新しい創傷治療:ミスト

《ミスト》★★★★ (2007年,アメリカ)


 スティーブン・キングの小説『霧』を元にフランク・ダラボンが作成した映画だ。一応,ホラー映画かパニック映画の範疇に入れるべきなんだろうが,その怖さはそこらのホラー映画の比でない。何が怖いかというと「人間の本性,人間の弱さ」が情け容赦なく描かれているからだ。

 「衝撃のラスト」というのは映画の決まり文句だが,この映画のラストは衝撃的なんてもんじゃないのだ。これほど絶望的で救いようがなく,後味の悪さがこれまた半端ではないのである。キングの原作は読んだことがないのでどういう結末になっているかは不明だが,ここまで底意地の悪い結末というのも滅多にないと思う。だから,決して万人に「これは傑作だ」とお奨めできる作品ではないが,これは間違いなく「見るべき作品」の一つだと思う。


 舞台はアメリカのとある町。その前夜,この町は突然の大嵐に襲われていた。主人公,デビッドの自宅も吹き飛ばされてきた大木に直撃されていた。翌朝,壊れた窓などを直すため,息子を連れたデビッドは隣人を伴って町のスーパーマーケットに向かう。スーパーの中は買い物客で混雑していたが,不思議なことに携帯電話も公衆電話も繋がらない。

 その時,突然警報が鳴り響き,気が付くとスーパーは濃い霧に包まれていた。そして霧の中から顔から血を流している男が現れ,「気をつけろ,霧の中に何かがいて襲ってきた。店の中に入れ!」と言う。人々は何が起きているかもわからないまま,店の中に立て籠もることになる。

 そして,次第に霧に潜むものの正体が次第に明かされていくが,それは想像を絶したものであり,次第に犠牲者が増えていく。そしてスーパーに閉じこめられた人々は一人の狂信に振り回されていき,狂気と憎悪が伝染していく。そして,人々の憎悪は特定の個人に向けられていき,狂気が支配する・・・・という作品である。


 ダラポンによるキングの小説の映画化と言えば,《ショーシャンクの空に》,《グリーンマイル》が有名だ。どちらも感動的ヒューマンドラマとして有名な作品である(私は前者はまだ見ていないが)。そして今回の《ミスト》も単なるホラー映画,パニック映画の範疇を越えた重層的で深みのある人間ドラマとなっている。その意味で,凡百のホラー映画,パニック映画とは一線を画している。

 この映画で描かれている恐怖は二つだ。一つは得体の知れない化け物が襲ってくる恐怖,そしてもう一つは恐怖に翻弄されて集団狂気に陥っていく「人間の怖さ」だが,後者の方が格段に怖い。同じ町に暮らす顔見知りの人間同士なのに,ちょっとしたことをきっかけにして大半の人間が犠牲者の血を求めるサディスティックな狂気の集団に変貌していくのだ。

 その集団狂気を生み出すのは,熱心に聖書を読み,聖書を心から信じている一人の中年女性だ。彼女は,霧に包まれた町が怪物に襲われ,巨大な昆虫型の化け物に襲われるたびに,旧約聖書の黙示録などの言葉を引用し,「これは,科学を盲目的に信じて聖書と神を軽んじたために神が下した罰だ。すべて聖書で予言されていることだ。今こそ神に祈らなければいけない」と狂ったように喚きたてる。もともと変人と思われていた彼女の言葉に耳を傾ける人はいなかったが,ある事件をきっかけにスーパーの中の人間は二つに分かれてしまい,多数派は彼女の言葉(=旧約聖書)に救いを求めていき,彼女の「神が使わした怪物を静めるためには生け贄の血が必要だ」という説教を信じ,最初の犠牲者を血祭りに上げる。善良なキリスト教徒の集団が,一人の狂信者によって血を求める殺戮マシーンに変わっていく。しかも,たった二日間で変わるのである。この変化の過程が背筋が凍るほど怖い。

 過去の人類の戦争の歴史において,神の御名のもとに行われた戦争でこそ,人間のサディズムが最も強烈に発揮されきたことを思い出さざるを得ない。

 この中年女性が常に引用するのは旧約聖書,つまりユダヤ教の教典だ。旧約聖書の冒頭,エホバの神はアブラハムに「私は嫉妬の神である ("I am a jerous God"・・・でしたっけ?)」と名乗る。旧約聖書を読めばわかるが,ユダヤ教の神は嫉妬の神であり復讐の神だ。ユダヤの神とユダヤの民を蔑ろにした民族に対し,ユダヤの神がどれほど残酷で執拗な罰を下したかが書かれ,ユダヤの民がユダヤの神の名を叫びながらどれほどの残虐行為を行ったかが書かれているのが旧約聖書である。

 この狂信女性は,霧に閉ざされたスーパーに起こる様々な出来事が,既に旧約聖書で予言されていることを人々に説く。もちろん,ノストラダムスの例を出すまでもなく,予言の書というやつはどうとでも取れるように記述されているため,「旧約聖書では相対整理論が予言されている。素粒子理論すら予言されている」と言い張ることは可能だ。どうとでも取れるように書いてあるから,解釈次第なのだ。だからこそ,狂信者にとっては布教のための有力な武器になるわけだ。人間は「予言者」に弱いのだ。


 このような「狂信者に引きずられて集団狂気に陥る人間集団」の怖さを主眼に描いたのがこの映画だから,その反動として「襲いかかってくる化け物」の比重は軽くなってしまう。そして,巨大昆虫型化け物にしても巨大タコの足のような化け物にしても,恐ろしいには恐ろしいが,叩き潰したり斧で切ったりすれば簡単に殺せるのだ。要するに,人間の通常武器で応戦可能というレベルである。このため,「異形の怪物パニック映画」としてはインパクト不足になってしまったようだ。

 そして何よりおかしいのは,シャッターを変形させるくらいの力を持っているのに,ガラス一枚あると襲ってこない,という不自然さである。もちろん,パニック映画特有の「ご都合主義」なのだが,このあたりについては説明すべきだったと思う。

 それよりさらに安易だったのは,映画後半で明かされる怪物たちの正体である。この程度の説明で,こいつらの登場を納得しろと言われても困ってしまう。もちろん,キングの小説はこのような設定なのかもしれないが,ちょっと安易すぎると思うのだ。なぜアメリカ軍が「あれ」を研究していたのかも不明だし,どのようにして「あれ」との扉が開いてしまったのかももう少し丁寧に説明してほしかった。


 この映画は前述のように「二つの恐怖」を描いた作品だが,「正体不明のモンスターが襲ってくる恐怖」は実は狂言回しにすぎないことは明らかだ。ビジュアル的には「異形のモンスター」が襲ってくる場面は見せ場の一つとなるが,この映画に関しては「異形のモンスター」については暗示的に示すのみにした方が,さらによかったかもしれない。

(2009/11 /10)

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