新しい創傷治療:カンダハール

《カンダハール》 ★★★★★(2001年,イラン/フランス)


 2000年に撮影され,翌年の5月にカンヌ映画祭で上映されて世界中に衝撃を与えた映画だが,この年の9月11日,つまり「9.11」が起こったことにより,さらに大きな意味合いで捉えなおされることになった作品である。何しろ舞台はアフガニスタンのカンダハールで,当時は世界的は全く知られていないアフガンに辺境だったが,ここは当時,イスラム教への回帰により理想社会を作ろうとする神学生(タリバン)の拠点であり,9.11以後,テロリスト一掃を目指すブッシュ政権とアメリカ軍の攻撃の的になった地でもあるのだ。

 20世紀から21世紀にかけてのこの国の歴史を見ると,平穏だったのは1919年の独立から1970年代のみで,それ以後は内乱と戦争の歴史であることがわかる。

 1973年にクーデターが起こって国王が追放され,アフガニスタンは共和制となる。しかし78年に軍事クーデターが起こり,大統領一族は惨殺される。翌年にソ連によるアフガニスタン侵攻が起こり,社会主義国となり,以後,1989年に撤退するまでソ連軍が駐留するが,元々緑豊かだった農業国のアフガニスタンの国土は荒廃し,深刻な飢餓状態に陥っていた。そしてソ連軍に抵抗するゲリラ「ムジャヒディン」が結成され,ソ連軍の撤退以後,このゲリラ組織と政府軍との内戦が発生する。内戦は次第に激化し,92年以後は無政府状態となり,94年には内戦はアフガン全土に広がった。この頃,イスラム原理主義を唱える神学生の集団,タリバンが急速に勢力を拡大していき,98年にはほぼ全土を制圧する。

 つまり,この映画が作成された当時のアフガニスタンは長く続いたソ連との抗争,そして長く続いた内戦のために国は荒廃し,おまけに世界中から忘れられた国となっていた。そういう国の現状を鋭く描いたのがこの作品である。

 ちなみに,荒廃したアフガニスタンの大地で栽培されているのはアヘンやヘロインの原料であるケシであり,世界中に溢れる麻薬の一台供給地となっている。


 もちろん,この作品は劇場で上映されることを目的に作られた商業作品であり,描いたものと描けなかったと描けなかったものがあるだろうし,演技なのかヤラセなのか判然ととしない部分もある。事実を基にしたフィクションである限り,全てが真実ではないだろうし,かといって全てが嘘というわけでもないだろう。しかし,それが2001年のアフガニスタンの姿なのだろうと思う。この過酷な地で日常的な上に苦しみながらも一日一日を生き延びるためには,真実と嘘は渾然一体とならざるを得ないはずだ。


 映画は,アフガニスタンから亡命した女性ジャーナリスト,ナファスのもとに母国の妹からの一通の手紙が届いたことから始まる。彼女の一家はアフガニスタンから脱出しようとしていたが,妹は地雷に触れて両足を失い,脱出できなくなったために父親とともにアフガニスタンのカンダハールに留まらざるを得なかったのだ。しかしその後,カンダハールはタリバンに制圧され,イスラム原理主義を厳守する彼らにより,女性はすべて強制的にブルカをかぶらされ,「黒い人間」と呼ばれ,抑圧され,自由な生活ができなくなっていた。妹からの手紙には,そういう社会に絶望し,その年の12月に起こる日食(これは奇しくも,20世紀最後の日食だったことは有名)の前に自ら命を絶つつもりだ,と書かれていた。そこで姉のナファスは単身アフガニスタンに乗り込み,妹を助けようとする。しかし,妹の手紙は難民から難民の手を経て数十日かかってカナダに届いたため,残された時間はわずかに3日だった。ナファスはイラン側からアフガニスタンに入ろうとするが,目指すカンダハールに行くには広大な砂漠,そして強盗,タリバンの検問が待ち構えていた・・・という映画である。


 主人公のナファスを演じているのは,自身,アフガニスタンからカナダに亡命したニルファー・パズイラという女性ジャーナリストである。彼女はカブールに住むかつての友人から自殺予告の手紙を受け取った。そこで彼女はイランや中東の庶民の生活の様子を映画にしているマフマルバフ監督に,カブールに向かう自分の様子を撮影して映画にして欲しい」という計画を持ちかけた。この監督が13年前に,アフガン難民の苦境を描いた映画を作製していたからだ。映画監督はアフガニスタンの状況から,危険なカブールでなくカンダハールを舞台に移し,友人探しを妹探しに設定を変え,事実に基づくフィクションというスタンスでこの映像を撮影したと伝えられている。

