新しい創傷治療:7つの贈り物

《7つの贈り物 "Seven Pounds"★★(2008年,アメリカ)


 私は基本的に,映画のレビューはネタバレなしに書くことにしている。ネタバレしなくても映画の面白さを伝える自信が(ちょっぴり)あるからだ。もちろん,ネタバレすれすれに書くこともあるが,それは映画の結末がわかっていてもなお面白い映画(例:《スウィングガールズ》)とか,歴史的史実を取り扱った映画(=結果が最初から分かっている)に限っている。逆に,結末や真相がその映画の全て,というサスペンス系映画では犯人や真相は絶対に書かないことにしている。わかったら面白くないからだ。

 さて,そういう意味でこの映画のレビューを書くのは非常に難しい。なにを書いてもネタバレになりかねないからだ。だから,映画評論サイトを見ているとこの映画のレビュワーは皆,苦労している。何しろ,あらすじそのものがネタバレ直結のため,あらすじの紹介すら難しいからだ。

 ちなみに,このように宣伝されている。

『幸せのちから』から再び,主演ウィル・スミスと監督ガブリエレ・ムッチーノが挑んだ感動のヒューマン・ドラマ。過去と折り合いをつけるために究極の贈り物を用意した主人公が,あるものと引き換えに他人の人生を変えようとするプロセスを描く。共演は『イーグル・アイ』のロザリオ・ドーソンと『ノーカントリー』のウディ・ハレルソン。複雑な人間性と命の尊さを温かく繊細(せんさい)に演じたウィル・スミスに心を揺さぶられる。


 ネタバレしないようにあらすじを紹介すると「主人公はかつて○○で7人を死に至らしめ,その▲▲のために◇◇をする事を心に決めました」という伏せ字だらけになってしまう。まるで,あらすじ紹介になっていないが,これしか書けないのだからしょうがない。

 ところが,予備知識一切なしにこの映画を見始めると,最初の30分でお手上げ状態となる。何がどうなっているのか全くわからないからだ。ウィル・スミス扮する主人公がいい人間なのか悪い奴なのかもわからないし,30分を過ぎても「何がどうなる映画」なのか,手がかりすら掴めないからだ。


 映画はいきなり,主人公(ウィル・スミス)が救急車を呼ぶシーンで始まる。そこで彼は「自殺者がいます。僕です」と告げる。ここで,この映画は主人公が自殺使用としていることがわかる。となると,「自殺の理由」と「目的」を解明していくのがこの映画なんだな,とわかる。映画の早い時期で,交通事故の短いフラッシュバックがあったり,7人死亡を伝える新聞記事が映されるから,主人公が絡んだ交通事故であろうということは察しがつく。

 そして,映画の最後の最後で「自殺の理由と目的と手段」が一挙に明らかにされるのだが,どう考えても「理由」と「目的」の間のギャップが大きすぎるというか,普通であればこの二つは決して結びつかないのである。この「理由」のためにこの「手段」を選んだ課程がまるっきり理解できないのだ。


 多分このあたりが,「ネタバレなしにはあらすじも紹介できない」理由だろう。もしもこれが「ある事件を起こして人を殺してしまった男が,犠牲者の家族に贖罪の意味で何かをする」というストーリーならネタバレなしにあらすじを紹介できるが,この映画の場合は「贖罪の意味でする行為」が「犠牲者に対する贖罪」にすらなっていないため,まるっきり理解不能なのだ(ウィル・スミスの熱演には悪いが)。だから,映画の中核をなす「贖罪行為」についてちょっとでも書いただけで,ネタバレになってしまうのだ。

 おそらくこの映画は,アカデミー賞狙いで作られた映画だろうと思う。ウィルの素晴らしい演技にしても,重厚なテーマにしても,挿入される音楽(最後のシーンであのピアニストが弾くモーツァルトの「幻想曲ニ短調」は見事である)にしても,アカデミー賞狙いであることはミエミエである。だが,この作品はノミネートすらされなかったと記憶しているが,それは前述のような根本的な部分での「ボタンの掛け違い」があったからではないだろうか。感動的であることは確かなのだが,「オイオイ,待てよ。これで犠牲者や遺族は救われないよね」という矛盾に誰もが気がついたからだろうと思う。

