新しい創傷治療:リストランテの夜

《リストランテの夜》★★★★(1996年,アメリカ)


 1996年公開のアメリカ映画だが,「これって本当にアメリカ映画? イタリア映画の間違いじゃないの?」と思うはずだ。何しろ,結末がぼかした感じでその後どうなるのかは明示されないままにエンディングを迎えるのだ。エンドロールが終わっても主要登場人物のその後が気になってしょうがないのである。このあたりは,白黒はっきりした結末を付けるアメリカ映画ではなく,幾通りにも解釈できるエンディングで終わることがよくあるヨーロッパ映画に近い感じだ。多分,ハリウッドがリメイクしたら,「兄の作る伝説のイタリア料理ティンパーノが話題になり,やがて兄弟の店は・・・」と,最後は全然違ったものになるんじゃないだろうか。

 そういう,余韻をたっぷりと残したエンディングの方が深みがあって好き,という映画好きなら絶対に観た方がいい佳作だが,結末がきちんとわからない映画はなんだか糞詰まりみたいで気持ちが悪い,という人にはかなり微妙な作品かもしれない。私は,こういうエンディングもありと思うが,この兄弟とそれぞれの恋人との結末だけは知りたかった気がする。


 舞台は1950年前半頃と思われるアメリカはニュージャージーの田舎町。アメリカンドリームを聞きつけて,一旗揚げようと2年前にイタリアからやってきた兄弟(プリモとセコンド)はイタリアン・レストラン「パラダイス」を経営していた。兄のプリモがシェフ,弟のセコンドがギャルソン兼マネージャーと役割分担をしていたが,プリモは職人気質の頑固な料理人であり,イタリアの伝統の味にこだわって決して妥協しようとはしない。そのため,ファーストフードに慣れたアメリカ人の舌には合わず,店には閑古鳥が鳴き,経営担当のセコンドの奔走にも関わらず,店は火の車だった。

 セコンドは金策のために,同じ街で大繁盛しているもう一軒のイタリアン・レストラン「パスカル」を訪れるが,そこで「パラダイス」の買収を持ちかけられる。兄弟の料理人の腕を買っていたからだ。そして,パスカルの経営者はセコンドに「私の店によく来る有名なジャズ・シンガーに,お前の店でパーティーを開くように連絡を入れといてやる。彼が店の味を気に入ったら評判になり,一発逆転できるぞ。兄弟の夢を諦めるんじゃない」と持ちかけ,セコンドはそのチャンスに賭けることにする。

 そして兄弟は全財産をはたいて食材を購入し,レストランを花で飾り,着々と準備し,新聞記者にあのジャズ・シンガーのルイ・プリマがやってくるから記事にしてくれと頼み,街の知人たちもパーティーに招待する。そしてついに,パーティー当日を迎える。

 夜8時からパーティーが始まり,食前酒が振る舞われ,皆は歌とダンスに興じるが,なぜか主賓のルイがなかなか来店しない。そこでプリモは主賓不在のままフルコースを始めることに決め,食卓に最初の料理が運ばれる。そして次々に運ばれる至高の料理に客たちは陶然とする。そしてあの伝説の料理「ティンパーノ」が客席に運ばれ・・・という映画である。


 とにかく,後半のパーティー会場に運ばれるティンパーノ(具を一杯に詰め込んだパスタの包み焼きらしい)をはじめとするイタリア伝統料理の数々に圧倒される。どれもこれも手が込んでいて,目にも鮮やかで,画面の向こうから素晴らしい香りが漂ってくる。そして,その料理を食べる人たちのなんと幸福そうなこと。一口食べる度にある者は歓声を上げ,ある者は陶然と目を閉じ,ある者は両手を挙げて神の味を賛美する。最後のデザートを食べ終えた若い女性が「今までママが作ってくれた料理って何だったのよ!」と泣き出す始末だ。

 繁盛レストラン「パスカル」の経営者は,「アメリカ人ステーキを食っていればそれで満足なんだ。奴らは本当の料理の味なんてわからない」と言っていたが,ハンバーガーとフライドポテトしか食わなかったはずのアメリカ人も,本当の料理の凄さには圧倒され襟を正すのだ。


