に割り出し,バルディーニの目の前でそれを再現し,さらにもっとよい香りを生み出す。グルユイユは次々に新しい香水を生み出し,人々を虜にしていく。同時に,バルディーニは彼に香水調合の基本を教え,どうしたら香りを香水に閉じ込める技法を指導する。

 グルヌイユはパリの雑踏の中で一人の少女の馥郁たる匂いに魅せられ,つい,後を付いてしまう。そして,その香りを自分のものにするために・・・。

 その後彼は,より高度な香料抽出法を学ぶために,香水の都,グラースに旅立つ。その途中で彼は,自分に体臭がないことを知る。自分がこれほど香りに魅せられ惹きつけられているのに,その香りを自分は持っていないのだ。自分は他者の香りを全て記憶に留めているのに,自分は他者の記憶に留められる体臭を持っていないのだ。その事実にグルユイユは打ちのめされる。そして彼はグラースで,自分の無臭の体にまとわせる究極の香りを調合しようと,その材料を探し始める・・・という映画である。


 まず,どこから語り始めようか。それがとても難しい。映像や音楽の仕掛けがあまりにも手が込んでいて,香りと一体になった音楽が圧倒的に素晴らしい反面,冷静になってみると,物語自体は説明不足の部分が少なくないし,そもそも物語として印象が薄いからだ。圧倒的な映像美に酔いしれるのだが,「で,結局,この映画って何だったの?」という疑問を持ち始めると,かなり苦しい映画だからだ。

 香りを映像で表現する方法として音楽を使うというアイデアは悪くない。それどころか,見事に成功していると思う。抽出機から滴り落ちる一個の滴のショットが何度も登場するが,これらも香りが持つ魔力をうまく表現していたと思う。


 そして,誰しも意表を付かれるであろう処刑のシーン。処刑場にグルヌイユが到着するシーンは120分頃だから,まだ20分以上映画は続くのにどうするんだろう,残りの時間をどうやって埋めるんだろうと思っていたら,集団セックスシーンが延々と続くのだ。これは予想もできなかった。おまけに,CGじゃなくってみんなで本番エッチしている感じなのだ。
 ・・・ということは,グルヌイユが調合したのは「究極の媚薬」ということになる。

 となると,この映画の後半に何度も繰り返される「愛」が何なのか,非キリスト教徒にとっては非常にわかりにくい。「媚薬による(人工的な)愛から,真実の愛に目覚める」というのは,ワグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』をはじめとして『真夏の夜の夢』など珍しくないテーマだが,この映画のグルヌイユが自分で「体臭がないが故に誰にも愛されないだろう」と思うのと,ラストシーンで「究極の香り(=体臭)を獲得できたために,誰からも愛され,地上から消滅した」というのがどうしても結びつかないのだ。なぜ,「媚薬による性愛」と「(キリスト教的)愛」が結びつくのか,私には理解できなかった。

 もちろん,あの衝撃のラストシーンが美しいことは否定しない。だがそれは,所詮,媚薬によってもたらされた一夜の快楽に過ぎないし,グルヌイユの罪は別のはずだ。媚薬による夢のような一夜が過ぎたとき,そこには現実が横たわっているはずだし,映画の中でもその様子が描かれている。それなのに,彼の侵した罪は最後まで裁かれないままだ。このあたりもなんだか変。


 「グルヌイユにかかわった人間が次々死んでいった」というのはいいとしても,それはこのドラマの進行に一切関係ないのも問題だろう。孤児院の経営者にしても,なめし皮工場の親方にしても,死ぬ必然性は一切ない。もちろん,彼らは善人というわけではないが,とびっきりの悪人でもない。ごく普通の当時の大衆の一人である。それなのに,なぜ全員が死ななければいけなかったのだろうか。グルヌイユが「天使」だとしても,天使にかかわった人間が次々死んでいくというのは神学的に何か意味があるのだろうか。

 グルヌイユは次々と殺人を重ねるが(犠牲者の数は多分13人だったと思うが,これも象徴的だ),彼には罪の意識もなければ,人を殺したという後悔の意識もない。多分これは,魚を釣って食べたり山菜を摘んで食べる人が「魚を殺した,山菜を殺した」と意識しないのと同じかなという気がするが,どうだろうか。


 それと,気になったのはナレーションだ。字幕スーパー版と日本語吹き替え版の両方で見たが,どちらもナレーションが喋りすぎ,説明しすぎである。だから,本来この映画が持つべき「馥郁たる余韻」が全くなくなってしまった。これは計算違いだと思う。


 まだまだ,頭の中では解決できないものが渦巻いているが,いずれ,もう一度見直してみようと思う。

(2008/05/15)

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