《約束の旅路 "Va, Vis et Deviens"》★★★★★ (2005年,フランス)


 なんというすごい映画なんだろうか,なんと素晴らしい映画なんだろうか。久々に映画を見て泣いた。140分を超す作品だが,140分ってこんなに短い時間だったんだろうか。

 親子の愛とはこれほどまでに深いものなのか,信仰とはここまで強いものなのか。ここで描かれているのは,人間の愚かさと人間の尊厳,憎しみと情愛,民族の誇りと人種差別,そのすべてだ。そして,その醜さを凌駕するものがあり,それが気高さであることを教えてくれる。


 1980年代,イスラエルはアメリカと共同して「モーセ作戦」を実行に移す。有史以来エチオピアで暮らしていたユダヤ人(ファラシャと呼ばれているエチオピア山岳地帯に暮らすユダヤ人。モーセのエジプト脱出に従わなかったユダヤ人の子孫とも言われていて,その数2万余とされる。もちろん外見上はエチオピア人であり黒人だ)をエルサレムに移住させようという計画だ。しかし当時のエチオピアは社会主義国で親ソ連政策をとっていたため,ファラシャを一旦,スーダンのエチオピア難民キャンプまで徒歩で移動させ,そこから飛行機でイスラエルに輸送するという作戦を立てる。

 そのスーダンの難民キャンプに一組の母子が到着するが,彼らはファラシャではなくキリスト教徒だった。このままでは子供も自分も助かる道はない。そこで母親は子供だけでもファラシャの列に紛れ込ませようとし,子どもの手を離し,嫌がる子供をファラシャの列に押しやり,「行きなさい。そして何者かになりなさい(原題はこの言葉から取られている)」と声をかける。子供(9歳)は一人のファラシャの女性の手を握る。彼女はその朝,同じくらいの子供を亡くしたばかりだった。彼女は後ろを振り返り,子どもを見つめている一人の女性に気が付き,彼女が胸の前で十字を切る様子を見る。それで彼女はすべてを察し,自分の子供としてこの子をエルサレムに連れて行くことを決意する。

 厳しい入国審査(もちろん,ユダヤ教徒以外は入国させないため)を何とかパスし,子供はシュロモという新しいユダヤの名前を与えられ,二人は収容施設に落ち着く。しかし,そこで女性は以前からの咳の発作がひどくなり,遂に亡くなってしまい(おそらく結核だろうと思う),シュロモは一人取り残される。

 独りぼっちになったシュロモを一組の夫婦(イスラエル人とフランス人のカップル)が救う。彼を養子として向かいいれたのだ。二人は,自分の子供(すでに夫婦には二人の子供がいた)を分け隔てなく惜しみない愛情をシュロモに注ぎ,やがてシュロモは学校に通うようになるが,シュロモはその家庭にも学校にもなかなか馴染めない。

 当時のエルサレムには「白いユダヤ人」と「黒いユダヤ人」がいたが,エチオピアから北ファラシャなどの「黒いユダヤ人」は常に差別されていた。その差別感情は学校の深いにもあり,ファラシャはアフリカの伝染病をまき散らしているという噂まで立つ始末だった。しかし,そういう不合理な差別に対し,母親は敢然と抗議する。

 次第に家族の中に溶け込んでいくシュロモだったが,彼は片時もスーダン・キャンプの母親を忘れない。自分はあの時母親に捨てられたと思い込んでいる。そして同時に,自分がユダヤ教徒ではなくキリスト教徒であることも知っていて,この地に暮らしていいのかと自問するようになる。

 9年後,成人式を終えたシュロモは次第に育ての父親に反抗するようになり,同時に,かつてスーダンのキャンプで自分を助けてくれた医師とエルサレムで再開したことから,自分も医師となって国境なき医師団に入ろうと考えるようになり,ファラシャとして差別されない地,パリで医学を学ぶことを決意する。そんな彼をフランス人の養母が優しく支えてくれる。

 医者になったシュロモはインティファーダ(パレスチナ人によるイスラエルへの抵抗運動)が吹き荒れるエルサレムに戻り,彼に一途な愛を捧げていたユダヤ人女性(白人)と結婚する。しかし,彼女の両親は黒人であるファラシャと結婚することを許さず,結婚式には新婦側の親族は一人も参加しない。

