《セントアンナの奇跡 "Miracle at St.Anna"★★★(2008年,アメリカ/イタリア)


 非常に評判がよく感動作として知られている長編戦争映画である。確かによく作られているし,さすがはスパイク・リー監督だなと思うが,正直な感想を言えばよくわからない映画なのである。この映画を理解するためには,カトリックの神学的知識と1944年のイタリアの状況に関する知識が絶対に必要なのである。

 だから,この方面の知識が十分にある人にはそれこそ感動で打ち震えるほどのラストシーンらしいのだが,私は「何でこれで奇跡なの? 何でこういうラストにしちゃうかなぁ?」と拍子抜けしてしまった。知識がないというのは悲しいものである。

 そして何より,歴史的背景が頭には入っていないと何が何だかわからない映画なのである。私は最初,全く予備知識なしに観始めたが30分ほどで音を上げてしまった。映画の状況が飲み込めなかったからだ。さすがにこれではまずいと,映画の解説を読んで初めて,これがどんな映画なのかがわかった次第だ。
 要するに,予備知識なしにこの映画を観るのは無謀である。そして予備知識を仕入れるなら,ネタバレ解説くらい懇切丁寧な映画解説を読まないと駄目だと思う。


 とりあえず,こんな感じの映画である。

 映画の最初の舞台は1984年のニューヨークの郵便局。ここで働いている初老の男ヘクターはもうすぐ定年を迎えようとしていたが,ある日,切手を買いにきた客の顔を見ていきなり銃を取り出し,客に突きつける。客は「お,お前は!」と驚くがヘクターは冷酷に撃ち殺してしまう。
 ヘクターは殺人犯として逮捕されるが,彼が使った銃は第二次大戦中にドイツ軍が使っていたルガーであり,おまけに彼が住むアパートからは16世紀に作成された彫像の頭部が発見された。それはフィレンツェの橋を飾っていた彫像の頭部であり,第二次大戦中にドイツ軍が橋を爆破して以来,行方不明になっていたものだった。

 この不思議な事件はすぐに新聞ネタになり,それは遠く離れたイタリアにも伝えられる。事件を報じる新聞を手にした一人の紳士は驚愕し,コーヒーカップを落としてしまう。

 そして舞台は1944年のイタリアに移る。ヘクターは黒人兵だけで構成されるアメリカ軍の歩兵師団(通称,バッファロー・ソルジャーズ)として,イタリア北部のトスカーナ地方(イタリア半島の西側の付け根あたりだ)の戦場でドイツ軍と対峙していた。しかし,味方の砲撃のミスから4人の黒人兵が孤立してしまう。そして,巨漢の兵士トレインが偵察に入った民家が砲撃にあい,負傷している少年アンジェロを発見し,保護する。そして4人の兵士と少年は山間(やまあい)の村に入り,ここで自軍と通信で連絡を取ることにする。

 村には少し前までドイツ軍が駐留していたが既に撤退していた。だが,周辺地域はまだドイツ軍が占拠していて,しかも,近くの山岳地域はドイツ軍と敵対するパルチザンのアジトであり,その村はドイツ軍,アメリカ軍,パルチザンがせめぎあう微妙な位置にあった。

 ヘクターたちが押し入った家にはムッソリーニ支持者の老人と彼の娘(兵士である夫の帰りを待っている)が暮らしていた。そして,村人たちとの奇妙な生活が始まる。

 少年アンジェロがどこからきたのか誰も知らなかったが,彼は終始,「アルトゥーロ」と彼が呼ぶ友達(誰にも見えないが,アンジェロには見えているらしい)と話している。彼は他の誰にも心を開かないが,唯一,巨漢兵士のトレインとは心を通じ合わせる。そして,壊れていた通信機を目配せしただけで通信できるようにしたり,いきなり村の電気が復活させるなど不思議な能力を発揮する。

 そこに,パルチザン数人が捕虜のドイツ兵を連れて村にやってくる。アメリカ兵は復活した通信機で本部に連絡するが,本部から「ドイツ兵を捕虜にしろ」と命令を受けてしまう。そのため,パルチザンがドイツ兵を尋問した後,身柄を譲り受け,そこでアメリカ軍を待つことにする。しかし,このドイツ兵捕虜と少年アンジェロは顔見知りだった。

 その少し前,近くの村のサンタナ・ディ・スタッツェーマでドイツ軍はパルチザンの抵抗に手を焼いていた。一般民衆に紛れてゲリラとしてドイツ軍に抵抗するパルチザンは神出鬼没だったからだ。業を煮やしたドイツ軍は村人全員を教会前に集め,パルチザンが誰かを教えなければ全員殺すと脅し,村人が抵抗したため,赤ん坊に至るまで560人全員を一人残らず撃ち殺したのだ。あまりの非道さに一人のドイツ兵が二人の村の子ども(アルトゥーロとアンジェロ)を連れて逃げ,アンジェロは逃げられたが,脱走した兵士がパルチザンに捕まったのだった。

