宝石店強盗事件の顛末を当事者ごとの視点から時間軸をバラバラに提示し,個々のエピソードの背後にある悲劇を次々と抉りだしていく,という手法の映画であるが,とにかく凄い映画である。半端でない密度の物語である。そして,ジグソーパズルの断片が次々とあるべき位置に納まり,最後に明らかになる大いなる悲劇の全体像に戦慄する。ドシンとくるような社会派映画である。
しかも監督は1924年生まれのシドニー・ルメットだ。ルメットと言えば,今から50年以上前に公開された《十二人の怒れる男》(1957)をはじめ,《セルピコ》(1973),《オリエント急行殺人事件》(1974),《評決》(1982),《NY検事局》(1997)など,50年以上にわたって真摯な作品を世に問うてきた映画監督である。本作品は84歳の作品だが,冒頭の激しいセックスシーンからして全然枯れていないのである。むしろ,新しい表現の可能性を求めて挑戦し続けているような気配すら漂うのである。いやはや,とんでもない84歳だ。「60,70はまだ洟垂れ小僧」というルメットの声が聞こえてきそうだ。
ちなみに,この奇妙な原題タイトルは,次のようなアイルランドの古い諺の一節から取ったものらしい。「悪魔が気がつく前に天国に滑り込んじまえばこっちの勝ちさ」という感じだろうか。
映画は中年夫婦の激しいセックスシーンから始まる。夫はアンディ(フィリップ・シーモア・ホフマン),妻はジーナ(マリサ・トメイ)だ。倦怠期の二人だが,リオ・デ・ジャネイロへの旅行で若い頃の情熱を取り戻したようだ。だが,下腹部がポッコリ出たアンディと,しなやかで美しい肢体を持つジーナ(ちなみに,撮影時43歳だったそうだ)の組み合わせはどこかアンバランスだ。
そして,場面はいきなり,強盗のシーンに変わる。目出し帽をかぶった若い男が小さな宝石店に押し入り,店の売り上げを奪おうとする。しかし,強盗が宝石のショーケースを割ろうとして強化ガラスのために手間取っている隙に,店員の老女は引き出しの銃を取り出し強盗と撃ち合いになる。外で車で待機していた男ハンク(イーサン・ホーク)は銃声に驚き,慌てて逃げ出し,兄のアンディに計画が失敗したと連絡する。そして,巨大な悲劇が幕をあける。
アンディとハンクは兄弟だった。兄のアンディは不動産会社の経理主任であり,美しい妻を娶り,いわば順風満帆な生活を送っているように見えた。しかし,仕事のストレスからか(本当の原因は映画の中では明かされない),売人からコカインを買っていて,その代金を捻出するために業務横領してしまう。そして,査察が入ることがわかり,アンディは絶体絶命の窮地に立たされる。
一方,アンディの弟のハンク(映画冒頭の強盗事件の運転手役)は人のよいイケメンだが,別れた妻に娘の養育費と教育費を払うように会う度にガミガミ言われている。ハンクは別れた娘に父親らしく振る舞うために無理を重ね,借金で首が回らない状態だ。
そんなアンディが弟ハンクに計画を持ちかける。簡単に大金が得られ危険もないとアンディは話す。当初,ハンクは乗り気でないが,ひょんなことから兄の計画に荷担することになる。アンディの計画は,田舎町で宝石店を経営する父親の店に押し入り,売上金と宝石をいただく,という計画だった。それまで店を手伝ったことがあるため,土曜日の開店直後はバイトのおばあちゃん一人しか店にいないし,このおばあちゃんを脅すだけで宝石が盗めるし,店は盗難保険に入っているため両親に経済的損害も与えない・・・という,「誰も損をしない。誰も危険にさらされない」計画だった。出来の悪い弟のハンクにだって簡単にできる仕事のはずだった。
当初,ハンクが店に押し入る予定だったが,荒事に根っから向いていないハンクは知り合いのチンピラ,ボビーに話を持ちかける。アンディはハンクに「絶対に銃は持つな」と言ったが,もちろんボビーは聞く耳持たず,銃を持って店に押し入る。
宝石店の店番をしていたバイトのおばあちゃんではなく,ハンクとアンディの母親だった。しかし,それを知らないボビーは母親に銃を突きつける。そして,銃を持っていた母親はボビーの隙をついて引き金を引き,撃ち合いになってしまう。
