《サイン・オブ・デス》★★★★ (2007年,フランス)


 衒学的な雰囲気に満ち,哲学的な雰囲気をまとったフランス製のサスペンス映画。とても面白かった。実質的には連続殺人事件だが,その手段として使われているのはなんとあの黒死病ペスト! もちろん,中世ヨーロッパ社会を崩壊寸前まで蹂躙した恐怖の伝染病である。そして実際,ペストを思わせる死体が次々に見つかり,警察の捜査をペストに集中させておいて,実はその真相は・・・という構造になっていて,なかなか一筋縄にはいかない。

 事件の全容がわかってしまうと実はごく普通の殺人事件だったことがわかるが,事件に直接かかわっている人間や,その周辺のさまざまな登場人物の人間像が丁寧に描かれているため,安っぽさは微塵もない。そして,この事件にかかわった人間たち(いずれも過去の事件を引きずっていたりする)が過去のくびきから逃れ,また現実に立ち向かっていこうとする姿で終わるため,非常に余韻が深く,後味がいい。細かい部分まで見ていくとちょっと無理があるところはあるが,同種の作品に比べたら破綻は極めて少ないと思う。いわば,ハリウッドのシリアルキラー映画とは対極にあるような作品である。


 舞台はパリ。数日前から幾つかの家のドアに数字の「4」を鏡文字にしたような記号が書かれているという苦情が警察に持ち込まれていた。そして,街角で宣伝を読み上げるのを仕事にしている男ジョス(かつて役者だった)のもとに「闇の生き物が地表に出てきて跋扈し,植物は腐り,地上は恐怖に包まれる」という謎のメッセージが届られる。

 ドアの落書きは当初,悪戯と思われたが多くの家のドアにかかれるようになり,アダムズベルグ警視が事件を担当することになる。彼は同僚から「古い文献で見たことがある」という言葉をヒントに図書館に向かい,自分より一足先に「鏡文字4」について調べている老人デカンブレと出会う。大学教授であったデカンブレはジョスのあの「謎の広告」がアヴィケンナ(11世紀の哲学者にして医者)の書のコピーであることに気がついていたのだ。その「鏡文字4」は中世において「ペスト避けのまじない」だったのだ(この記号を書いた家にはペストは入れなくなる,と信じられていた)

 アダムズベルグは何者かがペスト菌をパリ市内にばら撒こうとしているのではないかと疑い,調査に取り掛かるが,ちょうどその時,あるアパートで唯一「鏡文字4」が書かれていない部屋から一体の死体が発見され,その全身には黒死病の特徴である「黒い斑点」が浮かび上がっていた。警察の必死の捜査にもかかわらず,第2,第3の「黒死病患者」が発見され,パリの街は「ペストの再襲来か」と騒然とする。

 だが,発見された死体はペストではなく,ペストの死体を偽装した毒殺によるものであることがわかる。ペストは「黒死病」と呼ばれているが,本来のラテン語は「黒い死」ではなく「恐ろしい死」という意味であり,黒い斑点は実はペストの特徴ではなかったのだ。何者かがペストへの恐怖心を隠れ蓑に連続殺人を続けていることになる。殺人には動機が必ずあり,犠牲者には必ず共通点があるはずだが,3人の犠牲者には共通するものはなかなか見つからなかった。

 しかし,最初の犠牲者がかつてアフリカに滞在していた事実から,ついに犠牲者たちの共通点が見つかり,そこから一人の青年が犯人として逮捕され,事件は解決したかに見えたが・・・という映画である。


 この映画の最大の美点は,人間がよく描かれている点だと思う。登場する人物はどれも生身の人間として描かれ,薄っぺらな人間は一人もいない。
 とりわけ最も魅力的なのは元大学教授のデカンブレである。かつて少女への暴行容疑の冤罪で有罪となり,地位も名誉もすべて失った男であり,世間から隠遁している。しかし,この事件の捜査に協力し,自身の命も危うくなる経験をしたことから,まだ自分がこの世に未練があり,まだ残りの人生をやり直せるのではないかと考えるようになる。

 捜査の陣頭指揮を執るアダムズベルグにしても,恋人のカミーユからいきなり別れ話を持ち出されてオタオタしている中年男だ。そして,カフェの美しい女主人マリアの魅力に惹きつけられたりする弱さもある。だが,一旦仕事になるとそんな弱さは微塵も見せない。

 そして,そんなアダムズベルグに対し,カミーユはお前にとってもっとも必要な存在だ,絶対に別れるんじゃないと心配する同僚もいるし,ペストに感染したかもしれない恐怖に苛まれる同僚もいる。最初は単なる端役に思われた「広告屋」ジョスもこの事件を通じ,再度俳優の道を目指すことになる。そしてアダムズベルグもカミーユに戻ってもらうために「広告」を出す。


 いずれも決してハッピーエンドではないし,それで彼らの問題が全て解決するわけもない。しかし,人生に正解はないし,ベストの選択だったかどうかは死ぬまでわからない。このあたりは,いかにもフランス映画らしい。

 犯人として逮捕される青年とその祖母の過去の事件と彼らの人となりも次第に浮かび上がり,そして最後の10分で真犯人の過去も明らかになっていく。昼メロも顔負けのドロドロの人間関係であり,醜い欲望がむき出しになる。そして,なぜこれほど手の込んだ仕掛けをしてまで殺人を続けたのかも明らかになる。なるほど,こういう理由があったわけか。事実が判ればわかるほど,物悲しくなってしまう。こんな理由のため,人は人を殺すのだ。


 それにしても,この映画の隠れた主人公とも言うべきペストの存在感は圧倒的だ。何しろ14世紀のヨーロッパでは全人口の1/3〜2/3が死亡したと言われている。このため,労働力である農奴が減少して荘園制度の維持が難しくなり,中世という時代を崩壊させる遠因になったと言われているくらいだ。人類はこれまで様々な伝染病を経験しているが,社会そのものを崩壊させるほどの破壊力という点ではペストが最右翼であろう。そして,ヨーロッパではこのペストに対する恐怖心は他の感染症の比ではないのだろう。そういう下地があるからこそ,ペストの襲来を予告する「広告」と「黒死病」を思わせる死体は生々しい恐怖をもたらし,社会を混乱させ得たのだろうと思う。もちろん,「真犯人」が犠牲者の遺体を黒く塗るのは無駄な行為である。だが,その「黒」は「黒死病」の象徴だ。だからこそそれは社会を不安に陥れ,連続殺害の真の意図を覆い隠してしまう。見事なものである。


 と言うわけで,これは見る価値がある映画だと思う。少なくとも,老教授の誇り高い姿と,恋人に振り回されながらも職務を全うしようとする中年男の矜持は感動的だ。

(2009/08/11)

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