《レッド・バイオリン》★★★★★ (1998年,カナダ/イタリア)


 音楽好き,特に弦楽器好きには宝物のような傑作映画だろう。一丁のバイオリンが完成するまでの制作過程に始まり,そのバイオリンを手に演奏する登場人物たちの見事な演奏に息を呑み,古楽器鑑定士が楽器を鑑定してゆく様子に心を奪われるはずだ。そして何よりいいのは,音楽の部分に「嘘」がないことだ。作品中の演奏する姿,楽器を作っていく作業,楽器を鑑定する手順など,全てに「嘘」がないのだ。

 「嘘」とは何か。例えば,映画中のピアニストが演奏するシーンで,ピアニストを演じる俳優は「演奏しているふり」をしているだけで,映像中の手は本物のピアニストの手を撮影し,あたかも俳優が演奏しているように合成する,なんていうシーンがそれだ。もちろん,それに気がつく人は少ないが,わかる人にはわかるのである。ピアノを演奏するシーンのちょっとした肩の動きで本当に弾いているか弾いているフリをしているかは一目瞭然なのだ。同様に,オペラをちょっと勉強したことがある人なら,映画の中のオペラ歌手が「口パク」しているのがわかるはずだ。
 そういう「嘘」が見えた途端,感動が薄れてしまうのだ。

 しかし,この映画にはそういう「嘘」はない。後述するように,孤児院の天才少年役は本物のヴァイオリニストで,彼の指の滑らかな動きも流れるような優美なボーイングも惚れ惚れするほど美しく,本当に演奏していることがわかる(ちなみに,イギリス人のヴァイオリニストは俳優が演じ演奏は別だが)。だからこそ,彼の演奏の凄さが見ている側にストレートに伝わってくる。本物の凄みとはこういう所に現れる。


 この映画は,伝説の名器「レッド・バイオリン」に魅せられ,翻弄されていく人間たちの姿を描いた壮大な物語だ。

 映画はまず,現代のモントリオールのオークション会場が舞台となる。ここに100年前に姿を消した伝説の名器が突如登場し,オークションにかけられたのだ。その名は「レッド・バイオリン」。

 そして舞台は1681年のクレナモ(バイオリン制作で名高いイタリアの街)に遡る。この町でバイオリン職人をしているニコロ・ブソッティには臨月の妻がいた。彼は子供の誕生を心待ちにしていて,産まれてくる子供への贈り物として一台のバイオリンを作っていた。一方,妻のアンナは初産の妊婦として自分が年をとっていることに不安を覚え,使用人の老婆にタロット・カードで産まれてくる子供の未来を占ってほしいと申し出る。アンナは5枚のカードを選び,まず1枚目のカードが表にされ,老婆は「この子どもは長い旅に出ることになる」と予言する。
 やがて満月の晩,アンナは産気づくが,難産のために母子ともに亡くなってしまう。最愛の妻と子供の突然の死にニコロは呆然とするが,やがて一台のバイオリンが完成する。それは不思議な赤い色のニスが塗られていた。
 タロットカードが占ったのは赤ん坊ではなく,「レッド・バイオリン」の運命だったのだ。

 100年後,その赤いバイオリンはオーストリアの修道院が経営する孤児院に流れ着いていた。そして,ガスパーという名の一人の天才少年が現れ,その赤いバイオリンを巧みに演奏する。彼に英才教育を施すため,ウィーンの音楽教師が彼を自宅に住まわせ,厳しい訓練が始まるが,ガスパーは課題を次々とこなし,超絶技巧を身につけていく。そして,音楽家のパトロンをしている貴族の前でのオーディションの日になるが,その最中にガスパーに死に神が襲いかかる。赤いバイオリンはガスパーの小さな棺の中で一緒に葬られるはずだったが,すんでのところで持ち出される。

 そしてさらにこのバイオリンは19世紀末,イギリスのオックスフォードにたどり着いていた。イギリスの誇る天才バイオリン奏者にして作曲家,フレデリック・ポープがある日,ジプシーの女性が演奏するバイオリンの音色に惚れ込み,そのバイオリンを譲り受けたのだ。ポープはそのバイオリンを手に次々と美しい音楽を生み出していったが,小説家の恋人の不在の時にアヘン中毒になってしまい,ジプシー女性と情事に耽っているところを恋人に発見されてしまう。逆上した彼女はピストルの銃口をポープに向け,引き金を引くが,銃弾はバイオリンの首を打ち抜き,ポープも殺されてしまう。そして赤いバイオリンはまた姿を消す。

 20世紀に入り,バイオリンは中国の楽器店の店頭で売られ,一人の音楽家が娘のために購入する。しかし,この少女が成長したとき,中国を文化大革命という激しい嵐が吹き荒れる。そこでは,ヨーロッパ音楽を教えていたというだけで音楽教師は自己批判を強要され,バイオリンは西洋の楽器という理由で破壊された。かつて赤いバイオリンを手にしていた少女は共産党の幹部になっていたが,自分がこの楽器を持っていることは危険と感じ,一人の音楽教師に楽器の命運を託す。

 やがて音楽教師はひっそりと亡くなるが,彼の自宅の屋根裏には膨大な数の楽器が秘匿されていた。それは,彼が命に代えて収集した楽器だった。外貨獲得に懸命な中国政府はそれをカナダのオークションにかけて売り払うことにし,楽器の鑑定士としてチャールズが選ばれる。彼はそこで一つのバイオリンに目を奪われる。それはまさに,100年前に姿を消した,あの伝説の「ポープのレッド・バイオリン」に間違いはなかった。そしてチャールスは不思議な色のニスの分析に没頭し・・・という映画である。


