《ホーリー・スモーク》 (1999年,アメリカ/オーストラリア)


 この映画、何が言いたくで作った映画なのか,さっぱりわかりません。カルト宗教からの脱会というテーマで始まったのに,途中からはなぜか若い娘に翻弄される中年オヤジの話になり,最後は「真実の愛って何?」みたいなモードになってオシマイ。だからなんなんだよ,この映画は!

 しかも,深刻なテーマを扱っている割に内容がすごく薄っぺら。この監督,一体どういう映画にしたかったんだろうかと,そればかり考えているうちに映画はエンドロールへ。
 エンドロールを見て力が抜けました。結局それかよ,結論は! 見るんじゃなかったよ。こんなクズ映画。
 確かにあの親と兄弟じゃインドに行った方がましだってのはわかるよ。だったら,何もあんな大騒ぎしなくてよかったんじゃないの。途中を全部端折って「ルースはインドに行ってヒンズー教に目覚めました」でよかったんじゃん。結果はどうせ同じだし・・・。


 オーストラリアにすむ若くて美しい娘ルース(ケイト・ウィンスレット)はインドを旅行していてヒンズー教の導師ババの教えに魅せられ,その教えに帰依しようとしていた。しかし,それが導師による洗脳だと考えた母親はインドに向かい,父親が危篤だと嘘をついて娘を連れ戻す。そしてアメリカのカルト脱会専門家のP.J.(ハーヴェイ・カイテル)に洗脳を解くように依頼する。

 そして,P.J.はルースとともに人里離れた小屋に三日間こもり,信仰とは何か,宗教とは何かにを問いかけるのだった・・・という映画。


 ・・・という説明を読んだら,カルト教団に洗脳されたルースと,それを論理で説得し,教義の間違いに気づかせようとするP.J.との間での火の出るような宗教論議,哲学的論争があるんだろうな,と思いますよね。確かに,P.J.はルースに自分のインドでの体験を話したりして説得するんだけど,これが全く説得力なし。P.J.は「これまで180人を脱会させ,元の宗教に戻ったのは3.1%だけだ」と胸を張るんだけど,この程度でカルトから抜け出せるんだったら,苦労は要りません。恐らく,説得を受ける側があまりの説得の下手さに気の毒になり,洗脳が解けたように芝居をしてくれただけじゃないですか? 第一,説得二日目でカルト宗教が起こした事件や集団自殺のドキュメンタリービデオをルースに見せて,それで洗脳は解かれました・・・なんて,あまりにも安直過ぎますよね。もしかしたら,この映画監督は宗教カルトがどんなものかわかっていないんじゃないでしょうか。

 そして実際,ルースの洗脳(?)は解けていません。それどころか,若くてピチピチで自由奔放なルースの魅力にP.J.が虜になっちゃって,一度寝ちゃった後は主導権はルースに握られて振り回されっぱなしという体たらく。後はひたすら,「愛しているよ,ルース!」と叫ぶだけ。なんだオッサンは? こいつ,本当にカルト洗脳の専門家なの? 単なるエロおやじじゃないか?


 おまけに,ルースの家族(父母と兄弟)は明らかにおかしいというか,単なる馬鹿。ルースのことを心配しているのは母親だけで,父親の関心時は○○だけだし,兄弟にいたっては飲んで騒ぐことしか頭にないお馬鹿さんです。そのため,まだ治療中だというのにルースにマリファナは吸わせるは,酒場でドンチャン騒ぎをするわ,その挙げ句にルースは不良どもに地下室に連れ込まれてあわや,という目に遭うわ,無茶苦茶です。こんな馬鹿父と馬鹿兄弟に囲まれていたら,そりゃ,インドに行って修行と瞑想にでも耽りたくなるわな。

 で,エンドロールではルースは離婚した母親を連れてインドに向かいましたとさ。大山鳴動してネズミ一匹,ってやつか?

