どんな国にも隠しておきたい過去,なかったことにしておきたい事件がある。アウシュヴィッツ,カチンの森事件,ソンミ村の虐殺,731部隊・・・などがそうだろう。まして,その事件が明るみに出てからまだそれほど時間が経っていなかったり,当事者がまだ生存しているとなったら,なおさら表沙汰にはしたくないはずだ。
フランスにもそういう過去がある。この映画で扱っているアルジェリア戦争(1957〜1962)がそうだ。終結してからまだ50年も経っていない。
この戦争(=アルジェリア独立戦争)がどれほどフランスにとって「触れられたくない過去」だったかは,フランス政府がこの戦争を「アルジェリア戦争」と呼ぶことを公式に決めたのはなんと1999年だったことからもわかる。フランス政府にとってはこの戦争は過去の出来事どころではなく,触れられると血が吹き出してくる生々しい傷なのである。
そういう,現代フランスの恥部,闇ともいえる事件を扱ったのがこの映画だが,立案したのはなんと主演のブノワ・メジマルである。映画公開時,彼は30代であり,もちろんこの事件を直接知っているわけではない。つまり日本で言えば,キムタクが日中戦争での「あの事件」の真相に迫る映画を作ろうと発案し,映画を完成させ,公開するようなものである。このメジマルの勇気と男気に,あなたは驚嘆しないだろうか。
ちなみに,フランスがアルジェリアを植民地化したのは1830年である。音楽で言えばベートーヴェンが死んでまだ3年,ショパンが「革命のエチュード」を作曲したあたりである。それから130年という長きにわたり,アルジェリアはフランス領だったのだ。
だから,フランスにとってアルジェリアは「フランスの一部」同然だったため,アルジェリアの独立はフランス本土の一部が独立しようとするのと同じだったのだ。だからこそ,フランスは他の植民地の独立を認めてもアルジェリアの独立だけは認められなかったようだ。フランス人にとってこれは「クーデター」であり,アルジェリア人にとっては「独立戦争」だった。これがアルジェリアの戦場をより凄惨なものとした。
映画はこんな感じである。
マゼル前線基地に新たにテリアン中尉(ブノワ・メジマル)が派遣される。彼は前線勤務を自ら志願していたが,人道主義者であり,戦争中であっても戦争犯罪は許されず,捕虜は丁重に扱われるべきだと考えていた。彼の部下のドニャック軍曹(アルベール・デュポンテル)は歴戦の勇士であり,実戦経験のないテリアンに不安なものを感じる。
テリアンの部隊が配置しているのはフランス軍とアルジェリア解放戦線(FLN)の境界部であり,そこにある村はゲリラ軍のフェラガとフランス軍の二重支配状態だった。テリアンの部隊はその村に入るが,そこで彼が目にしたのは村人を暴力で脅す部下たちの姿だった。それに驚いたテリアンは部下たちを制止する。
翌日,テリアンたちはその村を再度訪れるが,そこで目にしたのは村民たちの死体の山だった。村人たちがフランス軍に接触したため,FLNが先手を打って皆殺しにしたのだ。その惨状を見てテリアンは混乱する。
翌日,立ち入り禁止地域を監視するテリアンの双眼鏡に,女たちが荷物を運んでいる様子が映る。「撃つな!」というテリアンの制止を振り切ってドニャックはその一団に銃撃を浴びせる。彼らは女の格好をしたフェラガだった。生き残ったゲリラを基地に連れ帰ったドニャックたちは捕虜を拷問にかけ,ゲリラのリーダーの居場所を聞き出そうとするが,それを見たテリアンは尋問を中止させる。テリアンにはまだ,戦争というものがわかっていなかった。
テリアンの部隊には数人のアルジェリア人が含まれていた。FLNから寝返ってフランス軍に加わった男と,第二次大戦中にフランス人として先頭に参加し,名誉勲章を授けられた勇士だ。そんな複雑な事情があることも,テリアンは次第に理解していく。
