新しい創傷治療:ブラス!

《ブラス! "Brassed Off"★★★★★(1996年,イギリス)


 映画を見てはレビュー(のようなもの)を書いているが,音楽映画というだけで点数が甘くなる。とりわけ,演奏場面が素晴らしければそれだけで満足してしまい,ストーリーが穴だらけだろうとご都合主義の展開が続こうと,もうどうでもよくなってしまう。やはり,基本的に音楽側の人間なんだろう。

 これは,イギリスの実在の名門ブラスバンドをモデルにした映画だが,とにかく演奏画面がどれもこれも感動的で完成度が高いのである。とりわけ,最初の方でヒロインのグロリアがロドリーゴの『アランフェス協奏曲』第2楽章を演奏するシーンはまさに鳥肌もの。彼女のフリューゲル・ホーンのソロが始まった瞬間,背筋がゾクゾクしてしまった。まさに奇跡のような演奏だ。
 途中の『ダニー・ボーイ』の演奏もまさに感動的。あの状況で密やかに演奏される『ダニー・ボーイ』を聞いて泣かない人がいたら,それは音楽と無縁の人間だろう。

 ちなみに,映画のモデルになったのは,1917年にグライムソープ(イギリスの南ヨークシャーにある炭坑町)に産声を上げたグライムソープ・コリアリー・バンド(Grimethorpe Colliery Band)である。当初,炭坑夫たちの暇つぶしとして結成されたアマチュア楽団だったが,次第に腕を上げ,様々なコンクールで優勝を重ね,名門バンドにまで成長した。しかし,1992年に炭坑が閉鎖されたため,たちまち存続の危機に陥ってしまったという。この《ブラス!》はその様子を描いたものらしい。


 舞台は1992年のイギリスの炭坑町グリムリー。そして,そこで働く炭坑夫たちで組織されたブラスバンド,グリムリー・コリアリー・バンドは100年の歴史をもつ名門楽団であり町の誇りでもあった。楽団で指揮をとるダニー(ピート・ポスルスウェイト)は炭坑の仕事から引退し,息子のハリーが父の跡を継いで炭坑夫として働いている。ダニーの夢は楽団とともにロイヤル・アルバート・ホールの舞台に上がり,優勝することだった。

 しかし,サッチャー政権は斜陽産業の石炭産業に見切りをつけ,次々と炭坑の閉鎖を決めていき,ついにグリムリー鉱山も閉鎖候補になった。政府の意向を受けて炭坑を閉鎖したい経営陣と労働組合は激しく対立するが,あの手この手で労働組合は揺さぶられ,炭坑夫たちの結束は次第に崩れていく。そして団員たちも練習どころでなくなり,退団を考える団員も現れる。炭坑存続か閉鎖かについて炭坑夫たちは投票により意見を表明することになっていたが,「早期退職なら退職金割り増し」という経営陣の提案に炭坑夫たちは分裂寸前だった。

 そんな折り,このブラスバンドの練習場に一人の若い女性グロリア(タラ・フィッツジェラルド)が訪れる。彼女はかつてこの鉱山で働いていたダニーの親友の孫娘だった。しばらく都会で仕事をしていたが,なぜかこの町に舞い戻ってきたらしい。当初,女を入れるなんて,と考えていた男たちも,彼女の演奏を聴いてその実力に惚れ込み,彼女を受け入れる。そして若い団員のアンディ(ユアン・マクレガー)と彼女は初恋の間柄であり,二人は次第に愛し合うようになる。

 だが,グロリアは実は経営陣が送り込んだ調査員であり,炭坑としての能力と生産性を分析するのが彼女の仕事だった。そして彼女は炭坑存続すべきというレポートを経営陣に提出する。

 一方,コンテストで楽団は圧倒的な演奏で決勝進出を決めるが,ちょうどその日,炭坑夫たちの投票結果が公表され,4対1で閉鎖を支持する投票が多かった。その結果,団員のほとんどは失業状態となり,ダニーは長年の無理がたたって病に倒れてしまう。もちろん,数十年に及ぶ石炭粉塵吸引によるものだった。そして彼の息子のフィルは借金が返せずに家財道具を差し押さえられ,妻は子供たちを連れて家を出てしまう。

 病床のダニーはあくまでも決勝戦出場を望むが,失業者ぞろいの団員にはロンドンに行くのに必要な3000ポンドの金が工面できず,名門バンドは八方塞がり,空中分解寸前だった。しかしそこに・・・という映画である。


 まず,音楽映画である以上,音楽の使い方がうまいのは必要条件だが,この映画は水準は遙かにクリアしていると思う。たとえば,グロリアがソロを演奏する『アランフェス協奏曲』は,私の想像を遙かに超える圧倒的な演奏だった。元曲の哀愁に満ちたギターの響きがフリューゲル・ホーンで新たな響きとして見事に再現されているのだ。
 正直,ブラスバンドをなめてました。謝ります。

 あるいは,病床のダニーを見舞うために,団員たちが病院の外に集まってヘッドランプ(もちろん,炭坑の仕事でかぶるやつだ)の明かりを頼りに『ダニー・ボーイ』を演奏するシーンの素晴らしさ。多分,このシーンで『ダニー・ボーイ』を演奏することが先に決まり,後から主人公の名前がダニーと決まったのだろうと思うが,これほどまでに感動的な『ダニー・ボーイ』は聞いたことがない。朗々たる息の長いメロディーが魅力のアイルランド民謡だが,弱音の管楽器の重なりで演奏される響きは,他の演奏形態では聞くことのできないものだろう(ちなみに,この曲は元々,北アイルランドのロンドンデリー州で19世紀半ばに採譜された曲で,元々は『ロンドンデリーの歌(Londonderry Air)』と呼ばれていた。様々な歌詞で歌われたが,1910年頃に付けられた歌詞が『ダニー・ボーイ(Danny Boy)』である)