 だが,シュロモには妻に隠していた秘密があり,ある日ついに,その秘密を打ち明けてしまう。その秘密に怒った妻は家を出るが,その妻の元をフランス人の養母が訪れ,優しく言葉をかける。

 やがてシュロモは国境なき医師団の一員としてスーダンキャンプを訪れ,忙しい毎日と送っている。そんな彼のもとにエルサレムの妻から電話がかかる。ようやく「パパ」と話せるようになった子供の声を聞かせるためだ。子供の声を聞いていた彼の眼に,一人の老婆の姿が目に入る。それは,片時も忘れたことのないあの母親だった。十数年ぶりにすっかり成長した息子と再会した母親は,言葉にならない叫び声をあげる。


 この映画が取り上げている問題は深くて複雑で,どれ一つとっても一筋縄では解決できない問題ばかりだ。例えば,同じユダヤ人としてイスラエルに向かいいれられたはずのファラシャが常に「白人のユダヤ人」から差別されていたという問題一つとっても,白人種が持つ黒人に対する差別意識がいかに根深く根強いものであるかがわかる。だからこそ,シュロモに思いを寄せる女子生徒の父親は娘とシュロモの交際を禁じ,それどころか,結婚式にも参加しない。

 だからこそ,スーダンキャンプから女性とエルサレムに入ったシュロモが月を見て「エルサレムに行くと僕たちも肌の色が白くなるの?」と尋ねるシーンを強烈に思い出してしまう。そして同時に,親も兄弟も親戚もすべて捨ててシュロモと一緒になろうと決意する女性の愛情の一途さと愛の強さに感動する。


 あるいは,冒頭のエチオピアの山岳地帯からスーダン・キャンプに向かうファラシャや難民の群れの圧倒的な貧しさに目を覆わんばかりだ。シュロモの兄はたった一杯の水のために殺されたのだ。エルサレムにたどり着いたシュロモはシャワーで体を洗われたとき,排水溝に流れていく水を見て必死に手でせきとめようとする。この子がどれほど過酷な環境で生きてきたのかが痛いほどわかるシーンだ。

 母親は子供を助けようと自分に配給された分のわずかばかりの食料さえも子供に食べさせようとするが,それでも子供は飢えと病気で次々と死んでいく。

 しかも,エチオピアからスーダンのキャンプまで数百キロの行程であり,それを歩いて移動しなければいけないのだ。実際,生きてエルサレムにたどり着けたのは4000人足らずで,途中で命を落としたものは4000人だったというから,その苛酷さには息をのむしかない。そして,シュロモが国境なき医師団として再度訪れるスーダンの難民キャンプだが,そこも圧倒的な貧困が支配している。そして,スーダン・キャンプでもエルサレムでも,より弱い者は常に搾取の対象,攻撃の対象であり,彼らはさらに困窮していく。


 そういう苦難の末に彼らがたどり着いたのが「約束の地」であるエルサレムだが,そこに待っていたのは強烈な人種差別だったのだから,何とも救われない。紀元前の昔から差別されてきたユダヤ人はようやくイスラエルという「約束の地」に差別のない国を建国したはずなのに,そのイスラエルでは「白人のユダヤ人」が他の人種を差別する側に回ったのだ。

 そういう中で,シュロモに惜しみない愛情を与える養父,養母の姿は感動的だ。毅然としてイスラエル社会の人種差別という不正に抗議し,シュロモがこの社会で生きていけるように努力の限りを尽くす。その生き方は一本筋が通っていて凛として揺るぎがない。この二人の強さとしなやかさに圧倒される。

 同様に,過酷な人生からシュロモを守ってくれた多くの「善意の人」が登場する。養父の父であり,幼いころに手紙を代筆してくれた老人であり,難民キャンプで機転を利かせて彼を助けてくれた医師であり,10年間,彼を待ち続けてくれた恋人がそうだ。そういう意味で彼は幸運な一人だ。そして彼の背後に,わずかな善意すら与えてくれる人がいないために幼くして死んでいった,多くの無名のシュロモがいたこともまた,この映画は告発している。


 こんなすごい映画には,余計な言葉はいらない。どんな言葉もこの映画の感動には及ばない。少なくとも私には,この感動を伝える言葉はこれ以上思いつかない。

(2009/12/09)

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