《ライフ・オブ・デビッド・ゲイル》★★★★(2004年,アメリカ)


 「ううむ,そう来たか。ちょっと見事だな」と久しぶりに唸らされた作品である。死刑制度は是か非か,という重い問題を中心に据えた社会は映画であると共に,タイムリミット系サスペンス,謎解き系サスペンスとして見ても最後まで目を離せない作りになっていて,入念に作られた映画である。まだ見ていない人は,見て絶対に損のない作品とオススメする。


 主人公はデビッド・ゲイル(ケヴィン・スペイシー)。死刑囚であり,控訴請求が却下されたため,1週間後に死刑執行が決まっていた。それまで沈黙を守っていたデビッドだが,ある新聞社に女性記者ビッツィー(ケイト・ウィンスレット)を指名し,死刑執行までの3日間連続でインタビューに応じようと持ちかけてきた。ビッツィーは取材源を最後まで明かさなかったため1週間,警察に拘留されたこともある硬骨のジャーナリストだった。そして新聞社は彼女に駆け出しの男性ジャーナリストをつけ,取材に向かわせ,死の直前の取材が始まる。

 デビッドは大学の哲学の売れっ子教授であり,妻はスペイン駐在大使の娘,そして最愛の息子にも恵まれた「勝ち組」の男である。そして彼は,死刑制度廃止の中心的メンバーでもあった。

 だが,大学の卒業パーティーで一人の女子学生から言い寄られ,それに応じてしまったことから彼の人生は坂を転げ落ちるように転落していく。女子学生からレイプの告発をされ,彼の名声は地に墜ち,大学の職を失い,死刑廃止運動の同志たちから疎まれ,妻子はスペインに去り,彼はアルコール依存になる。

 一度は立ち直ったものの,彼は死刑廃止制度の中心的活動家の女性をレイプしたのちに絞め殺したという罪に問われ,それに対して死刑判決が下ったのだ。

 1日目,2日目とデビッドの話が進むにつれ,ビッツィーはデビッドの死刑が冤罪ではと疑うようになる。女性殺害現場から決定的な証拠品が持ち去られていたからだ。そして,刑務所近くのモーテルに泊まっている彼女の部屋に何者かが侵入し,一本のビデオテープを残していく。それは女性殺害の一部始終を納めた正視に耐えない光景が映っていたが,そのビデオを繰り返し見たビッツィーはついにそこにデビッドの冤罪を照明するものを発見する。

 3日目のインタビューの最後,デビッドは「息子のために,自分の冤罪をはらしてくれ」とビッツィーに告げる。彼の死刑執行は翌日の夕方6時ちょうどであり,残された時間はあまりにも少なかった。
 そしてビッツィーはついにデビッドの無実を証明する証拠品を手に入れる。しかしそれは,死刑執行の数十分前であり,その頃デビッドは死刑執行直前の「最後の食事」を食べようとしていた。かつて,息子が自分に「明日の朝はこれを作って」とねだられていた食事だった。証拠品を手にビッツィーは刑務所に車を走らせるが,時間は刻々と過ぎていく・・・という映画である。


 映画のレビューを書いているサイト,ブログは枚挙に暇がないが,恐らくそれらの書き手を悩ませる映画の一つであろう。あまり書いてしまうとネタバレになるし,かといってある程度のところを書かないと映画の紹介にも感想にもならない。そのあたりのかねあいが非常に難しいのだ。

 死刑制度の是非については,この映画の作り手は極力中立的な立場を保とうとしているが,間違いなく否定派だろうと思う。犯人を殺しても犠牲者の命は戻らないこと,死刑が結局は憎しみの連鎖を生むこと,人間が裁く以上,冤罪が避けられないこと,死刑が犯罪の抑止になっていないこと・・・など,様々な理由が映画の中で挙げられている。死刑推進派の州知事がテレビ番組でデビッドと討論する場面があるが,討論は明らかにデヴィッドに分がある(ちなみに,このテレビ討論で知事がデビッドをやりこめる場面があるが,恐らくこれが○○の直接の原因となったかもしれない)

 日本の場合には無期懲役となっても,ほとんどが10年くらいで出所しているため,「死ぬまで娑婆に出られない無期懲役を」という主張もあるが,恐らくそうなったら,受刑者自然に死ぬまで国が面倒を見なければいけなくなり,刑務所は寝たきり患者の巣窟,最大の介護施設になってしまうという意見もあるようだ。犯罪者を社会から隔離することで安全な社会を,というのは分かりやすい主張だが様々な問題を秘めているのだ。

 死刑制度の是非は非常に重い問題だが,この映画を見るのなら,両者の立場にはそれぞれ相入れない考え方があるんだな,ということを認識し直す程度でいいと思う。この映画の最後の最後の「あの」シーンは,○○の行動の原因が死刑廃止問題だけでなかったことが明らかにされるからだ。むしろ,死刑問題すら,観客を惑わすための仕掛けの一つに過ぎないのかもしれないのだ。それほどプロットは綿密に練り上げられ,伏線が映画全体に必要十分に張り巡らされているのだ。強烈なメッセージ性を秘めた社会派映画であると同時に,見事な娯楽映画でもあるのだ。


 もちろん,「ほぼ完璧」とはいっても「非の打ち所が一つもない」というわけではない。最後の最後に明かされる驚愕の真相が,途中である程度予測できてしまうからだ。なぜ予想できるかというと,あまりにも綿密・緻密に組み立てられているため,演繹的に考えていくと結論はほぼ一つに絞られてしまうのだ。
 「火曜日,水曜日,木曜日の3日間に1日2時間だけインタビューに応じ,翌日(金曜日)の夕方,死刑が執行される」というのがこの映画の時間軸の流れだが,なぜ死刑執行の直前にインタビューに応じたのか,その時間を2時間と限定したのは何のためか,そのインタビューによりビッツィーが入手できる(=デビッドから伝えられる)情報量はどのくらいなのか,その情報に対してビッツィーはどのように行動できるのか・・・といった事を計算していくと,結論はほぼ一つしかなくなり,実際,それが真相となる。

 だが,映画を見ている最中にそこまで推理するのはやはり大変である。途中でDVDをストップさせて情報を整理し,しばしの沈思黙考をすればなんとなく自体の真相を推論できるが,映画館で見ながらそこまで考えるのはほぼ不可能ではないかと思う。

 そして,映画の最後の最後に明かされる真相は衝撃的だ。それが途中で▼▼(男性)が口にする言葉に起因しているであろうことは容易に想像できる。だが同時に,彼にとってそれしか解決法がなかったのか,それ以外に解決法がなかったのか,そもそもそれは本当に解決法だったのかという疑問は残る。単にエキセントリックな人間の暴走ととられる可能性のほうが強くないだろうか。そして何より,真相がわかったからといって,それで果たしてあの子供は納得するのだろうか,という問題もある。

 恐らく,普通の映画ならここまで突っ込んで考える必要はないと思うが,何しろこの映画は「ただもの」ではないし,この作品が提示する問題はあまりにも深いのである。


 これ以上,この映画について説明することは私には不可能だ。これ以上書いたら,この映画のネタばらしになるし,それはこれからこの映画を見る人に対し失礼に当たると思う。だが,多くの人に見て欲しい。これは本当に重くて苦くて,そして面白い映画だ。

(2009/11/19)

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