 この映画の唯一の見所は,主演のケイト・ウィンスレットがいつものように脱ぎまくっているところでしょうか。この女優さん,必要もないのに裸になりたがる人ですが,この映画でも見事な脱ぎっぷりです。
 というわけで,ウィンスレットのオッパイが見たいという人には「いい映画」かもしれません。


 以下,文体が変わります。


 この映画は、すごく不愉快な映画である。それは、宗教カルトを扱う映画でヒンズー教をカルト扱いするのであれば,「それではキリスト教はどうなのか」という視点が絶対に必要であり,それを避けて通ってはカルト宗教の問題は描けないからだ。しかし、この映画がそういう視点を完全に欠如していることは,最初の10分でわかってしまった。だからこれはクズ映画だろうなと思ったし,カルト宗教をテーマにしておきながら,宗教とは何かを真面目に扱う気はないんだろうな,とピンときた。そして,その予感は見事に当たった・・・というか、恐らく誰でも気がつくと思う。そういうレベルの低さがこの映画の持ち味である。

 ユダヤ教からみればイエスの教えは異端でありカルトそのものだったろうし,古代ギリシャの宗教からすればユダヤ教の教えは「自分たちだけが正しい、ほかは全部インチキ宗教」としている点で立派なカルトである。もちろん,ブッダの教えにしたってバラモン教から見ればカルトであっただろうし,仏教本来の小乗仏教からすれば大乗仏教はカルトである。カソリックからすればプロテスタントはカルトだし,プロテスタントの中でもピューリタニズムやクエーカー教は迫害が必要なくらい危険なカルトである。そのため,イギリスを追い出されたカルト連中が自由に祈れるようにと新大陸アメリカに渡って行ったのだ。

 じゃあ,カルトって何,ということになる。宗教学者の定義はよく知らないが,わたし的には,信者から金を巻き上げたり(=教団に財産を寄進させるとか),親兄弟や知人友人も信者にしろと迫るのはカルト特有の手口だと思っている。

 どんな宗教も生まれたては新興宗教だから,運営資金は信者からの寄付しかないし,信者を増やすには親兄弟や子供を協会に連れてきてもらうのが早道だ。おそらく,多くの宗教はそうやって教団を運営し,次第に大きくなっていったはずだ。しかし,国境や民族を越えて広がっている宗教は,そのどこかの時点でこういう方法論を取らなくなる。宗教集団としての存在が認知された時点で、そのような方法論が不要になるからだ。だから私からみれば,宗教集団として十分に大きくなっているのに,集金と信者獲得にうるさい(汚いとも言う)宗教は,どんなに信者が多くて組織が大きくてもカルト根性を捨てられないカルト集団なのである。


 さて,この映画で取り上げられているヒンズー教は,信者の人数からすると大宗教だが,その成立過程からすると限りなくインチキ宗教に近いと思っている。

 紀元前15世紀以前,現在のインド亜大陸は農耕民族の先住民が暮らしていた。彼らが築いたのがインダス文明である。現在の南インドに暮らすドラヴィダ人はその末裔といわれている。しかし,紀元前15世紀,鉄器を使うアーリア人(白人種)が侵入し,武力で征服し,先住民族を奴隷とした。

 アーリア人は固定した身分制度を作り,バラモン(僧侶,司祭),クシャトリヤ(王侯,騎士),ヴァイシャ(商人階級)の三階級をまず作り,その上で,非征服民(先住民族)をシュードラ(上位三カーストに奉仕するカースト)とし,これが四姓制度(カースト制度)となる。さらにその後,シュードラの下に「不可触民」というカースト外カーストを作り,アーリア人が不浄視する労働(例:糞尿の処理,死体処理,ゴミ掃除など)を押し付けた。そして,このカースト制度を正当化するために「バラモン教」という宗教を作り上げ,それが後にヒンズー教となる。


 征服民と非征服民は現在でも分かれている。ミトコンドリアDNA,Y染色体が違っているのである。

 Y染色体の違いは,侵略者のアーリア人は男だったためと考えられている。バラモン経典でもマヌ法典でも,女性は基本的に「シュードラ」である。侵略者のアーリア人は男主体であり,彼らは恐らく,先住民の女性を略奪強姦し,奴隷にした。だから「女性はシュードラ」となったらしい。そしてこの伝統は,現代インドにも色濃く残っているのである。

 これがヒンズー教の正体だ。


 もちろん,現代のヒンズー教はそれとは違う,ヒンズー教は偉大な哲学だと文句を言われそうだが,こういう出自が本当なら,私はとても信じる気にはならないのである。国民の85%が奴隷状態という国は,およそまともではないし,そういうトンデモ体制を正当化するための支配体制の道具がヒンズー教だからだ。

(2009/07/07)

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