素晴らしく感動的な映画である。かつての東ドイツを支えた監視体制側と監視される側の息詰まるようなサスペンスであり,人間性復活のドラマであり,切ないまでの愛の物語であり,そして歴史の暗部を鋭くえぐりだす社会派映画でもある。徹底的に練り込まれたストーリー,絵画のように美しい映像,そして俳優達の重厚な演技があり,138分があっという間だった。2007年のアカデミー賞外国語作品賞を受賞したというのも頷ける。映画館で見ていたら,感動のあまり,しばらく椅子から立ち上がれなかったのではないだろうか。それほど,ラストシーンは素晴らしい。
ちなみに,以前紹介した映画の中で東ドイツを舞台にした作品には《トンネル》があった。これも素晴らしい傑作だった。
この映画がえぐり出すのは,旧東ドイツの国家保安省シュタージである。旧東ドイツは「完全なる共産主義国家・理想的共産主義国家」を作り上げようとし,そのために,国家体制に不満を持つ者を徹底的に取り締まるためにシュタージを作り上げた。シュタージの正式職員は10万人,公式協力者が17万人,IMと呼ばれる非公式協力者(=密告者)は百数十万人といわれているが,当時の東ドイツの人口が1600万人だったことを考えると,実に10人に1人が監視者か密告者だったのである。そうしなければ国家体制を維持できなかったのが東ドイツであり,そうまでしても共産主義国家東ドイツは維持できずに崩壊してしまったのだ。
なお,ドイツ語の原題は「他人の生活」という意味であり,ここでいう「他人」とは東ドイツ国家内の反体制派の人間のことを指すらしい。
主人公は東ベルリンに住むシュタージ職員のヴィースラー大尉。任務に忠実で尋問技術に長けた冷酷な男だ。年齢は40代半ば過ぎだろうか。
彼が監視を命じられたのは劇作家のドライマンである。ドライマンは東ドイツでは重用されていたが,彼の知人には体制に不満を持つ劇作家や演出家が多く,それで彼自身が疑われてしまったのだ。そして,ドライマンが恋人(舞台女優のクリスタ)が暮らすアパートに盗聴機が幾つも仕掛けられ,二人の生活はすべて監視されるが,もちろんドライマンは「自分は党幹部に信頼されているから盗聴されているわけがない」と思い込んでいる。
ヴィースラーは部下と交代制で24時間盗聴を続け,報告書を上司に提出するが,ドライマンとクリスタ,そして知人たちとの会話に登場する文学や芸術の話,ドライマンとクリスタの深い愛情を接し,自分がこれまで知らない世界があることに気がついていく。ドライマンの私生活を盗聴することで,ヴィースラーは知らず知らずのうちに変わっていき,彼の表情は次第に柔和なものに変化していく。そして彼は,当局が望むドライマンの危険な言動を記録せず,上司にも伝えなくなっていく。
しかしある日,ドライマンの親友である演出家が自殺する。数日前のドライマンの誕生日の時,彼はドライマンに一冊の楽譜をプレゼントしてくれたばかりだった。それは「善き人のためのソナタ」と題されたピアノ曲だった。ピアノでその曲を弾いたドライマンはクリスタに,「かつてレーニンはベートーヴェンの熱情ソナタを聴いてしまうと革命達成ができなくなると言った」と教え,そして「この曲を心から聴いてしまった人は,悪人のままではいられないはずだ」と言葉を続けた。「善き人のためのソナタ」の深く哲学的な響きを盗聴したヴィースラーは涙を浮かべてしまう。
親友の自殺にショックを受けたドライマンだったが,やがて東ドイツ国内での芸術家の自殺が多発している事実を西ドイツに伝え,世界中に発信するという計画を立てる。理想国家であるはずの共産主義国家の現実の姿を「芸術家の自殺」という事実でえぐり出そうというものだった。
そして一方,執念深くドライマンを追うヴィースラーの上司はついに,恋人クリスタを違法薬剤購入の罪で逮捕し,「舞台に立ちたければ協力しろ。ドライマンが隠している秘密をばらせ」と執ように尋問を続け,ついにクリスタは・・・という映画。
この映画を作り上げたドナースマルクは4年間にわたり,シュタージについて徹底的に研究したという。元シュタージ局員に接触して話を聞き,密告されて失職した過去を持つ人から経験談を聞き,逮捕・拘留され,尋問を受けた人に実際の話を聞き出すことで,きわめてリアルにシュタージと東ドイツの実像を描き尽くしたのだ。
更に,ヴィースラーを演じた俳優のウルリッヒ・ミューエもシュタージの監視下に長年おかれていたのだ。それが明らかにされたのはベルリンの壁崩壊以後だった。
東ドイツ崩壊とともに,シュタージが保管した監視者の情報(盗聴記録,個人記録)は公開されて誰でも閲覧できるようになり,誰がシュタージの局員であり,協力者だったのかも明らかにされたのだ(その実際の様子は,映画のラスト近くで克明に描かれている)。それによると,ミューエは東ドイツで兵役についていたが,俳優としての勉強も許されてある劇団に所属していたのだが,その劇団で彼が無二の親友として信じていた4人すべて,そしてミューエ自身の妻までがシュタージだったのだ。まさにシュタージは,親子関係,夫婦関係まで利用して国民を監視していたのだ。東ドイツがいかに凄まじい国民不信国家だったかがわかる。
