《オーケストラ!》★★★★★ (2009年,フランス)


 ラスト15分間で演奏されるチャイコフスキーの『ヴァイオリン協奏曲』に圧倒される。最初見た時はあまりの感動に涙でグショグショになり,全てが終わった後,もう一度,心を落ち着けて最後の15分間を見直したが,それでも涙がこみ上げてきた。

 ちなみに,この映画には元になった実話があるらしい。2001年,ボリショイ交響楽団を名乗る偽オーケストラが香港でコンサートツアーを行った,という話である。これを元にした脚本が映画監督の元に持ち込まれたと言うが,彼はその脚本に飽きたらず,骨組み部分のみ残してこの感動的な作品に昇華させたらしい。


 かつて,天才指揮者として世界的に有名だったアンドレイ(アレクセイ・グシュコフ)は,指揮者の仕事を奪われてボリショイ劇場の掃除係をして糊口をしのいでいた。1980年,最高権力者ブレジネフ書記長がユダヤ人排斥制策を打ち出し,オーケストラの楽団員からもユダヤ人解雇するように命令が下ったが,アンドレイはそれに反対したためだった。そして同時にオーケストラの団員たちも全員解雇されてしまった(ちなみに,1980年頃,ボリショイ交響楽団からユダヤ人楽団員が解雇され,それに反対した指揮者までクビになるという事件が実際に起きている)

 だがアンドレイは,劇場総支配人の部屋を掃除している時,一通のパリからのファックスが入ったことに気づく。パリの劇場で2週間後に予定していたロサンゼルス交響楽団の公演が急遽中止になったためボリショイ管弦楽団に出演してもらえないか,というものだった。アンドレイはそのファックスを見て,かつての仲間たちを集めて偽オーケストラを結成し,パリで演奏するというとんでもない計画を思いついてしまう。今やらなければ自分が指揮台に立てるチャンスは永久にない,と,彼は救急車の運転手をしているかつてのチェリストに計画を打ち明け,かつて楽団のマネージャーでありアンドレイに煮え湯を飲ませた男にも打ち明ける。彼は敵だったがフランス語が堪能で,何より交渉のプロだったからだ。そしてこの男も計画に一も二もなく飛びついてくる。

 アンドレイはかつての仲間たちに声をかけ,何とか60人を確保する。ビザ申請(当時のソ連から海外に出国するにはビザが必要だった)の時間がないためビザを偽造し,楽器を調達し,何とかフランスに旅立つことができた。

 アンドレイが演奏曲目に選んだのはチャイコフスキーの『ヴァイオリン協奏曲』であり,それは1980年の指揮棒を折られた時に演奏していた因縁の曲だった。そして,彼がソリストに指名したのは若きヴァイオリニストのアンヌ=マリー・ジャケ(メラニー・ロラン)。かつて天才といわれ,忽然として音楽会から姿を消した指揮者アンドレイからの指名をジャケは受諾するが,彼女はなぜ自分なのかを知らなかった。アンドレイにはある秘密があったのだ。

 だが,公演前日,オケ団員はリハーサルにやってこない。彼らは30年ぶりにロシアから出られた嬉しさから,あるものは羽を伸ばして遊び呆けて,あるものは持ち込んだキャビアを売って一儲けをたくらんでいたのだ。一方で,劇場側は「あの伝説の指揮者,アンドレイが30年ぶりにボリショイを指揮!」と大々的に宣伝し,チケットは即日完売の人気だった。

 そしてついにコンサート当日を迎えるが,団員の行方は杳として知れなかった。そこでチェリストは団員の携帯電話に短いメールを送った。そこには「レアのために集まってくれ!」と書かれていた・・・という映画である。


 楽器演奏を真面目にやったことがある人ならわかると思うが,音楽の神が降臨する神懸かりの一瞬というのがある。この映画はそれをまさにその瞬間を描いたものだと思う。チャイコフスキーのコンチェルトの最初のオーケストラ部分の演奏はひどいものだ。音程ははずすし,音色もバラバラ。素人楽団か,というほどひどい。

 だが,ヒロインのヴァイオリン・ソロが入った瞬間,楽団員は気づいたのだ・・・彼女が誰の娘かということに。そして楽団員たちはジャケのヴァイオリンに引きずられるように本来の音色を取り戻していく。もうこうなると,「30年のブランクのある楽団員が集まっただけのオーケストラが,リハーサルなしでチャイコフスキーが演奏できるわけないだろう!」なんて言うのはヤボと言うものだろう。あの瞬間,音楽の神が降臨したのだ。音楽の神が偽ボリショイに手を差し伸べたのだ。それでいいではないか。


 まず何より,アンヌ=マリー・ジャケ役のメラニー・ロランが素晴らしい・・・いや,素晴らしすぎる。彼女は4ヶ月間,ヴァイオリンの特訓を受けてこの映画の撮影に臨んだということだが,右腕のしなやかな動きにしても左手指の細かい動きにしても実に見事なものだ。映画の中の演奏はプロのヴァイオリニストの演奏を使ったと思われるが(クレジットに名前がないので定かではないが,わずか4ヶ月の特訓でチャイコフスキーが弾けたら空前絶後の天才である),観ていてほとんど違和感はなく驚くしかない。それにもまして彼女はステージの立ち居姿が美しく,ステージに立っているだけでもオーラが画面から溢れ出ていて,ステージに立っているだけで絵になっている。

