この映画は「カラヴァッジョ好きの,カラヴァッジョ好きによる,カラヴァッジョ好きのための」映画である。だから,「カラヴァッジョの絵が大好きで画集も持っていて,主要作品なら一瞥しただけで絵のタイトルが言える」レベルの絵画好きにとってこの映画は至福の作品だろう。しかし,「カラヴァッジョって名前くらいは知っているけど・・・」という人がこの映画を見たら(・・・カラヴァッジョがどんな人かも知らない人はそもそもこの映画を見ないと思うが),多分,何がなんだかよくわからないと思う。人物像も時代背景も一切説明がないからだ。この映画はイタリアの2回シリーズのテレビ向け映画で,それを劇場用に仕立て直した作品らしいが,最初からカラヴァッジョのことをよく知っている人を対象に制作されたのだろう。その意味でこの映画は「観る人を選ぶ」映画であり,決して不特定多数の観客が楽しめるように作られた映画ではない。
ちなみに私はカラヴァッジョのことを『フェルメールの光とラ・トゥールの焔』,『裏側から見た美術史』という2冊の本で初めて知ったが,最低限,そのくらいの知識は必要だと思う。
舞台は16世紀のイタリア。若き画家ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョはパトロンのコロンナ伯爵夫人の庇護のもと,持ち前の驚異的描写力と超絶的技巧で次第に頭角を顕していく。現実の人物をモデルにし,光と陰の強烈な対比で人間の心理まで見事に描く彼の斬新な宗教画は驚きをもってローマ市民に受けいれられ,またたくまに売れっ子画家となった。しかし同時に,娼婦や労働者をモデルに聖人を描く彼の画風に当時の画家たちは激しく反発した。
だが一方で,カラヴァッジョは粗暴な性格であり,「2週間で絵を仕上げ,その代金で2ヶ月飲んだくれる」ならず者だった。酒に酔っては乱闘騒ぎを起こし,ついには決闘で人を殺してしまい死刑判決を受ける。すんでのところで彼は逃亡し,友人やパトロンの奔走もあってローマ教皇の恩赦を受け,後にマルタ騎士団に入団するが,そこでも乱闘騒ぎを起こしてしまい騎士団から追放される。
放浪の生活の中で彼は次々に傑作を完成させていくが,彼は常にローマに戻ることを願っていた。そんなある日,彼の元に教皇から恩赦の知らせが入り・・・という映画である。
この映画を見るとこのカラヴァッジョ(1571〜1610)という画家は,絵を描いているか喧嘩をしているかだけのように見えるが,実は彼の実像はもっとひどかったらしい。
例えば,カラヴァッジョ研究家として有名な宮下規久朗氏は『裏側から見た美術史』の中でこの映画を取り上げているが,「(この映画は)恋と芸術に生きた真面目な二枚目の画家としてカラヴァッジョを描いている。しかし,彼は破滅的で人格が破綻しており,傲慢でありながら小心なならず者であった」とまで書いている。あるいは『フェルメールの光とラ・トゥールの焔』では「元来粗暴な性格で,この画家についての記録は,作品注文に関わるものよりも警察や裁判に関する物のほうが多く,暴行傷害,警官侮辱,器物損壊などを繰り返し,しばしば投獄されて刑務所の常連となった」と書いている。カラヴァッジョ研究者がカラヴァッジョの人間性を全面否定しているのだから,もう救いようのない悪党なのだろう。要するに,昔風の言い方をすればゴロツキ,与太者,愚連隊であり,要するに「絵が異様にうまいゴロツキ」なのである。
実際,この映画にあるように1606年(35歳)の時に街のチンピラグループに因縁をつけて4対4の決闘をおっぱじめ,そのうちの一人を刺殺している。彼はすぐにローマに逃亡するが直ちに死刑判決が出され,「誰でもいいから見つけ次第カラヴァッジョを殺してよし! こいつを殺しても罪に問わない」となったらしい。いくら17世紀といっても一人殺したくらいでは「誰でも見つけ次第殺してよし!」とはならないだろうから,よほどの悪党にして累刑犯なのだろう。そのため,彼が死ぬまでの4年間,逃亡生活を続けることになったが,自業自得である。