 しかし,その凄さを知るには,それにふさわしい状況が必要だ。冒頭,レストランにやってきたカップルの女性客は「シーフード・リゾットなのにエビが入っていない」と文句を付ける。どデカいロブスターがゴロゴロと入っていなければシーフードではない,というわけだ。おまけに正統派のリゾットを作るには手間がかかり,客を待たせることになる。怒った客は「リゾットはどうでもいいから,ミートボール・スパゲティを持ってきて! ここはイタリアン・レストランだからミートボール・スパゲティくらいなら作れるだろう!」と言う始末。多分,当時の大多数のアメリカ人(・・・イタリアからの移民を除く)にとって,イタリア料理=ミートボール・スパゲティだったのだろう。

 しかし考えてみると、つい30年前の大多数の日本人にとって,「イタリア料理=スパゲティ=スパゲティ・ナポリタン」であり,ピザも知らなければ,パスタという言葉すらなかったのである。「スパゲティ・ナポリタン」という料理がイタリアにもナポリにもない「偽イタリア料理」だったことを知るのは,それから10年も後のことなのである。だから,当時の日本で「注文してから出来上がるまで1時間もかかる本格リゾット」を出す店があったって潰れてしまったと思う。日本で本格イタリアンの店が受け入れられるようになるには,それなりの下地と時間が必要だったのだ。要するに、アメリカにも日本にもそういう時代があったということだ。


 あの宴の後,兄弟がどうなったかは映画では描かれていないが,素直に解釈すれば,兄弟は破産してイタリアに逃げ帰ったか,「パスカル」に雇われたかどちらかだろうと思うが,多分前者だろう。料理店はリピーターをいかに掴むかに経営がかかっているからだ。一時の話題になったとしても,ここはニュージャージーの片田舎であり,あれほど手間と時間のかかる異国の料理を食べにくるリピーターはそれほど見込めないはずだ。同じアメリカでも,イタリアからの移民が多い街で開業するか,金持ちの多い大都会で開業するか,どちらかでなければ生き残れないはずだ。いかにプリモの料理の腕が良くても,田舎の町では立地条件が悪すぎるのである。

 もちろん,最高のイタリア料理を客に提供したい,味わってほしい,というプリモの情熱と誇りは十分にわかるのだが,それだって客からすれば単なる押しつけ,料理人のエゴである。伝統的イタリアレストランで「ミートボール・スパゲティを出せ」という客もエゴなら,「本当のリゾットしか料理は出さない」という料理人もエゴである。そこに気がついていたら,客の望む料理を出しながら,サービスのような形でシェフの作りたい本物料理を少しずつ提供する,なんてことも可能だったと思う。要するに,全く知られていない料理の店を出すならそういう工夫が必要だったと思う。

 プリモのやり方は音楽で例えると,「聴衆には最高の音楽しか提供しない」として,クラシック音楽を全く知らない相手に,バッハの『フーガの技法』,ベートーヴェン晩年の『弦楽四重奏』,ワグナーの『ラインの黄金』だけ聴かせるようなものである。これは絶対にうまくいくわけがないのだ。物事には順番というものがあり、いきなり最高峰を提供してもダメなのだ。


 この作品は観客に解釈を委ねた部分の多い映画であるが,それにしても,登場人物の真意がよくわからない点があった。「パスカル」の経営者は最初から「パラダイス」を潰そうとして嘘をついたのか,それとも別の意図もあったのかがよくわからないし,彼が自分の妻が○○らと浮気をしていたことに気がついているのかも不明だ。また,ガブリエラがセコンドの恋人に対する気持ちも何だかよくわからない。もちろん,これらは想像はつくのだが,幾通りにも解釈できてしまって困るのである。ストーリー上,導かれる結論が一つのみだったら「後は皆さんが想像してください」というのはありだと思うが,結論が複数あってどれか決められない場合は,作り手側がその結論を仄めかす程度でいいから示すべきではないかと思う。

 それと,どうでもいいことだが,パーティーでメインディッシュが供される前に食前酒やその他の酒が振る舞われ,きれいに整えられたテーブル席の周りで踊るシーンがあったが,ほとんどがへべれけ状態になっていて,テーブル席に倒れて滅茶苦茶にするんじゃないかと,観ていてハラハラして落ち着かなかった。というか,あれほど飲んだくれていて,きちんと料理の味がわかったのか,そもそもコース料理をきちんと食べられたのか,それが不思議だった。やはり,欧米人の胃袋は私の胃袋(=お酒が入るともうあまり食べなくてもいいし,そもそもそんなに食べられない)と根本的に作りが違っているようだ。


 それにしても,プリモと花屋の店員さんの恋は成就したんだろうか? セコンドと若い恋人の仲はどうなるんだろうか? それが今でも気がかりでしょうがないのである。

(2011/08/02)

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