ボスニア出身の巨匠,エミール・クリストリッツァがボスニアの田舎に暮らす人々の視点からボスニア・ヘルツェゴビナ紛争(1992〜1995年)を描いた佳作。この「20世紀後半のヨーロッパにおけるもっとも悲惨な紛争」と呼ばれる紛争については,以前レビューした同じ監督の《ウェディング・ベルを鳴らせ!》にも書いたが,要するに,ユーゴスラビアの分裂で誕生したボスニア・ヘルツェゴビナにおける民族紛争である。当時この国は人口の半分をムスリム教徒,3割がセルビア人,そして2割がクロアチア人という多民族国家だったが,ユーゴ政府の後ろ盾を得てセルビア人が分離独立を企て,ムスリム教徒とクロアチア人に攻撃したことによる内戦である。それまで多民族を一つにまとめていた建国の父チトーというカリスマを失い,後ろ盾であったソビエト連邦が崩壊したために,民族間のエゴと不満が一挙に吹き出したようだ。
この映画の舞台となっているのは1992年のボスニアの田舎で,時期的には内戦勃発直後から終戦までの3年間である。そしてクリストリッツァは,どこかの誰かが始めた愚かな内戦に巻き込まれてしまった庶民の姿を描いていく。もちろん,この凄惨な内戦の様子を真正面から描いていったらどこまでも暗く,救いようのない物語になるが,この監督は悲哀を込めたユーモアで笑い飛ばそうとしている。心で泣きながら,笑顔を見せている。結末のシーンは明るい未来を描きながらも苦い。
主人公のルカ(スラヴコ・スティマチ)は鉄道技師で,ベオグラードから離れた(?)山里で線路の敷設と維持の仕事をしていて(当時のボスニア・ヘルツェゴビナでは全国を鉄道網で連絡する計画があったが,民族感情の悪化から計画は頓挫しようとしていた),妻(ヴェスナ・トリヴァリッチ)と息子(ヴク・コスティッチ)と一緒に暮らしていた。妻はオペラ歌手だったが埃アレルギーのために声が出せなくなり,その治療も兼ねて田舎に移動したが,妻はその生活が不満で情緒不安定,いつも突拍子もない言動をしていてルカはちょっと困惑気味。一方,息子のミロシュはプロサッカー選手になれるほどの実力を持っていて,サッカーチームのパルチザンへの入団を希望していた。
そんなミロシュに二つの連絡が入る。一つはプロ・サッカーチームからの入団許可の手紙,そしてもう一つが徴兵の通知だった。もちろん,徴兵は義務であり逃げられない。ミロシュを送り出すドンチャン騒ぎのパーティーが行われるが,父のルカは知り合いの軍人から「小競り合いは起きているが,戦争になるわけがない。基礎訓練が終われば兵役は終わる」と教えられミロシュを慰める。そして翌日,ミロシュは兵役に付くために列車に乗るが,同時にルカの妻も姿を消す。芸術家に弱い彼女は,パーティーに来ていたハンガリー人のミュージシャンと駆け落ちしたのだ。
当初,ルカにとって戦争は遠いベオグラードで起きている,自分と関係ない出来事に過ぎなかったが,そんな彼の元に「ミロシュが(ムスリム側の)捕虜になった」という知らせが飛び込んでくる。ルカは息子を救うために軍隊への入隊を希望するが,もちろん相手にされない。
そんな時,知り合いが一人の若いムスリム教徒の女性サバーハ(ナターシャ・ソラック)を連れてくる。町を逃げ出そうとしていたが実は父親は大金持ちであり,彼女の両親に連絡すればミロシュとの捕虜交換に利用できるはずだと言う。
ルカとサバーハの奇妙な生活が始まり,明るく溌剌としていて何事にも気が利くサバーハに次第に惹かれていき,やがて二人は恋仲になるが,もちろん世の中は「セルビア人とムスリム教徒の戦争」のまっただ中であり,やがて事件が起きて・・・という映画である。
映画では首都のベオグラードで民族間のいざこざが起き始めていることを知らせるテレビニュースが何度も流される。もちろん,ルカもミロシュもそのニュースを知っているし,村人も皆知っている。しかし,それは「どこか遠くで起きている戦争」なのだ。そして誰もが,いざこざはあるがこれで本当の戦争になるわけがないと考えていた。
なぜかというと,この村ではセルビア人もムスリムも共存して暮らしていたからだ。セルビア人の村人にとってムスリム教徒は「ちょっと習慣が違い,信じている神様が違っているだけの隣人」に過ぎないのだ。実際,ミロシュの親友のゴールキーパーはムスリム教徒であるが,一部のセルビア人が彼を襲うシーンでは勇敢に体を張って彼を守ろうとする。ミロシュにとっては人種の違いより,友達やチームメイトの方が遙かに大事なのだ。同様の「村の中での多人種の共存」は他にもいろいろ描かれている。一緒に暮らしているものと殺し合うことは想像することすら難しい。
