丁寧に作られたよい映画だし,印象に残るシーンが幾つもある作品なんだけど,最高に良かったかと大絶賛するほどでもないのだ。フランス映画の良い部分と悪い部分が混在している感じと言ったらいいだろうか。フランスでは200万人を動員した大ヒット映画であるが,多分,他の国ではそんなヒットにはならないだろうな,という感じである。
34歳の男,ミシェルは妻と3人の幼い娘を乗せた車を走らせている。車は小さくエアコンもないため,娘たちはもう我慢の限界のようだ。何とかサービス・エリアにたどり着き,ミシェルはトイレに行く。そこで彼は,高校時代の同級生を名乗るハリーという男に声をかけられる。ハリーはミシェルのことをよく知っているが,ミシェルには彼の記憶はない。ミシェル一家は田舎の別荘に向かう途中だったが,人なつこくて話し上手で暇を持て余しているハリーは旧交を温めようと提案し,別荘に招かれる。
依然としてミシェルにはハリーの記憶はないが,高校の同級生たちの動向に話が弾み,ミシェルが高校時代に書いた詩と小説の断片をハリーがそらで暗唱し,大絶賛する。そして,君には才能があるんだから,書き続けるべきだ,小説を完成させるべきだと話す。そしてハリーとその恋人は別荘に逗留することになる。
ハリーは若くして親の財産を受け継ぎ遊び暮らしているような生活をしていた。一方のミシェルは仕事も忙しく,生活も裕福というわけではない。別荘は古くて補修が必要であり,別荘暮らしと言ってもその大半は大工仕事と庭仕事に費やされた。もちろん乗っている車はボロボロだ。おまけに,車で2時間ほど離れたところに暮らしている父(すでに退職した歯科医)と母はミシェル一家の生活にことあるごとに干渉し,ミシェルの妻は夫が必要以上に両親に気を使い過ぎていることが気に入らない。
そんなミシェルにハリーは言う。「君は全てにいい顔をしようとして,それでかえってうまく行っていない。人生は単純に考えた方がいい。君の生活がうまくいくためならいくらでも援助するよ。君は本来の仕事(=小説書き)をすべきだ」と。そして「ボロ車では子供たちは大変だし,君にもストレスだ。いい車を買ってやるよ」と4輪駆動車(三菱パジェロ)をぽんと買ってプレゼントしてくれたのだ。
そして,ミシェルの両親が別荘にやってくる。ミシェルの父親はハリーの歯を治療したことがあり,ハリーのことをすぐに思い出す。一方,ハリーはミシェルの両親の息子に対する過剰な世話焼きに腹を立て,君が作家としての才能を発揮できないのは君が親離れできず,親が子離れできていないためだと言う。そして翌日早朝,ハリーはミシェルの両親宅を訪れ,ミシェルが大変なのですぐに来て欲しいといい,自分の車の後をついて急いで欲しいという。そして・・・という映画である。
ハリーとは何者なのだろうか。この映画についての数々の解説を読むと,意見はほぼ一致している。父親と日常生活に押さえつけられ,鬱々としているハリーの潜在意識が具現化したものだ。
恐らくミシェルは自分ではあまり意識していないだろうが,本当は小説家になりたかったのだろう。だが小説家への道は(恐らく)両親が許さなかったのかもしれないし,結婚して子供の親になってしまった以上,そんな夢みたいなことは言っていられない。また,小説を書こうにもそれで生活できるかどうかは不明だし,外国人相手にフランス語教師をしている方が生活は安定している。
そのように自分自身に言い訳し,自分を納得させて誰しも生きているわけだが,そうやって押さえつけていた潜在意識,潜在自我が突然吹き出し,ハリーという形を取ったのだろう。田舎の別荘に向かう車中でミシェルは不機嫌で今にも爆発しそうな表情をしているが,実はこの時点で内部では爆発してしまったのだろう。
