《モンテーニュ通りのカフェ》★★★★★ (2006年,フランス)


 フランス映画っていいな,フランス映画って大人だな,フランス映画ってなんて面白いんだろう,と改めて納得させる感動作。派手なシーンも思わせぶりのシーンもないけれど,物語の展開のうまさと登場人物の心の動きに最後まで目を離せず,エンドロールの最後までしっかりと見てしまった。もちろん,パリの街並みも美しいが,絵葉書のような美しさでなく,そこに暮らす人々のさまざまな思いや悩みを全て受けとめてくれるような,懐の深さを感じさせる美しさなのだ。

 ちなみに原題は《オーケストラの人々》という意味で,これまた味わい深いタイトルである。


 舞台はパリ市8区にあるモンテーニュ通りに面した「カフェ・ド・テアトル」。そのカフェの向かいにはシャンゼリゼ劇場があるが,その付近にカフェがないことから,俳優や演奏家が集っていた。

 幼い頃両親を亡くし,田舎で祖母と二人で暮らしていた若い女性ジェシカ(セシル・ドゥ・フランス)は祖母の若い頃の話に心を動かされ,パリに出てきて,そのカフェで働きたいと申し出る。しかし,支配人は最初,この店では女性は働かせないのが決まりだと,相手にしないが,シャンゼリゼ劇場では近々,オーケストラとピアノのコンサート,喜劇の公演,そして絵画のオークションの3つが重なってしまうために人手が足りなくなってしまい,しぶしぶジェシカを雇い入れる。そして,ピアニスト,女優,美術収集家が店に顔を出す。

 公演でベートーヴェンの『皇帝協奏曲』を演奏する予定のピアニスト,ルフォールは悩んでいた。堅苦しいコンサートで燕尾服を着て演奏するのでなく,病院などで,本当に音楽を必要としている人たちに聞いてもらえたらと考えていた。だが,世界的に有名な彼は6ヶ月先まで予定が詰まっているし,ピアノを弾くこと以外には何もできない。そして,マネージャーである妻との間もギクシャクしている。

 テレビの昼メロで国民的人気女優に上り詰めたカトリーヌは,自分が所詮二流の存在ではないかと悩んでいる。もっと本格的な舞台の仕事がしたいと願っていて,舞台稽古では常にイライラし,元夫の演出家とは衝突ばかりしている。作家の書いた台詞は一字一句変えられないとする元夫の演出に対し,それでは今の客は台詞の意味がわからない,現在の観客にわかるように台詞を変えたり加えたりすべきだと主張するが,全く相手にされない。

 タクシー運転手から一代で財を成した初老の資産家ジャックは数日後,生涯をかけて収集した美術品のすべてをオークションに出して売り払おうと考えていた。彼にはフレデリックという30代くらいの息子がいる。フレデリックはことあるごとに父親に反発し,美術収集でなく中世キリスト教の研究家になっていたが,妻とは離婚し,恋人にも見捨てられたばかりの茫然自失状態だった。そしてオークションの数日前,この親子は久しぶりに顔を合わせる。

 一方,長年,シャンゼリゼ劇場の管理人として働き,さまざまな芸術家を助けてきた女性クローディの退職の日も近づいていた。

 そして,コンサート,舞台公演,オークションが同時に幕を開ける・・・という映画だ。


 ピアニストにしても女優にしても資産家にしても,人から見れば羨むばかりの存在であり,サクセスストーリーの勝利者だ。だが彼らは不安に苛まれている。このままでいいのか,このまま死ぬまで同じことを続けていいのかと不安に駆られている。しかし,だからといって次の一歩を踏み出せるわけでもない。今のままなら成功者だが,踏み出した方向が間違っていたら転落するしかないからだ。

 そんな彼らが通う店に,若いジェシカが加わるわけである。彼女は別に大したことをするわけでなく,笑顔で接客し,注文のあったソーダ水を劇場の楽屋に届けるだけだ。例えば,ピアニストの楽屋に注文の品を届けに来たジェシカに「君はコンサートを聞いたことはあるの?」と質問する。ジェシカは「音楽は好きだけど,コンサートに行くなんて考えたこともないわ。だって難しそうだし」と答える。そんな彼女にピアニストは「きらきら星」を弾き,これはモーツァルトなんだよと教える。そこでピアニストは自分のイライラの原因を知るのだ。コンサートに行きたくても行けない,でも音楽は好き,という人に直接音楽を届けたいと思うようになる。女優も資産家も,ジェシカの裏表のない笑顔(ジェシカを演じる若い女優さんの笑顔は本当に素敵だ)と何気ない一言に,次の一歩を踏み出す勇気を得ていく。


