音楽系の人情映画です。落語家の立川志の輔の代表的新作落語「歓喜の歌」を元に作られた映画であり,大晦日の市民ホールに起きたダブルブッキング事件の顛末を描いた,笑いあり,涙あり,感動一杯のとてもいい映画である。
また,笑いの部分にしても押しつけがましさがなく,じんわりとくるおかしさ,面白さなのもいい。私は志の輔さんのこの落語は聞いたことがないけれど,それも恐らく素晴らしい落語だろうと思う。
そして中心に据えられているのがベートーヴェンの『歓喜の歌』,つまり第九交響曲のフィナーレである。人間の尊厳と自由を高らかに歌い上げた名曲である。ベルリンの壁崩壊後の統一ドイツでも歌われたこの歌が,二つの合唱サークルを結びつけ,そして観る者の心を一つにする。
年の暮れも押し詰まった12月30日,市民ホールの主任は青ざめる。翌日,名前がよく似ている2つのママさんコーラスグループの予約が重なっていたのだ。完全なミスである。一つのグループは結成20年記念の節目となる重要なコンサートであり,もう一つのグループは結成されてまだ日は浅かったがこの日の公演を楽しみに練習を重ねてきたのだ。だからどちらも譲れない。
市民ホールの主任は仕事のミスによる左遷人事で飛ばされてやって来たばかりで,おまけに,何かもめ事があったら部下に押しつけて逃げることしか考えていない優柔不断・無責任男だ。
しかも,結成20年のグループの方はセレブ奥様の集まりで,市長の奥さんも入っている。だから主任はそちらを優先して,新参グループに今年は諦めるようにと提案する。
一方,新参グループは働きながら何とか都合をつけて練習時間を見つけては練習している非セレブ系・庶民の集まりである。だが,歌にかける情熱は強く,諦める気も引き下がる気もさらさらない。
おまけに主任は「逃げてばかりの男なんてもううんざり」と奥さんに愛想を尽かされ,妻は娘を連れて家を出ていて別居状態。さらにロシアン・パブに入り浸りで借金返済を迫られている。仕事も家庭も袋小路,進退窮まっているのだ。
しかし,ある出来事をきっかけに,優柔不断男は立ち上がり,問題解決のために奔走する。そして大晦日の夜を迎える・・・という映画である。
二つのグループは合同コンサートという形にして曲目を半分ずつにし,最後に一緒に「歓喜の歌」を歌うということで歩み寄り,折り合いをつける。その契機となる場面で歌われるのがアイルランド民謡の名曲『ロンドンデリーの歌』だ。この場面がなんといっても素晴らしい。ここぞという場面でこの珠玉の名曲が使われている。ここでこの曲を使う映画監督のセンスの良さに感心した(余談だが,私がもっとも好きでよく演奏するピアノ曲の一つは,グレインジャー編曲のこの曲である。心に染み入る名編曲である)。
映画として優れているのは,登場人物たちが一人一人よく描かれている点にある。その人の人生から現在の境遇まで,手に取るように伝わってくるのだ。
たとえば,セレブ奥様グループの方は遊びで歌っているんだろうな,暇なんでこんなことをするんだろうな,と思ってしまうが,実はボランティアで病院を訪問する様子が描かれていて,なんだかいいのである。
そして,庶民派おばちゃんグループの方はさらにさまざまな人生を背負って歌っているのである。ファミレスで明るく働いているおばちゃんは,実は引きこもり息子(20代後半?)を抱えているシングルマザーだし,中華料理店と衣服のリフォーム店を切りもしするおばちゃんは病気の旦那を抱えている。指揮をしている元音楽教師の夫は46歳で落語家を目指している。他のおばちゃんたちも皆そんなもんだ。
そして,いい加減無責任男の主任も明日までに200万円の編纂を迫られていて,打つ手がない。せっぱ詰まった彼を助けるのはそれまでに何度も登場していた金魚の「らんちゅう」だ。なるほど,このための布石だったのね。市長は怒るだろうが,ま,これも人助けだ。何より,市長より恐喝男の方が大事にしてくれそうだしね。
いい映画なのだが,ちょっと気になった点が一つだけある。女性コーラスグループが「歓喜の歌」を歌うという点である。ご存じのように「歓喜の歌」はソプラノ,アルト,テノール,バスの男女4部合唱とソロで歌われる曲であり,女声合唱だけでは絶対に歌えない部分があるからだ。まあ,その部分だけ端折ったアレンジで歌った,と考えればいいのかもしないが,このあたりはちょっと不自然かな? それと,映画最後の「歓喜の歌」の合唱はちょっと短かめで,もうちょっと聴きたい気分になるが,これはもしかすると,もうちょっと長く歌のシーンを入れるとこの「男声が必要な部分」に引っかかってしまうためだったのかもしれない。
というわけで,心温まる人情映画,音楽映画,合唱映画が好きな人には超お勧めの作品である。
(2009/04/22)