そういう人殺しの手が,神々しいばかりに荘厳で敬虔な宗教画や,驚くばかりに精緻で静謐な人物画・静物画を産み出したのだ。もちろん,芸術家本人と彼の作品は別物であり,最低の人間が最高の作品を創造するのは珍しくないが(例:作曲家のワグナー,画家のラ・トゥール),ここまで極端なのはやはり珍しいと思う。
それにしても,カラヴァッジョはすごいのだ。何しろ彼は1600年はじめまでローマで隆盛を極めたマニエリスムという絵画様式(ミケランジェロやラファエロを範とするルネサンス後期の技巧的な様式)を一人で幕引きし,「バロック様式」絵画の先駆けとなったのだ。つまり絵画の世界では,カラヴァッジョ以前の時代がルネサンス,カラヴァッジョ以後の時代がバロックなのである。彼の新しい様式の絵画に反発する同業者は多かったが,彼が新しい作品を発表するたびにローマ中がその話題で持ちきりとなり,同時に彼のスタイルを模倣する若い画家が続出し,彼らはカラヴァッジョ派と呼ばれていたというのだから,桁外れの超弩級の影響力である。それほど傑出した能力を持つ画家だったのだ。
例えば,次の『聖マタイの召命』を見てほしい。
次の『ロレートの聖母』は私の好きな作品だ。
この映画を観ると,カラヴァッジョが実際のモデルを使って絵を作成している様子が描かれている。彼は徹底して現実の人物に拘っていて,恐らく,聖母のモデルが公爵夫人だろうと娼婦だろうとどうでもよかったのだろう。映画の中で彼は「聖人といえども,私たちと同じ人間だ!」と叫ぶシーンがあったが,これこそが彼の信念だったのだと思う。だからこそ逆に,「聖母子や聖人は(頭で考えた)理想像を描くべきである」という伝統を守る画家たちから激しい反発を受けたのだ(その様子もまたこの映画では何度も描かれている)。
絵画を題材にした映画として,この映画の映像はほぼ完璧といえる。光と影の苛烈な対比はまさにカラヴァッジョ的だし,特に窓から差し込んでくる光は神々しいばかりに神秘的で,その光に神の啓示を感じとるカラヴァッジョの姿は感動的だ。また,映画の登場人物の顔がカラヴァッジョの作品中の人物と重なり,それが別の作品の人物に変わり,さらに映画の別の登場人物に重なるシーンはまさに圧巻だ。このシーンだけでも観る価値があると思う。
カラヴァッジョの絵の下書きは残されておらず,彼は下書きなしにいきなりキャンバスに絵を描いたと考えられているが,この映画でも「下書きなし」で描き始める様子が描かれていて非常に興味深い。あの完璧な構図を下書きなしに一発勝負で決めていたというのはやはり凄いと思う。
とは言っても,この映画を予備知識なしに鑑賞するのは絶対に無理だ。この手の映画の常として,映画の作り手はどうしても「この映画を観る人はカラヴァッジョについての知識がある人だけ」と考えてしまうため,彼が生きた社会や時代の背景,さらには人間関係が説明不足になりがちだからだ。
例えば,当時の絵画は一人の絵描きが描くのでなく,工房で大人数の合作で作られていた,ということを知らないと,彼が最初に工房で親方に「花を描け」と言われてぶつくさ言うシーンの意味がわかりにくいと思う。また,映画の中で何人も登場する「娼婦」はいわゆる「売春婦」とは別物だよ,という知識がないと,娼婦が枢機卿(?)にカラヴァッジョの恩赦を提案する意味がわからなくなる。当時の高級娼婦は文化人の集うサロンを主催するなどしていた文化の担い手だったのだ(・・・もちろん,王侯貴族や枢機卿の愛人でもあったが)。同様に,当時のヴァチカンはスペイン派の枢機卿とフランス派の枢機卿が激しい勢力闘いをしていて,それがこの映画の背景の一つにもなっているようなのだが,そういう説明なしに枢機卿同士の闘いが描かれているため,これまたわかりにくい原因となっている。
このように「画家をモデルとした映画としてはほぼ完璧だが,一般的な映画としては問題が多い」映画である。だが,この映画の圧倒的な映像美を堪能するためにカラヴァッジョについて勉強するのも一興だし,その努力に応じた感動が得られる作品であることは間違いない。
(2012/01/06)