こういう事実が明らかにされたため,旧東ドイツ領内では人間関係が崩壊してしまい,精神に異常を来した人が多かったといわれている。知らないでいるのも地獄だが,知ってしまった先にはさらなる地獄が口を開けて待ちかまえていたのだ。
恐らく,このような情報を公開するかどうかは議論があったのではないかと想像される。隠してさえおけば少なくとも家族関係も友人関係も表面上は壊れることはないし,そのまま生活を続けることもできたはずだ。しかしそれでは,東ドイツで国家が何をしてきたのか,何が行われていたのかが闇に葬り去られてしまう。だから,東ドイツがゼロから(あるいはマイナスから)再出発するためには,それらを徹底的に明らかにしなければならなかったのだ。秘密はどうせいつかはばれる。どうせばれるなら自分たちの手でばらそうと選択したのだろう。
そういう事情を知ってから改めてこの作品を見直すと,ミューエの演技の素晴らしさが改めて感動するはずだ。極力感情表現を押さえ,終始無表情に見えるが,ドライマンとクリスタの生活に触れることで生まれる「自由と生への渇望」が微妙なまなざしの変化に見事に表現されているからだ。
結局ヴィースラーは職務怠慢の罪で降格され,閑職に飛ばされるが,それを告げる上司が読んでいる新聞には「ソビエト連邦に新大統領ゴルバチョフが就任」の文字がある。頑張れ,ヴィースラー,あと数年で東ドイツは崩壊する。あとわずかで「壁」は呆気なく壊されるのだ。それまでの辛抱だ。それまで何とか生き延びろ!
そして,地下室で封書開封作業(もちろん,国民を監視するために封書を国がすべて開封していた)をしていたヴィースラーに,ラジオを聴いていた同僚が「壁が崩壊した!」と教えてくれる。胸が熱くなる。
そして最後の書店での感動的シーン! 書店に並んでいるドライマンの著書『善き人のためのソナタ』を手に取ると,「HGW XX/7へ心より捧げる」という献辞が書かれていたのだ。「HGW XX/7」はシュタージ時代のヴィースラーのコード番号だった。そして「これは私の本だから」というヴィースラーの言葉で映画は終わるが,この言葉に,ヴィースラーの,ドライマンの,クリスタの,自殺した脚本家の,仲間や家族を裏切った者たちの,裏切られた者たちのすべての人生が交錯する。これほど美しく感動的なラストシーンは,私は浅学にして知らないし,見たことがない。
「HGW XX/7」というコード番号は国家がシュタージ局員から人間性を奪い,そのかわりとして与えた番号だ。しかし,壁崩壊後にすべてを知ったドライマンにとってその番号は,盗聴して得られた情報を握りつぶすことで自分を助けてくれた恩人の唯一の手がかりなのだ。人間性を抹殺し,人間関係を破壊することに使われたコード番号が,人間関係再生に役立つのだ。
前述のように「シュタージの正式職員+公式協力者」は合計で27万人,非公式協力者は150万人近かったと言われている。つまり,50人に1人は公式の監視者,10人に1人は密告者だったわけだ。しかし,これほどの人員を監視と密告に当てても,結局は共産主義体制は維持できなかったわけだ。東ドイツという国は,無理に無理を重ねて国の体裁を保っていただけではないのかと思う。
これから考えると,国民の半分を密告者に仕立て,残り半分を監視する体制にでもしなければ,国家を維持できなかったのではないだろうか?,
国民を国民の監視に使わざるを得ない国家は,必然的に衰退していく。農業生産や工業生産に活用できる人材まで「監視役」として使わざるを得ないからだ。要するにこのような国は,経済学的に存続できないのだ。
ちなみに,映画の中で使われる「善き人のためのソナタ Die Sonate vom guten Menschen」は作曲家のガブリエル・ヤレド(Gabriel Yared,1949〜)がこの映画のために新たに作曲した曲である。シャンソンや映画音楽を多数作曲している人だが,この「善き人のためのソナタ」は,広い音域で美しく響く不協和音が心に染み入る曲で,佳曲と言っていいと思う。私の知っている作曲家(実は20世紀後半以降の作曲家は論じるほど詳しくないが)でいうとフェインベルグの作風に似ているような気がしないでもない(ピアノの扱いはフェインベルグほどうまくはないが・・・)。
この曲の楽譜についていろいろ調べてみたが,Yaredのピアノ曲集は1冊だけ出版されているが,この曲集にこの曲が含まれているかどうかは不明である。輸入楽譜の殿堂,アカデミアで入手できるようだ。
(2009/04/14)