 そして,決勝戦で演奏されるのはロッシーニの『ウィリアム・テル序曲』。演奏されることが多すぎる通俗名曲のため,「なにも今更,ウィリアム・テルでもないだろう」と思って聞き始めたが,ブラスと打楽器だけで迫力満点に演奏されるとやはりグッときてしまう。何より,中間部でのトランペットの速いパッセージの連続は見事だ。

 そして最後のシーンのロンドンの2階建てバスで演奏されるエルガーの『威風堂々(Pomp and Circumstance)』第1番の中間部。無骨で口の悪いオヤジたちがジョンブル魂と炭坑夫としての誇りを込めて演奏するこのシーンは圧巻だ。ちなみに,この中間部の壮麗なメロディーはイギリスでは「希望と栄光の国(Land of Hope and Glory)」と呼ばれていて,「第2の国歌」のように地位にあるらしい。

 『威風堂々』で映画は終わり,形の上ではハッピーエンドであるが,楽団の団員の未来もグリムリーという町の未来も決して明るくないことは,観客にヒシヒシと伝わってくる。コンクールで優勝したとしても,彼らは失業者であることには変わりないし,炭坑は閉鎖が決まっている。そして,炭坑夫の生活のためにできた炭坑町は炭坑がなければ崩壊してしまうのは避けられない。そういう苦さが残る結末だが,恐らくハリウッド映画だったらもっと脳天気なハッピーモードで終わるはずだ。このあたりがハリウッド映画との違いだろう。


 この映画は音楽好きにはたまらない傑作だが,普通の映画ファンからするとツッコミどころ満載だろう。

 例えば,ヒロインであるグロリアだ。彼女が登場することで崩壊寸前だった楽団は危機を免れるし,彼女が腕前を披露する『アランフェス協奏曲』の演奏は見事なものだ。しかし,彼女が音楽面で活躍するのはここだけであり,それ以降のコンテストの演奏場面では彼女は活躍しない。これ以降の彼女の役割は「アンディの忘れられない初恋の人」であり,「採掘会社の調査員」であり,指揮者ダニーの親友にして初期の楽団員だった男の孫娘,という役目になる。これはあまりにも要素を詰め込み過ぎだろう。アンディとの恋物語部分を割愛し,演奏者として楽団に影響を及ぼしていく過程を描いてもよかったような気がする。

 そういう目で見ると,あの『ダニー・ボーイ』の感動的場面でのアンディの口笛も余計だ。確かに彼は楽器を売り払おうとしていたために,このシーンでは口笛しか楽器はないわけだが,ブラスの響きと口笛では響きがあまりに違い過ぎて違和感が強い。つまり,この渾身の『ダニー・ボーイ』の演奏シーンでアンディの口笛だけが調和していないのだ。感動的なシーンなだけに,「アンディの口笛」はなかった方がよかったと思う。彼なしでもこのシーンは成立するからだ。この『ダニー・ボーイ』の演奏はブラスだけで聞きたかったと,心底残念だ。


 イギリスの産業革命を陰で支えていたのは石炭であり,イギリスは長らく世界最大の石炭産生国であり輸出国だった。そして石炭を地下から採掘するためには専門職としての炭鉱夫が必要であり,彼らが年間を通して採掘作業に従事するためにはそこで生活を完結させる必要があった。かくして,炭鉱の周りには炭鉱町ができることになる。恐らくイギリスでは,このような炭鉱町が18世紀から200年以上にわたり存続していたのだろう。そうなると,炭鉱夫は家業となり,父親から息子に受け継がれるものとなる。そしてこれは,炭鉱の経営陣にとっても安定した熟練労働力を得られることになり,彼らにとっても好ましいものだったろうと思われる。

 だがその後,石油が発見される。石炭は石油と違って世界のどこにもあるという長所はあるが,単位体積あたりの熱量が低いという決定的な弱点があった。石油なら小さなボイラーで高い熱量が得られるのに,石炭でその熱量を実現するためには大量の石炭を燃やす巨大なボイラーが必要となるのだ。そして何より,石油は石炭に比べ,輸送コストも貯蔵コストも安い。このため,石炭は石油に活躍の場を奪われていく。これはある意味,歴史の必然といえる。

 そして,イギリスという国家にとっても石炭産業は次第に重荷になっていく。かつては産業革命の先頭を切っていたイギリスのエネルギー源だったのに,第二次大戦以後は石炭産業を維持するためのコストは,石炭で得られるメリットを凌駕してしまった。恐らく,この映画の舞台である1992年ころには「石炭を掘れば掘るほど赤字が増える」という状態だったのではないだろうか。

 しかし,イギリス国民にとって石炭は国の活力の象徴であったろうし,炭鉱で働く労働者も関連産業で働く労働者も莫大な数だったため,彼らを無碍に切り捨てることもできない。だから,世界的に石炭産業が斜陽化していった1980年代になってもイギリス政府は炭鉱閉鎖に方向転換できなかったのだろう。結局,時代遅れの石炭産業に引導を渡したのは「鉄の女」マーガレット・サッチャーだった。「国民の皆が愛着を持つ時代遅れのもの」を切り捨てるという大英断はサッチャーにしかできなかったのかもしれない。この映画ではサッチャーは悪玉扱いだが,それは一面的な見方ではないかと思う。時代の変革期では誰かが悪役にならねばならないし,貧乏クジしか残っていないとわかってもクジを引かなければいけない役割の人間も必要なのだ。


 とにかく,音楽好きなら一度は見ておくべき映画だと思う。

(2010/11/12)

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