 そして,スタッツェーマの虐殺の裏にはパルチザン内部の裏切り者が絡んでいて,その裏切り者は隙を見てドイツ兵を殺してしまう。そしてまさにその時アメリカ軍が到着し,激しい戦闘が始まる・・・という映画である。


 と,要約してみたが,これでもまだ説明は全然足りないのである。パルチザンの裏切り者がなぜ組織のリーダーを裏切ったのか,という物語もあるし,物語の紅一点,美しい人妻レナータと二人の黒人兵の確執という物語もあるし,村に伝わる「眠れる男」の伝説もある。そして,映画の冒頭,ヘクターが撃ち殺したのは誰で,その殺しに使われたドイツ銃をヘクターが手に入れたいきさつは何か,そして,冒頭シーンで新聞を読んでコーヒーカップを落としてしまう男は誰なのか,という謎解きもあるのだ。
 要するに,映画の内容を理解しよう,理解してもらおうとすれば「ネタバレ」なんて気にしていられないのである。明かしておかなければいけないネタが余りに多すぎるからだ。


 しかもこれに,1944年当時のイタリアの情勢が絡んでくるのである。

 第二次大戦では日独伊の三国が同盟を結んで連合国側(イギリス,フランス,ロシア,アメリカなど)と戦争したわけだが,1943年にイタリアのファシスト政権を率いたムッソリーニは失脚し,イタリアは早々と連合国に降伏する(このため「今度戦争する時にはイタ公抜きでドイツと日本だけでやっちまおうぜ」というドイツジョークが生まれたわけだ)。1943年初めには「味方」だったドイツ軍が,1944年のイタリアでは「敵」になったわけだ。

 まして第二次大戦当初,一般的なイタリア人はこれを「祖国の戦争」とは考えておらず,「殿様ムッソリーニが勝手に始めた戦争」と捉えていたらしい。当然,祖国イタリアを救うために立ち上がったパルチザンにとっては,ドイツ軍は最初から倒すべき敵だった。

 しかし一方,ムッソリーニは国内の政治と経済の混乱を立て直した偉大な立役者,という一面もあり,ムッソリーニ失脚後も「偉大な政治家ムッソリーニ」を支持する者もいた。この映画ではレナータの父親の老人である。
 彼は一応「ファシスト」ということになるが,ドイツと違い「ファシスト=ナチスの賛同者」ではないのである。こういう複雑な状況がこの映画では,父娘の何気ない会話とか,壁に貼られているポスターとかでさりげなく説明されているのである(・・・もちろん,このような背景を知らない観客にとっては,それは「説明」として機能していないのだが)。これらをすべて,映像と会話から理解しろと言われても無理だと思う。


 そしてさらに,1944年当時のアメリカ軍における黒人兵士はどういう存在だったのか,という問題が絡んでくる。どうやらこの頃のアメリカ軍では,白人と黒人が同じ部隊に所属することはなく,黒人に対する差別は激しかったのだ。そして,黒人は兵士になったとしてもコックや物資運搬の仕事しかさせず,映画の第92師団「バッファロー・ソルジャーズ」は例外的に戦闘に参加していたらしい。ここらがわからないと,映画の中で黒人兵が本部に戦況を伝えてもその情報は信じてもらえず,ムチャクチャな命令を受けるしかなかった理由がわからないと思う。

 このあたりのことを,史実を交えて説明しようとしたら,それこそ原稿用紙10枚くらいは簡単に突破してしまう。実際,この映画の評論には極めて長大なものが多いが,背景となっている歴史や政治状況が普通に日本人にはほとんど馴染みがなく,そこらを説明するためにいくら書いても足りないからだろう。

 ましてや,映画ではこのあたりの複雑な事情を映像と会話だけで説明しなければならず,おまけに劇場公開作品である以上,上映時間は3時間以内となる(この映画は165分ほど)。スパイク・リーの映画作りの手腕は非常に見事だが,その彼をしても,どうしても説明的な部分が多くなり,複雑に入り組んだ人間関係を説明するためには会話シーンを多くせざるを得ず,それが「映画の冒頭と戦闘シーンと虐殺シーンは緊迫していたが,それ以外はグダグダしている」印象をもたらすのだろう。


 これだけでもおなか一杯なのに,さらにキリスト教ネタ,カトリック御用達ネタが絡んできて,さらに,アメリカ独自の天使信仰まで盛り込まれてくるのである。もうここまでくると,メガ盛り牛丼に大盛りカツカレーをかけて巨大パフェを添えるようなものだ。