 要するに,主人公がしたことは凄いことだし,やれと言われてもできないことだが,それは要するに,彼の独りよがり・自己満足である。自分の不注意で起こした交通事故に対して罪の意識を持つのは当たり前だし贖罪しようとするのは当然のことだと思うが,それなら犠牲者の家族に対して罪を償うべきだろう。犠牲者の家族に心から謝罪し,わずかばかりでもいいから経済的な支援を続けるのがスジと言うものだろう。ところが,主人公はそう考えないのである。

 彼のとった行動は要するに,「オレオレ詐欺をした罪の償いとしてアフガニスタンの麻薬組織壊滅活動に参加」とか,「食中毒を起こした料理店の店主がアメリカの銃規制に粉骨砕身」というのと同じなのだ。つまり,主人公側の「自分はこれだけ我が身を犠牲にしたのだから,これで罪をチャラにしてね」というような独りよがりの言い訳しか聞こえてこないのである。主人公の自己犠牲によって7人は助かったかもしれないが,最初の交通事故の7人の犠牲者(の家族)は救われていないのだ。


 それと,主人公が選び出した「恩恵を受ける7人」の選択基準がよくわからない。同じような病気や障害を持った人は他に幾らでもいるからだ。仮に,主人公自身が「その人となりを十分に吟味し,眼鏡にかなった人にだけ贈り物を」というのもわからないでもないが,それにしたって余りに恣意的選択である。特にひどいのが,盲目のエズラに浴びせた罵詈雑言だ。ここまで言わないと「エズラが本当にいい人かどうかわからない」というのかもしれないが,これこそ,「人の善悪,価値は私が判断してやる」という究極の「上から目線」ではないかと思う。ここまでひどい言葉を浴びせる権利は主人公にはないと思う。

 先天性心疾患を患い,心臓移植をしないと後1ヶ月の命と宣告されたエミリー・ポーサとのセックスも余りに非現実的。なぜこんな余計で不要なシーンを入れたのだろうか。何しろ彼女は,数日前に「歩行しただけで脳虚血」を起こして入院したばかりである。そういうエミリーにとってセックスはまさに命取りの行為である。この映画は2時間を超える作品だが,途中がダラダラしているのは,エミリーとの関係を濃厚に描いてしまったからではないだろうか。彼女にだけ焦点を合わせず,残りの「贈り物の受け取り手」も均等に描いていたら,最後の部分をもっと違った形でもっと感動的にできたのではないだろうか。


 ちなみに,〇〇に利用する「ハブクラゲ」について調べてみると,「ハブクラゲ刺胞毒のラットにおける心血管作用と致死毒性」という論文が見つかった。となると,ハブクラゲに刺されて△△になり◆◆した〇〇が◎◎に使えるかどうかはかなり疑問になってくる。血管収縮作用が強ければ◎◎は不利になり,下手をすれば使えないような気がするがどうなんでしょうか。


 原題の"Seven Pounds"についてちょっと調べてみたが,結局分からずじまいだった。ここは単純に「7ポンド」でいいのだろう。1ポンドはおおよそ454グラムであり,主人公が提供する「7つの〇〇」の平均重量がこのくらいだからだ。「ベニスの商人」の有名な "a pound of flesh" というセリフを彷彿とさせるし,英語圏ではこのタイトルを見ると「ああ,あれね」という感じなのかもしれないな,と勝手に解釈しておいた。


 感動映画として高く評価されている作品だが,一歩間違えていたら,アカデミー賞でなくラジー賞だったんじゃないだろうか。

 いずれにしても,主人公が選んだ「手段」は衝撃的であり,それでそれで「あり」なので,それに見合う「原因」を設定し直し,脚本を全面的に描き直してリメイクしたほうがいいと思う。そうでないとアカデミー賞は取れないと思うよ。

(2010/09/22)

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