アンディたちの母親は重傷を負って病院に収容されるがすでに意識はなく,回復の見込みはない。その知らせを聞いたアンディは「なぜ母親なんだ。父親(アルバート・フィニー)が撃ち殺されれば良かったのに」と口走るが,これがさらに大きな悲劇を引き寄せ・・・という映画である。
一言で言えば,この映画は一つの家族の崩壊の物語である。二人の息子の崩壊の原因は金であり,そして父子関係の崩壊の原因は父が息子に期待したものと息子が父に求めたものの齟齬である。
「世の中にはいろいろな悩みがあるが,金さえあればその悩みのほとんどが消えてなくなる」というような言葉をどこかで読んだ気がするが,この兄弟の苦悩と苦境は1万ドル程度で解決するものだ。もちろん,1万ドル(=80万円!)はもちろん大金だが,すごい大金というわけではない。だがその程度の金のためにアンディもハンクも足を踏み外し,真っ逆さまに地獄に向かう。
後者を象徴するのが上述の「どうせなら父親を殺せば良かったのに」というアンディの言葉だ。映画のラストは重傷を負ったアンディ(なぜ彼がそうなったかを説明しようとすると,これまた長くなる)を父親が見舞うシーンだが,ここで父親が下した決断が何ともやりきれない。アンディは愚かな決断をし,愚かな行動を積み重ねていることは間違いない。また,幼い頃から心優しいハンクを父も母も溺愛し,自分にはそういう愛は注がれなかったとアンディが誤解し,それが解消されないまま育ったのもある意味仕方ないと言える。しかし,そういう思いを抱いたままアンディが50年間生きてきたというのが何ともやりきれないのである。
そういう愚かな者たちが愚かな犯罪に手を染める。愚か者は犯罪者になっても愚かなのだ。切羽詰まっているから短絡的に金を手に入れることしか頭にないし,短絡的に考えた犯罪だから計画は大雑把で杜撰だ。大雑把で杜撰だから,何かが一つ狂うだけで計画全体が瓦解する。
そういう愚かな犯罪に走る兄弟,彼らを育てた両親,彼らを取り巻く世界を,ルメット監督は緻密に,そして残酷に描いていく。時間軸を前後させて出来事を多面的に描き,そのたびに焦点を当てる人物を決めて視点を変えることで,全体像が見事に浮かび上がってくる。そしてルメットは,「これは一つの家族に起きた事件だが,現代アメリカのいつどこで起きても不思議ない出来事だ。金に振り回され,銃が氾濫しているアメリカの姿だ」と訴えかけているようだ。
市民が銃を所持して身を守るのはアメリカ国民に神が与えた権利だ,というのが「アメリカの常識」だが,その常識がこの映画の悲劇の原因の一つだ。もしもアンディとハンクの母親が強盗ボビーのいいなりに売上金と宝石をおとなしく渡していれば少なくとも撃ち殺されることはなかったはずだ。もしも店に自衛用の銃が置いてあったとしても母親が銃の撃ち方を知らなかったら,彼女は犠牲にならなかっただろう。また,ボビーを殺された妻がハンクを呼び出して「1万ドル払えばボビーとハンクが朝一緒に家を出たことを黙っていてあげる」と交渉するシーンでも,ボビーの妻の友人もアンディも当たり前のように銃をもって交渉の場に向かう。そして,ボビーの妻もアンディも銃の撃ち方を知っていて,躊躇なく引き金を引く。冷蔵庫の扉を開けるように,テレビのスイッチを入れるように,電話を掛けるように,彼らは銃の引き金を引く。これを異常と言わなかったら,何を異常といえばいいのだろうか。
見終わってみると,重厚な映像と緻密な作りの割には,扱われている事件そのものは「父子の確執,金に振り回される兄弟の悲劇」というミニサイズのものだったことに気がつく。国家の謀略もなければ,歴史秘話もない。天才的犯罪者も粘り強く捜査を続ける職人肌の警官も登場しない。事件そのものはいたって地味だ。だからこそ余計に,(アメリカの)どこの誰にも起こりうる事件という怖さがある。
ちなみにルメット監督は2011年6月に87歳になるが,現在もなお,新作映画の構想を練っていて新しい映画表現と社会問題の追求を目指しているそうである。恐らく,老成とか円熟とか吾唯足知とか,そういう言葉からもっとも遠いところにいる人なのかもしれない。
(2011/02/15)
その土曜日,7時58分 コレクターズ・エディション 価格:3,591円(税込,送料別) |