 ピアニストは『皇帝協奏曲』のフィナーレで突然演奏を中断する。会場は突然の中断に静まり返る。するとピアニストは立ち上がり,「みんな,暑くないか? 私は暑くてたまらないんだ」といって燕尾服を脱ぎ捨て,ネクタイをはずし,ワイシャツを脱いでシャツ一枚になる。「私は畏まった格好が苦手なんだ。悪いがこの格好で演奏させてもらってもいいかな」と語りかけ,『皇帝』のフィナーレの中断場所のちょっと手前から演奏をを再開する。彼の指はまさに水を得た魚のごとく自在に躍動し,みずみずしいベートーヴェンが生み出されてゆく。

 一方,憧れの映画監督とカフェで偶然に出会ったカトリーヌはボーヴォワールについて激論を交わす。監督はサルトルとボーヴォワールを主人公にした新作映画を作ろうとしていて,カトリーヌに「サルトルがアメリカ人女性と恋に落ちてボーヴォワールを捨てる」というストーリーを聞かせるが,カトリーヌは大笑いする。「あなたは本当のシモーヌ(ボーヴォワール)を知らない。サルトルは単なる恋に奥手のお坊ちゃん,つまりアレが下手だった。だから捨てられたのよ」というとんでもないボーヴォワール観を披露する。

 そして舞台初日,舞台の袖から客席を見ていたカトリーヌはその映画監督が来ていることを知る。そして彼女は覚悟を決める。自分にしかできない舞台にしよう,自分にしか演じられない劇にしようと,即興で次々とアドリブを繰り出していく。最初呆気にとられた相手役だったが,すぐさまアドリブで反応し,客席は笑いの渦となる。その破壊的「古典的喜劇」も舞台を見た監督は,彼女の楽屋に行き,新作映画の主演,そして脚本の協同製作者になって欲しいと申し出る。

 オークション前夜,準備で疲れ果てている父親の元に息子のフレデリックが顔を見せる。父親は息子に静かに,なぜ自分が美術品の収集を始めたのか,なぜ妻がそれを支えてくれたのかを初めて語り始める。そしてオークション当日,会場にはフレデリックも姿を見せる。絵画が次々と落札されていく中で,ついに,ジャック夫婦の思い出の作品,ブラクーシ作の石の彫像『接吻』が競りにかけられる。フレデリックは並み居る競争相手たちを前に,どんどん競り値をあげていく。この彫像だけは他人に渡してはならないと覚悟を決める。そして,競り値を上げているのが自分の息子だと知った父は一つの決断をする。このシーンは本当に素敵だ。


 そして何より,この映画の魅力は台詞の深さにある。何気ない会話の中にも深い味わいがあるのだ。例えば,カフェの支配人の冷たい態度に堪忍袋の緒が切れたジェシカが言う言葉,「あなたがいろいろな問題を抱えているのはわかる。でも,あなたは有名人でも俳優でもないんだから,せめて優しさだけでも示して欲しい」なんて本当に素敵だ。そして最後のシーンで,閉店したカフェの席でフレデリックとジェシカが見詰め合うシーン(恐らく,あらゆる映画の中で最も美しいシーンの一つではないだろうか)での支配人の優しい眼差しが見ている者を幸福にする。
 その他にも,ピアニストとその妻(でありマネージャー)の会話,ジェシカが盗み聞きしてしまうフレデリックと父ジャックの若い愛人ヴァレリーとの会話,ジェシカと祖母の会話,ピアニストとフレデリックとジャックの男同士の会話など,どれもウィットに富んでいてしかも内容が深いのである。しかも,「人生とはかくあるべし」といったような大上段に構えた人生訓は一つもなく,「人生には正解なんてないし悩みのない人生もない。だけど,悔いの残らない人生にすることはできるかもしれない」という前向きの姿勢が潔くていいのだ。

 芸術家になりたかったが才能が足りずに芸術家になれなかったクローディは芸術家たちを裏で支える仕事に就いた。そして彼女はその仕事を誠実に続けた。そして退職の日を迎えた彼女は皆に礼を言い,静かに去っていく。その背筋の伸びた後姿は凛として美しい。この映画の表の主役はジェシカだが,裏で支えていたのはクローディだったのだ。この女性に出会うだけでもこの映画を見る価値があると思う。

(2009/10/02)

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