《キャサリン・ハイグルの血まみれのドレス》★★ (2003年,アメリカ)


 この映画を7文字で表すと「だからなんなの」,あるいは「それがどうした」となる。9文字だと「見るだけ時間の無駄」ってことになる。要するに,最初から最後まで注意深く熱心に見たとしても,前提となっている知識がないと「そもそもこの映画は何をテーマにしたものか」が全くわからないのである。その「前提となる知識」とはアメリカの小説家エドガー・アラン・ポーに関する知識であり,彼の書いたすべての小説について,特に『アッシャー家の崩壊』について完璧な知識である。「ポーってアメリカの作家だっけ?」,「彼の名前をもじってペンネームにしたのが江戸川乱歩なんだよ」程度の知識では,手も足も出ないのである。

 もちろん,アメリカ人にとってはポーの小説は常識中の常識なんだろうし,『アッシャー家の崩壊』は国民的必読の書なのかもしれない。だがそれはアメリカ国内でのことであり,ドイツやフランスや日本では常識ではないのである。日本では,古い池にカエルが跳びこんでそれを見ている男がいたら「これは松尾芭蕉だな」と分かるが,それは日本の常識だからであり,同じ映像をスペイン人やアイルランド人に見せてもわけがわからないのである。この映画はそれと同じだ。

 だから,ポーの小説ならどれも大好き,すべての作品に精通しているという人がいたら,この映画はたぶん面白いと思う。それ以外の人にとっては,単なる「わけわからん映画」でしかない。
 ちなみに,この小説を主題にした映画に《ハウス・オブ・アッシャー 〜アッシャー家の崩壊〜》があるが,これもなんだかよく分からない映画だったなぁ。誰が映画化しても変な映画にしかならないって,変なの!


 で,この映画を理解するのに必須学習学科である『アッシャー家の崩壊』の内容についてかいつまんで説明する。

 これはポーの短編小説で,「私」が旧友のロデリック・アッシャーから手紙をもらうところから始まり,そこには彼自身が病気であり,唯一の友人である「私」に会いたいと書かれていた。そこで「私」はアッシャー家を訪れるが,屋敷は陰鬱として不気味で,友のアッシャーもやつれ果てていた。また,ロデリックの双子の妹のマデリンは重病の床に就いていた。「私」はアッシャー家に数日滞在することにしたが,数日後,ロデリックから妹のマデリンが死んだと伝えられ,それ以後,ロデリックも病に臥せるようになる。

 そして数日後の嵐の夜,ロデリックは「私」に,妹を生きながら棺に入れて埋めて殺したことを告白され,家の扉の外にマデリンが立っていると叫ぶ。扉をあけると恐ろしい形相のマデリンが立っていて兄に襲い掛かり,ロデリックは死ぬ。実は,ロデリックは実の妹を妊娠させてしまい,それを秘密裏に処理するために妹を生きながら棺に閉じ込めて埋葬したのだった。

 そして,代々続くアッシャー家の屋敷に亀裂が広がり,屋敷は崩壊し,沼にのみこまれていった・・・というのが,大体のあらすじらしい。この映画はこれをもとに作っているわけである。


 以下,映画のストーリーを紹介するけど,一部ネタバレになっている。ネタバレしない限りストーリーを説明できないからだ。また,今後,この映画を見たいという酔狂な人もいないとは限らないので,その人はこの程度の知識を持ってから見た方がいいと思うので,お節介と思いながらも説明してみることにした。とにかく,登場人物の人間関係が複雑極まりないのである。

 映画は,作家のポーが殺人現場に遭遇する場面で始まる。どうやらこれは,ロデリックの息子が若い女性を殺害し,その心臓を抉り出すという猟奇殺人の現場だった。そしてロデリックの息子はポーに向かい,「お前が興味本位でアッシャー家の秘密を取り上げたため,由緒あるアッシャー家は崩壊してしまった」と言う。ここでロデリックの息子が殺害したのは,ポーの妻の従姉妹のエミリーという女性である。ちなみにエミリーはそのちょっと前,チャールズ・ヘッジロウと結婚して男の子を生んでいた。

