《ザ・ダイバー》★★★★(2000年,アメリカ)


 1940〜1960年代,アメリカ海軍初の黒人マスター・ダイバーとなった伝説の男,カール・ブラシアの不屈の半生を描く感動映画。ちなみにブラシアは実在の人物で,黒人差別意識が激しかった海軍という閉鎖社会で初志貫徹する彼の姿を,この映画は見事に描き出している。

 だが,手放し大絶賛映画かというと,そうでもない。ブラシアの姿には圧倒されるのだが,その描き方が平板で起伏に乏しいため,描かれている事実そのものの感動に比べると,映画から得られる感動がこじんまりしているのだ。これについては後述する。


 子供の頃から泳ぎの好きな黒人青年,カール・ブラシア(キューバ・グッディング・Jr)は海軍に入り,海難救助などを行う潜水士,マスター・ダイバーを目指していた。しかし当時のアメリカはまだ人種差別が強く,なかでも海軍では黒人蔑視の意識は強烈だった。そのため,海軍に入った黒人に与えられる仕事はせいぜいコックくらいしかなく,潜水士になろうという黒人は一人もいなかった。そんな中でカールは黒人最初の潜水士,しかもその中でも難関中の難関であるマスター・ダイバーになろうとしたのだ。

 海軍でも潜水士養成所でもカールは陰湿な差別を受け,教官のビリー・サンデー(ロバート・デ・ニーロ)はとりわけ強烈な人種差別主義者だった。また,中途半端な教育しか受けていないカールにとっては物理学や化学の試験を突破することも難しい。しかし,様々な問題から逃げることなくそれらを正面突破していき,周囲から次第に認められるようになっていき,彼はついに潜水士の資格を得る。

 そして,原子爆弾を搭載したB52が北大西洋に墜落した際,命がけの海底捜索を行い,爆弾を発見し回収に成功する。しかし,その甲板作業中に事故が起き,彼は左下腿開放骨折を受傷する。足の切断は免れたものの杖なしでは歩けないという宣告を受ける。決死の作業で原子爆弾を回収し,大怪我を負ったカールは一挙に海軍の英雄,アメリカの英雄としてマスコミに取り上げられる。

 カールの夢は海軍の英雄になることでも有名人になることでもなく,マスター・ダイバーになることだった。しかし,マスター・ダイバーになるためには100キロ以上の装備をつけて歩行できなければいけない。そこで彼はある決意をしたが・・・という映画である。


 これが実話であるということにまず驚く。彼が潜水士を目指した時代は野球の大リーグでも最初の黒人選手(ジャッキー・ロビンソン)がようやく登場した時代であり,アメリカ社会全体の黒人差別感情は根強いものがあり,次々と新しい分野に進出しようとする黒人に対しては「見えない壁」が立ちはだかっていたはずだ。

 ましてや彼が目指すのは潜水士であり,地上と潜水士は数本の管で繋がれているだけだ。その管にちょっと手を加えられただけで海底で命を失てしまうのだ。そんな状況でよくぞマスター・ダイバーになったものだと驚嘆するしかない。


 また,ロバート・デ・ニーロがすばらしい。「人種差別意識の固まりである教官」という役を見事に演じている。だが,何事からも逃げず,正面からぶつかって一つ一つ困難を解決していくカールの姿に接し,カールに一目置くようになり,潜水士として認めていくようになる。その内面の変化をデ・ニーロはまた,見事に演じている。そして,職を追われてまでもカールの合格を宣言する姿はまさに男の中の男だ。

 そして,足を切断して義足になってまで現役ダイバーにこだわるカールを助けるビリーの姿が子供を助ける父親のように見えてきて,これまた感動的だ。


 このような「男泣き映画」のあらゆる要素を備えている映画なのだが,なぜか全体を通してみると平板な印象なのである。それは,主役のキューバ・グッディング・Jrが全く感情を外に出さないからだ。実在のカールがそういう男であり,その彼の姿を忠実に描いただけかもしれないが,映画には映画としての表現法があると思うのだ。登場人物の感情は言葉でなく表情と演技でしか伝わらないからだ。

 だから,父親の死の知らせを聞いても何となく悲しんでいるだけにしか見えないし,妻となる女性にプロポーズするシーンもなんだかそんなに嬉しそうに見えない。そして,足を切断してまで現場に戻ろうとするカールの真意がわからず,妻が別れを切り出したシーンでも,彼が妻と別れたくないのか別れたいのかもよくわからない。なぜこんなに冷静な表情をしているのだろうと,逆に不思議になるくらいだ。

 そして何よりわからないのが,なぜカールがそこまでマスター・ダイバーに拘るのかという理由だ。ダイバーに助けられたわけでもないし,父親がマスター・ダイバーになってくれと頼んだわけでもない。片足を切断してまでマスター・ダイバーになろうとする尋常ならざる理由が全く見えないのだ。要するに,カール・ブラシアという不屈の男の闘志を常にかき立てた「狂おしいまでの何か」が観客に伝わってこないのである。通常の映画の作り方をするならここがこの映画の核心部分のはずなのに,それを素通りしてしまったため,見ている方が素直に感情移入できなくなってしまったと思う。


 恐らくこの映画の作り手は,「このあまり知られていない偉大な人物を世に知らしめたい」と考え,「これほど偉大な人物なのだから,よけいな脚色はせずにこの偉人の人生をそのまま忠実になぞるだけにしたい」と判断したのだと思う。それはそれでわかるのだが,いくら偉大な人物であっても,その人生のすべてが血沸き肉踊る出来事の連続だったわけはなく,大半はとるに足らない平凡な出来事である。だからこそ,その人生を小説にしたり映画にするのであれば,ターニングポイントとなった事件とか人生を決めた選択とか,もっとも困難な災厄とかどん底とか,そういう部分に焦点を当てて大きく盛り上げて作るのだ。

 この映画の最大のミスは「カール・ブラシアという男」を生真面目に脚色なしに描いてしまった点にあると思う。真面目であることは悪いことではないのだが,受け狙いを完全に排除して生真面目に作られた映画は得てして面白くないからである。あざとさは過ぎれば鼻につくが,観客の「受け」を全く狙わない映像は退屈なのである。だから,最後の「12歩」のシーンは感動的なのだが圧倒的なクライマックスになっていないのだと思う。


 そんなわけで,素材的には非常に魅力的な人物なので,もうちょっとクライマックスを大きく盛り上げるような「普通の映画」としてリメイクしてほしいと心底思ってしまう。

(2010/08/17)

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