 この映画の中心人物は少年アンジェロと巨漢黒人兵のトレインだ。アンジェロはその名前の通り「天使」であるが,トレインもアメリカ映画の伝統(?)からいえば立派な「天使」なのである。

 アメリカの成人に「あなたは天使の実在を信じますか?」とアンケートをしたら,7割くらいが「私は天使を信じている。実は天使を見たことがある」と答えたそうだ。そういう彼らにとって,「映画における天使の象徴」は明らかだ。羽と無邪気な大男である。だから,映画冒頭で羽がヒラヒラするシーンがあると「あっ,これは天使が登場する映画なんだ」と直感し(例:《フォレスト・ガンプ》,《キャスト・アウェイ》,心優しく頭の弱い大男も「この人は天使ね」と受け取るのだ(例:《グリーンマイル》)
 その意味で,トレインは「力が強く,心優しく,信心深く,そして知的でない(=頭が悪い)」ので,アメリカ人にとっては「天使の条件」ドンぴしゃである。だから,トレインが何か信じられない能力を発揮するのも奇跡を起こすのもすべて「天使だから当たり前」となる。逆に,こういう天使信仰を持たない観客にとっては,「何でこうなるの?」と狐に摘まれた状態となる。

 「見えないものが見える」少年も名前が示すように天使だ。だから,通信機を一瞬で直すのも,村の電灯が点くのも天使の仕業で不思議でも何でもなくなる。ましてや,最後にヘクターに駆け寄って十字架を受け取るシーンで,シャツの背中に銃弾痕がしっかり付いているのに死んでいないのも,天使だから当然となる。繰り返しになるが,天使なら何でもありなのである。むしろ,映画冒頭とラストシーンに登場する「成人して事業が成功したアンジェロ」の姿に違和感を覚えたほどだ。天使が年をとるのはおかしいからだ。


 そしてさらに,カトリックが自明の理とする「大殺戮の果ての復活」信仰が加わる。イエスは捕らえられて裁判にかけられるという艱難辛苦を耐え,ゴルゴダの丘で無惨に処刑される。そういう殺戮を経たからこそイエスは復活する。復活という「奇跡」のためには,その準備期間の迫害と殺戮が必要なのだ。サンタナ・ディ・スタッツェーマでの540人の大虐殺の生き残りのアンジェロだからこそ奇跡を起こせる,というのがカトリックの理解らしい(・・・自信ないけど)

 アンジェロを天使にしたのはもちろん神様だろう。だが,アンジェロに与えた能力はせいぜい通信機の故障を直すくらいのものでしかなく,命の恩人のトレインの命を救ったり,ドイツ軍と黒人兵の戦闘を止めさせたりするほどの力ではない。天使としてはやけにチャチな能力という気がする。
 それどころか神は,最後まで神に助けを求める祈りを続ける540人の村人を見捨てたのだ。つまり,神は常に無言であり,祈りに応えてはくれなかったことになる。絶対に応えてくれない神に祈りを捧げるのが神への信仰である,というキリスト教の論理なんだろうが,無神論者には全く理解できないところである。

 ヘクターはさまざまな矛盾(戦争と平和,人種差別など)を飲み込み,ただ一人,罪人として裁かれる。そして,アンジェロが手を差し伸べ,地上の楽園のような美しい浜辺で彼と再会するシーンとなるわけだが,まさに罪人として裁かれて処刑されたイエスが復活し,天使に導かれて天に昇る様子を彷彿とさせる場面である。もちろん,キリスト教の素養があればここで大感激・大感動するんだろうが,そういう素養のない人間(=私)は「何でこういうラストになっちゃうの?」と呆気にとられてしまった。

 映画を見終わると,この映画はキリスト教的暗喩に満ちていたことがわかる。Angelという名の少年,Bishop(聖職者)という名の破戒坊主,パルチザンの師を裏切る弟子,兄弟殺し,罪を犯す女,艱難辛苦に次々と襲われる信仰厚い人々,罪人の告戒と罪の許し・・・など,映画のあらゆる要素がキリスト教を構成する要素に重ね合わせることができるほどだ。つまりこの映画は,観客がキリスト教信者,カトリック信者であることを前提に作っていることは明らかだ。逆に言うと,そういう下地がない観客はお呼びでないのである。


 それにしても,この映画は最初から最後まで偶然(・・・それをスパイク・リーは「奇跡」と呼ぶのかもしれないが)の連続である。

 これらをすべて「神の奇跡・神の導き」と考えるのがキリスト教流なのかも知れないが,ここまできたらお笑いではないだろうか。というか,最後までこの映画を見て「さすがは神の恩寵だ」と感動する感性が私には理解できないし,少なくとも私にとっては,七面倒くさいだけの映画である。

(2011/01/25)

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