 そして舞台は現代に移る。エドガー・アラン・ポーの子孫にして,新進気鋭の若き人気作家,イーサン・ポーは御先祖様について講演するため,ある町を訪れ,そこで,ヘッジロウ家の末裔である若い女性のアンと出会う。実はアンは,エミリーとチャールズの間にできた子供の7代目の末裔だった。そして,この出会いをきっかけに,アンとイーサンの周囲では不可思議な事件が連続し,同時に二人は次第に惹かれあい,愛し合うようになる。

 イーサンはアンの屋敷で執筆活動をするようになるが,その屋敷にはポーの亡霊が住み着いていて(?),イーサンに憑きまとい,イーサンは次第にポーの亡霊に支配されていく。

 出版社でのイーサンの担当編集者(エージェント?)はマーガレットだが,実は彼女はアッシャー家の末裔であり,しかもイーサンの実母であることが次第に明らかになっていく。つまり,イーサンはポー家の末裔ではなく,アッシャー家の末裔だったのだ。同時に,アンがポー家の正統の末裔であることも明らかにされてくる。

 そして次第に,イーサン,そしてその母のマーガレットが最初から,アンを狙っていたことが分かってくる。どうやら,アッシャー家を再興するためにはアンを殺して生贄にするか,アン(=ポー家の正統の末裔)と結婚して子供を作る必要があるらしい。

 そしてついにイーサンはアンを拘束し,ロデリックの息子がエミリーにしたように,アンの心臓を抉り出そうとするが・・・という映画だ。


 うーむ,こうやってあらすじを書いてみて,改めて「何がなんだかよくわからない映画だったなぁ」という気がする。たぶん,ポーの小説なら全部知っている,ポーについてなら何でも知りたい,という熱狂的ポー・マニアにとっては面白い映画なのかもしれないが,残念ながら私はそうではないのである。

 たぶん映画の作り手は,「エドガー・アラン・ポーの作品は全部知っているよね。彼の全作品を知り尽くしている人ばかりこの映画を見ているはずだよね。だから説明はしないよ」というスタンスで映画を作ったんだろうな。もしかしたら,大多数のアメリカ人にとって,ポーとは「アメリカの誇るべき大芸術家,代表的作家。アメリカ国民にとってワシントンやリンカーと同じくらい重要な存在」なのかもしれないが,それ以外の人間にとっては,「ポーって200年くらい前のアメリカの作家だっけ? そういえば,作品読んだことがあったっけ?」程度の存在ではないかと思う。こういう「映画の作り手側と観客のすれ違いの構造」が最後まで埋められないまま映画は終わってしまうのだ。要するに,観客置き去り状態なのである。

 例えば,映画の細かい場面を見ていくと,ポーの諸作品の一場面を彷彿とさせるシーンが連続する。私が確認したところでは,少なくとも『赤死病の仮面』,『大鴉』,『落とし穴と振り子』,『黒猫』,『告げ口心臓』,『早すぎた埋葬』のシーンが象徴的に使われているようだ。もちろんそれはそれで,映画の手法としては正当なものだが,そのシーンの意味が観客に伝わらなければどうしようもないと思うのだ。要するに,徹頭徹尾,ポー・マニアによる,ポー・マニアのための映画なのである。ポー・マニア以外は最初から「アウト・オブ・眼中」なのである。


 それと,人間関係が異様にゴチャゴチャしていてわからな過ぎる。登場人物はイーサン,アン,ポーの亡霊(?),マーガレット,アンの友達,その他数名と多くないのに,「実は彼はポー家の末裔でなくアッシャー家の末裔で・・・」という具合に人間関係が二転三転するため,なんとも分かりにくいのだ。なんでこんなに複雑にしちゃったのだろうか。

 あと,例えばアンの友人が縛られてグルグル巻きにされ,壁の中に閉じこめられるシーンのように,何のためにそんな事をしたのか,最後まで不明の行動が少なくない。また,イーサンがなぜアンを殺そうとしたのかも最後まで理由が明かされることはなかった。ポーの小説をテーマに虚実入り混じった不思議な世界を描きたかったのかもしれないが,それがまったく効果を上げていないのである。


 それにしても,《キャサリン・ハイグルの血まみれのドレス》という邦題もあざといなぁ,と思う。キャサリン・ハイグルは確かにアメリカのテレビ映画シリーズ《グレイズ・アナトミー 恋の解剖学》で一気に有名になったけど,彼女の名前をつけとけば,ハイグルのファンが間違って(?)手に取ってくれるはず,と考えていたんだろうな。さもしい根性である。

(2010/01/06)

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