 ジャケは「あなたの両親はあなたが小さい頃,飛行機事故で死亡した」と聞かされて育てられてきた。だが,彼女の両親はある事件が原因で強制収容所送りとなり,そこで死んだのだ。彼女はもちろんそのことを知らない。だが,彼女はこの演奏会で,母親の演奏する「至高のチャイコフスキー」を追体験していく。強制収容所で母親がチャイコフスキーのカデンツァを演奏するシーンが,ジャケの演奏するカデンツァと重なる。30年の年月を越えて,二人のヴァイオリニストの魂が共鳴し,母から娘に音楽という「命」が受け継がれていく。カデンツァの最後を告げる高音トリルを演奏する母親の細やかな指の動きが娘の演奏するトリルに引き継がれていく。そんな彼女を指揮者とオケの団員が優しく包み込んでいく。彼らがかつて守れなかったヴァイオリニストの遺児を,今度は団員たちが守っていく。そしてヴァイオリニストとオーケストラが演奏するチャイコフスキーは至高の高みに向かって限りなく上昇する。


 団員がなかなかやって来ない前日リハーサルで,ジャケの前で救急車の運転手が静かにチェロを弾くシーンもいい。その音の美しさにジャケはチェリストの実力を知る。プロはプロの実力を知り,真の才能には敬意を払う。そんなジャケにチェリストは言う。「俺はオーケストラの中で一番下手なんだ。だからリハーサルが必要だ。でも,他の皆は俺より遙かに巧い。だからリハは要らないんだ。心配しなくていい」・・・と。

 同様に,コンサートマスターがジャケの前でジプシー・ヴァイオリンを演奏し,呆れ顔の彼女の前でいきなりパガニーニの『カプリース第24番』の主題と第1変奏を演奏するシーンもスリリング。第1変奏の最初の小節でジャケの顔色が変わるのだ。第1変奏が終わり,コンマスは「俺は泥棒じゃないからヴァイオリンは返すぜ」と言うと,ジャケは「どうやってダブルフラジオレットのアルペジオを弾いているの? どんな指使いなの? 私にはとても弾けない」と驚嘆する。だが,コンマスは「おい,アンドレイ,この女は一体誰なんだ?」と取り合おうともしない。パガニーニなんて弾くのは簡単だし,別に大したことじゃないさ,というコンマスの姿勢が最高に格好いい。ピアノで言えば,ジャズを軽やかに弾いた後,いきなりショパンの「練習曲 Op.10-2」や,ブラームスの「パガニーニ変奏曲」の両手のダブル重音トリルを正確かつ高速で弾き始めるようなものだ。


 この映画の背景状況は,米ソ冷戦と,当時のソビエト連邦(ソ連)を知らなければ理解しにくいかも知れない。例えば,当時のソ連のジョークに次のようなものがあった。

アメリカのジョージ「アメリカではホワイトハウスの前でニクソンのクソ野郎と叫んでも逮捕されないぞ」
ソ連のイワン「それならソ連も同じだ。赤の広場でニクソンのクソ野郎と叫んでも逮捕されないさ」

 要するに,当時のソ連ではブレジネフ書記長の悪口を一言しゃべっただけで強制収容所送りだったのだ(このあたりは,北朝鮮で金日成と金正日の悪口を言ったらどうなるか,というのと同じだ)。アンドレイと楽団員たちがユダヤ人演奏家を養護しただけで失職し,音楽家としての地位も失ったが,それが当たり前だったのが旧ソ連なのである。仲間を助けようとしただけで職業どころか,人間としての尊厳まで奪われる世界だったのだ。


 それがわかると,「理想のチャイコフスキー」を演奏するためにユダヤ人ヴァオイリニストとの競演を強行しようとしたアンドレイがどれほど危険で無謀なことをしたのかがわかるし,彼の指揮棒をへし折ったマネージャーも他に選択の余地がなかったことがわかる。生き延びるためには何かを捨てなければいけない世界であり,その「捨てなければいけないこと」には尊厳・誇り・友情が含まれていたのである。

 そんな負け犬たちが,チャイコフスキーの演奏を通して,尊厳と誇りを取り戻していくのだ。だからこそ,彼らが演奏するチャイコフスキーは誇り高く,凛々しかったのだ。これに涙しない方がおかしい。


 そして,この映画のもう一つの主役ともいうべきものはチャイコフスキーの『ヴァイオリン協奏曲』,とりわけ第1楽章の第1主題だ。なんと優美で,勇気と意志に満ちたメロディーだろうか。ある時には叙情的に,ある時にはポロネーズ風のリズムを伴って決然と,そしてある時は傷ついた心を慰撫するように歌われるこのメロディーの,なんと美しく素晴らしいこと! 希代のメロディーメーカーたるチャイコフスキーの面目躍如たる名旋律である。

(2011/08/19)

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