捕虜から聞き出したフェラガのリーダーの隠れ家を急襲するが,逆に敵に待ち伏せされ,テリアンの部隊は激しい攻撃を受ける。テリアンは本部に援護を要請するが,本部は「特殊爆弾」を使用すると回答し,救援のヘリはナパーム弾を投下し,ゲリラたちは一瞬の炎に包まれる。戦果を確認するようにとの本部からの連絡を受けて現場に向かったテリアンの目に入ったものは,無惨に焼け焦げた死体の山だった。「戦争以外ではナパーム弾の使用は禁じられている」というテリアンの言葉が空しく響く。
ゲリラのリーダーの行方は杳として知れず,さらにテリアンの判断ミスも重なり,部隊には次第に死者,負傷者が増えてくる。あくまでも負傷者の本部移送を訴えるテリアンに,本部の大尉がジープで駆けつけるが,そのジープまでがテリアンの目の前で攻撃され,テリアンは助けに急ぐが,彼が到着したとき,大尉の体は無惨に切り刻まれていた。そしてついに,テリアンは捕虜の拷問に自ら手を貸してしまうが,度を失って興奮する彼は捕虜を殺してしまい・・・という映画である。
戦争とは何か,なぜ人間は戦争をするのか・・・なんて議論はしない。戦争においてもルールは守るべきか,戦時下の「犯罪」とは何なのか・・・なんて議論もしない。そんな議論は空しいからだ。
私がこのような戦争映画を見ていていつも思うのは,こういう時代に生まれなくてよかったということだけだ。おそらく,私みたいな人間が兵士になったら,初日で死ぬのが関の山だろう。戦争映画でいえば,開始3分くらいで流れ弾に当たって死ぬ役だろうな。こんな戦場では,私は生き延びる能力は全くない。だからせいぜい,こういう時代に生まれなくてよかったと思うしかない。
ドニャック軍曹が捕虜に電気ショックで拷問にかける様子が繰り返し登場する。目を覆わんばかりの凄惨な場面である。これだけ見るとドニャックは相手を拷問にかけること自体を楽しんでいるように見えてしまうが,実は彼自身も深く傷ついていて,部下に命令して自分自身に電気ショックをかけさせることで何とか精神の平静を保っていることがわかる。そしてテリアンもまた繰り返し行われる拷問に精神を病んで行く。
拷問にかける方もかけられる方も傷つくが,傷ついていない人間がいる。言うまでもなく,「なんとしても捕虜からゲリラのリーダーの居場所を聞き出せ」と命令し,そこで何が行われているかも知らず,どうやって情報を聞き出したのかも知らず,情報を手にして自分の手柄にする上級将校だ。
こういう連中は安全なところで作戦を立て,安全な場所から命令を出すだけだから,恐怖から正気を失うこともなければ自ら死を選ぶこともない。戦場に立つ兵士は恐怖と自責の念で正気を失っていくが,兵士を戦場に送り込む司令官たちは平穏な毎日を楽しんでいて,戦争で財を成していく。
映画の中でナパーム弾の犠牲者の凄惨な様子がリアルに映し出されるが,このナパーム弾は「敵がいる? ナパーム弾を落とせ!」と上官が命令して投下されたものだ。
そして命令を下した上官は決して,ナパーム弾で焼け焦げになった死体を見ることはないし,焼けた死体の臭いを嗅ぐこともない。まして,その死体の凄惨な姿のフラッシュバックに悩まされることもないし,体に染み付いた死臭から逃れるために麻薬に溺れることもない。
大量破壊兵器は敵を倒すと同時に,自軍の末端兵士をも狂わせてゆく。
要するに,戦争とは末端の兵士にとっては逃げ場のない過酷な現実だが,上級将校にとっては数字と情報で綴られる安楽な仮想世界でしかないのだ。
これは決して見て楽しい映画ではないし,娯楽的な要素は皆無と言っていい。目を覆いたくなるような凄惨な場面はあるし,夢に出てきてうなされそうな恐ろしい死体の山も何度も出てくる。気軽な気分で見始めたら後悔すると思う。それほど重くリアルな映画である。
それと同時に,この映画は見る者に多くの物を突きつけてくる。60年前のフランスは何をしたのか,なぜこういう戦争が起きてしまったのか,なぜその事実をフランスは50年隠してきたのか,それは果たしてフランスだけの過ちだったのか・・・と。
そして私は,「自国の闇,恥」ともいうべきこの戦争を映画化して告発した若き映画俳優マジメルの勇気と,困難に立ち向かって一歩も怯まない意志の強さに畏敬の念を持つ。
(2010/06/08)