そしてハリー(=ミシェルの潜在意識)は高校時代の文集に書いた詩と小説を誉め称えることで,ミシェルに「おまえは今と違った道を歩んでいてもよかったのだ。おまえには才能があるのだから」とけしかけ,その才能を発揮させる上で邪魔ものでしかない両親,そして,高校時代の兄の書いた詩を読んで笑い転げている弟をハリーは殺害する。そしてついには,妻と子供が最大の障害だとミシェルをそそのかすのだ。要するに,エディプス・コンプレックスに(無意識のうちに)悩む男の物語と言うこともできると思う。
そのように考えると,ハリーという人物の設定はきわめて魅力的であり,ミシェルの夢そのものなのだろう。若くして大富豪だった両親の財産を引き継ぎ,仕事をする必要もなく暇と金に飽かせて遊び回る毎日だ。おまけにナイス・バディの若い恋人がいて,二人のベッドでの相性は抜群らしい。誰でも一度は夢見る存在,それがハリーだ。
この映画はミステリーでありファンタジーだと思うが,ミステリーとして鑑賞するといくつか欠点がある。なぜミシェルの父親はハリーを知っていたのか,という疑問だ。
ハリーはミシェルだから,ミシェルが最初につきあった女子生徒の名前や友人のことを知っているのは当たり前だ。また,ミシェルがハリーについて見覚えないのも納得できる。だが,ミシェルの父親が「やぁ,ハリー,君か。覚えているよ」というのはどうなんだろうか。ハリーは実在の人間でないのに,なぜハリーのことをミシェルの父親は覚えていたのだろうか。これはどうしても合理的説明はつけられないと思う。
同様に,ハリーの恋人もハリー同様,潜在意識が具現化したものとするしかないはずだ。ミシェルやその妻同様,普通の人間ではありえないからだ。ハリーが出現したのがあのドライブ・インのトイレだとすると二人はそれ以前からつき合っていなければいけなくなるからだ。つまり,ハリー(=ミシェルの潜在意識)が出現したと同時に,この恋人も出現したことになる。となると,この恋人はいったい誰の潜在意識なのだろうか。
唯一可能性があるのは,ミシェルの妻の潜在意識,という解釈だが(何しろこの映画に登場する女性はこの妻とミシェルの母親しかいないのだ),そうなると,なぜ二人の潜在意識が同時に? という疑問が生じてくる。
もちろん,全てに合理的説明が付けられるわけではないし,そのような観点から見る映画ではないのかもしれないが,このあたりの作り方は緻密さに欠けていると思う。
それと,ミシェルが高校生の頃に書いた詩と小説の断片が,まるで面白くないのである。詩はどう読んでも「中二病」真っ盛りといった風情だし,『空飛ぶ猿』という小説にしても「タケコプターを頭に着けたテナガザル」そのもので,特に小説にするようなものでもなければ,そこから面白い物語にできそうな感じもない。これで小説家を目指すのは最初から無理だろう,と誰しも思うはずし,小説家にならなかったのではなく,単にミシェルは小説家になれなかっただけなんじゃないだろうか。
最後にミシェルは『たまご(卵)』という小説(?)を完成させたところで終わり,妻は「これはとても面白いわ。もっと小説を書くべきよ」と評価するが,肝心の卵は映画の中で2カ所にしか登場せず(ハリーがセックスの後に卵を探すシーンと,ミシェルが冷蔵庫を開けて卵がアップで写されるシーン),しかもそれは何かの象徴という感じでは扱われていないのだ(少なくとも私にはそう感じられた)。なぜ「たまご」なのかもわからなければ,「たまご」でどういう小説を書こうとしているのかも不明だ。もしかしたら,フランスの観客はこの映画の情報だけで「たまご」という小説の中身をあれこれ想像するのが好きなのかもしれないが,こう言うところにはちょっとついて行けないな,という気がする。
というわけで,ダーク・ファンタジーとして鑑賞する分には申し分ない作品だと思うし面白い映画である。基本設定も着想も悪くないので,このままハリウッド映画としてリメイクしたら原作を超える傑作になるんじゃないだろうか。
(2010/03/23)