 この映画を見る限り,ナファスが妹を助けられたかどうかは描かれていない。これがアメリカ映画だったら,タリバンとの派手な戦闘があって姉が妹を助けてめでたし,めでたしになるが,この映画を見る限り,ナファスが妹に出会う確率はきわめて低いだろうことは自明だし,たとえ再会できたとしても,両足を地雷で失った妹は義足もないだろうし(義足は赤十字のキャンプがあった地域でしか手に入らない),そういう妹を連れて再び砂漠を徒歩で走破するのは,それこそ「ラクダが針の穴を通る」より困難だろう。今日という日を生き延びたとしても,明日は今日より良くなるという望みがない以上,アフガニスタンの状況は悲劇の無限連鎖であり,この映画に結末がないのは当たり前なのだろうと思う。


 そして,映像はある意味,絶望的に悲劇的に美しい。もっとも象徴的なのは,赤十字のヘリからパラシュート付きで落とされる義足の映像であり,それ目掛けて地雷で片足を吹き飛ばされた男たちが懸命に松葉杖を操りながら走って群がるシーンだ。男たちが必死の形相で走り,空からは太陽を背に降りてくる義足が美しく輝いている。
 あまりにも美しく残酷な映像に,私は言葉を失う。

 あるいは,花嫁をカンダハールに運ぶ女たちの行列。彼女たちが身にまとう色とりどりのブルカは,荒涼たる砂漠に咲く花のように鮮やかで美しい。女性の権利を剥奪し抑圧するタリバンはブルカをかぶって顔を隠すことを強制したが,そんな社会でも女たちはしたたかに生きていたようだ。映画の中でも,決して外に見えない手の爪に一心不乱にマニキュアで飾る彼女たちの姿が描かれている。私はこのシーンが好きだ。


 途中で体調を崩したナファスをカーテンの穴越しに診察し(男性医師が女性患者を直に診察するのはご法度だから),カンダハールの途中まで同行する医者がいい。彼はアメリカの黒人兵と名乗り,アフガン戦争でソ連と戦うためにこの地に赴き,ある事件を機会に人を助ける道に入ったのだ。医者でもなんでもない普通の兵士だが,普通のアメリカ人の家庭医学の知識でもここでは人を助けるのに十分なのだ。絶望的なまでの医療の格差がここにある。
 そして,彼は立派な顎鬚を生やしているが,実はそれは付け髭だった。女性がブルカを強制されているように,イスラム教では男は顎鬚を強制されているのだ,と彼は看破する。

 あるいは,難民キャンプからアフガニスタンに明日戻る学校の女子生徒(6歳から10歳くらいだろうか)に最後の授業(タリバン制圧下のアフガニスタンでは,女性は教育対象ではないから)が行われるが,それはなんと「お人形を見ても触ってはダメ。それは地雷で足が吹き飛ばされる」というものだったりするし,神学校での生徒たち(これも同じくらい年齢と思われる)の教育も,コーランを開いて座り,一斉に頭を振ってリズムを取ってコーランを唱えるだけなのである。しかもその途中で先生は生徒を指名しては「カラシニコフとは何か」と質問し,それに対し生徒は「半自動式の小銃で,装填した弾丸をバネで送って発射。戦場において生き物を殺傷し,敵の数を減らす道具だ」と答えなければいけない。だがしかし,神学校にいられるだけましなのだ。少なくともここにいれば給食は支給されるからだ。だから,まだ働きにいけない男の子と必死になってコーランを覚え,カラシニコフ銃の扱いを覚えるしかない。コーランを覚えられない子供は学校を追い出され,別の子供が生徒になり,追い出された生徒は飢え死にするしかないからだ。

 同様に,彼女がガイドに雇った少年ハク,赤十字キャンプで執拗に義足をねだる片腕の男ハヤトも一筋縄でいかない胡散臭さを漂わせているが,それこそが生きていくための術なのだろう。


 ちなみに,現地の言葉で,ナファスは「呼吸」,ハクは「土」,そしてハヤトは「人生」という意味だという。この地において呼吸とはどういうことなのか,土とはどんなものなのか,人生とは何なのか,この映画を見るものに問いかけてくる。

(2008/11/06)

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