 こんな映画だが,とにかくバイオリンの音色の素晴らしさに酔いしれてしまう。演奏する曲がいいとか曲の音楽性が高いとかそういうこととは無関係に,バイオリンという楽器の魔性の響きに圧倒される。たった4本の弦があらゆる人間の感情,希望,希求,絶望,憧憬,強靱さ,脆さ,祈り,欲望,欲情,敬虔,清楚,妖艶・・・の全てを描きつくすのだ。そして,張りつめた高音はどこまでも果てしない高みに向かって上り詰めていく。バイオリンという楽器の持つ恐ろしいまでの表現能力に圧倒される。

 そして,例えば孤児院のシーンでは,何人もの孤児たちが時代を経て次々にレッド・バイオリンを弾いていく様子が描かれるが,常にバイオリンが中心に描かれていて,子供たちがバイオリンを選んだのでなく,バイオリンがそれにふさわしい奏者を選んでいったように見えてくるが,これは見事な演出だと思う。
 楽器を演奏したことがある人ならわかると思うが,楽器は演奏者を選ぶのだ。それをわずか数十秒の映像で見事に描き尽くしている。あらゆる音楽映画の中で白眉というべきシーンであろう。

 ガスパー少年を演じているのはクリストフ・コンツェという少年であり,正真正銘の天才少年だ。また,イギリスのポープ(ジェイソン・フレミング)の演奏をしているのはジョシュア・ベルという新進気鋭のヴァイオリニストである。いずれも圧倒的な演奏だ。フレミングの妖艶で朗々たる音色もすごいが,コンツェ少年が当時発明されたばかりのメトロノームに合わせて次第にテンポを速めるように練習し,最後にとてつもないスピードと正確さで超絶技巧を披露するシーンは鳥肌ものだ。


 テレビの「芸能人格付けチェック」という番組で,「数千万円のストラディバリウスと10万円のバイオリンを聞き分けられるか」という問題がよく出題されるが,芸能人のほとんどは聞き分けられないようだが,目隠しテストでは余程の人でない限り,聞き分けるのは難しいのが事実だ。私も恐らく聞き分けられないと思う。

 しかし,いい楽器とそうでない楽器は演奏者にはすぐわかる。私の経験では,よいピアノ(=値段の高いピアノ)はとても弾きやすく,長い時間弾いていても疲れない。囁くような弱音から轟くような轟音まで,労せずに出せるのがいいピアノだ。だから,いいピアノを弾いていると演奏者は音楽の表現に専念でき,その結果,いい演奏が生まれる。
 安物ピアノでも同じような音楽は生み出せるが,そのためには演奏者が細心の注意と努力を払わなければいけない。その注意と努力が表現への注意力を殺いでしまう。
 これが,高価な楽器と安物楽器の最大の違いだ。

 だから演奏家はよい楽器を選ぶのだと思う。聴衆に聞こえる音色に差がほとんどなくても,弾きやすい楽器とそうでない楽器,音がよく出る楽器とそうでない楽器は雲泥の差なのだ。だからこそ,この映画の演奏家たち,収集家たちは「レッド・バイオリン」に心を奪われ,何者を犠牲にしてもそれを手に入れたいと熱望するのだ。

 このあたりは,筆記用具の善し悪しと同じだろう。よい筆記用具とは文字を書いていて疲れないものであり,思考の妨げとなるあらゆるストレスのないものをいう。高価な万年筆だからいい文章を書けるわけではないが,いい万年筆は使っていることを意識させず,文章作りに専念できる環境を作ってくれる。
 そのためには,軸の形状と肌触り,ペン先の書き心地,インクの出などが全て高い水準にあり,なおかつバランスがとれている必要がある。だからこそ,長時間書いていても疲れないし,思考を妨げることもないのだ。よい道具とはそういうものだと思う。


 それにしても,1960年代後半から中国全土を吹き荒れた文化大革命の様子は何度見ても身の毛がよだつほど怖い。血に飢えた群衆が一人のアジテーターの言葉に暴徒と化し,「他国の文化は全て打ち壊さなければいけない,共産党の言葉だけが唯一正しいのだ」,と破壊活動を続ける様は目を覆いたくなる。人間はここまで馬鹿になれるのか,生き延びるためにはここまで馬鹿にならなければいけないのかと戦慄する。多くの知識人が「知識を持っている」というだけで断罪されて殺害されたのだから,まさに20世紀の焚書坑儒である。つくづく,この時代の中国に生まれなくてよかったと思う。

 ちなみに文化大革命とは1966年から76年にかけて続いた文化活動(資本主義文化を批判し,社会主義文化を創り出そうという活動)であったが,その実態は,中国共産党指導部内部における修正主義(今から考えると現実主義)に対して毛沢東と「四人組」が仕掛けた権力闘争であり,それはやがて一般市民を巻き込んだ粛清活動となり,膨大な数の国民が殺され,文化は跡形なく破壊され経済活動は停滞するという大災厄の時代であった。


 演奏家が楽器を選び,楽器が演奏家を選ぶように,この映画は観客を選ぶ。決して万人向けの映画ではないと思う。だから,音楽好き,楽器好き,バイオリン好きの人にだけお勧めする。そういう人なら絶対,この映画が描く「楽器に導かれて音楽を奏でる行為の愉悦と悦楽」がわかるはずだ。

(2010/02/05)

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