だが,国内に経済的な不満が募ってきて「こんなことなら共産党時代の方がましだ」という声が挙がってきたとき,為政者はその不満のはけ口を作らなければいけない。それがないと,不満が政府に向かうからだ。ボスニア・ヘルツェゴビナ政府はその不満のはけ口としてムスリム教徒をやり玉に挙げたのだろう。何しろ,人口の半分を占めているのに,ヨーロッパの伝統であるキリスト教徒ではないのだ。あとは「こいつらが増えていったら祖国の文化が破壊され,祖国が祖国でなくなってしまう」とアジテーションするだけでいい。
ちなみに,これまで起きた民族紛争を分析した本によると,民族紛争はともすると宗教紛争の形を取るが,その本質は経済問題らしい。
その他にもこの映画には,この内戦の本質を付いたエピソードや鋭い言葉が満載だが,中でも「クロアチアに戦いをふっかけたため,クロアチアの山にいた熊が難民化して村を襲い,死者が出た」なんてのは強烈だった。そういえば,最後の方でルカとともに逃避行を続けるサバーハがムスリム勢力からセルビアの女と間違われてライフルで撃たれ,瀕死の重傷を負うシーンがある。セルビア人を殺そうとして味方のムスリム教徒を殺してしまうことに,この内戦への強烈なアイロニーが感じられる。
ルカは何とか彼女を赤十字の病院に連れていくが,重傷のサバーハはルカに「オーストラリアに行けたら赤ちゃんを作ってもいい?」と尋ねるのだ。彼女の言葉は単に恋人に向けての甘い言葉にも聞こえるが,実はこれもすごく深いのだ。
この内戦が「20世紀後半のヨーロッパで起きた最も凄惨な内戦」といわれたのは,セルビア人のムスリムに対する民族浄化,つまり,セルビア人のムスリム女性に対する大規模なレイプと強制出産が行われたからだ。つまり,サバーハは一歩間違っていれば,この民族浄化の犠牲者になっていても不思議はなかったし,その加害者の一人がルカであっても何の不思議もないのだ。こういう背景がわかっていると,ムスリムのサバーハがセルビア人のルカとの子供を願う彼女の言葉は,この戦争で何が行われたかを鋭く糾弾しているのである。
他のクリストリッツァの映画同様,この作品でも動物たちが重要な役割を果たしている。中でも最も印象的なのが「失恋して涙を流し,鉄道自殺を何度も企てるロバ」だろう。このロバは映画冒頭から要所要所で何度も登場し,最後にルカの命を救う。そればかりか,梃子でも動かないロバなのに,最後の最後にサバーハを乗せて軽やかに走っていく。このロバを何の象徴と考えるかで,幾通りもの異なったレビューが書けるはずだ。
私としては,このロバ以上に印象的だったのがルカの飼い犬と飼い猫だ。初めてルカとサバーハが初めて結ばれるシーンの直前,この二匹は激しくいがみ合う。その様はまさしく,セルビア人とムスリムの衝突を彷彿とさせる。しかし,ルカとサバーハが降り注ぐ砲撃に揺れ動く家の中で互いに助けを求めるように抱き合う。それを見つめる犬と猫もいさかい忘れ,大人しくなる。これも強烈なシーンだ。
とは言っても,この映画は完璧な傑作ではない。途中で無駄なシーンが多く,緊張感が殺がれるのだ。もちろん,さまざまなエピソードをこれでもかこれでもかと詰め込むのがクリストリッツァ流であるが,いくらなんでもこの作品の150分は長すぎる。途中の余計なシーン(例:ミロシュの出征を祝うパーティーのシーンなど)を端折れば,もっと引き締まった作品になったんじゃないだろうか。
さらに言えば,ミロシュが途中で全く出番がなくなり,最後にちょっとだけ登場するのもどうだろうか。最後に登場させるのであれば,捕虜生活の彼についてワンシーンでもいいから取り上げてもよかったと思う。でないと,最後の彼の登場があまりに唐突すぎる。
あと,音楽の扱い方はほぼ完璧。ジプシー音楽をベースにした楽団の演奏だが,素朴で泥臭くて,それでいて干草の香りがするような音楽だが,どれも最高である。クリストリッツァの映像にはこの音楽しかない,という感じだ。
ちなみに,かつてサッカー日本代表チームの監督を務めたイビチャ・オシム氏はボスニア・ヘルツェゴビナのサラエボ(当時はユーゴスラビア)の生まれで,1986年からユーゴスラビア代表監督であり,1990年からはサッカーチームのパルチザン・ベオグラードの監督も兼務していた(Wikipediaより)。つまり,この映画のミロシュが徴兵と同時にパルチザンからの入団許可を得るシーンで,このチームを率いていたのはオシムさんだったことがわかる。1992年のボスニア・ヘルツェゴビナのユーゴスラビア連邦離脱,サラエボ侵攻の時期,オシムさんはたまたまベオグラードにいて難を逃れたが,妻と娘はサラエボを脱出できず,家族はばらばらになったという。二人に再開できたのは実に1994年になってからである。
決して万人向けの映画ではないし,理解するためにはボスニア・ヘルツェゴビナ紛争についての知識も必要だ。だが,そういう知識を得てまで見る価値のある映画だと思う。
(2010/11/26)