《彼女が消えた浜辺》★★★(2009年,イラン)


 イランは実は中東の映画大国と言うことで,かなりの数の映画が作られているそうだが,何しろ政治と宗教がああいう事情だから一部の作品(=政治ネタ,宗教ネタに引っかからないもの)だけが国外に紹介されているらしい。そういうわけで,私が生まれて初めて見たイラン映画がこの作品である。

 で,どういう映画かというと,身も蓋もない書き方をすると「善意の人が善意から嘘を言い,それがバレてアタフタする映画」となる。もちろん,その嘘は人を傷つけようという意図は全くなく,誰かを幸せにしたいとか,他の人の名誉を傷つけたくないとか,何となくこの場が丸く収まって欲しいとか,そういう「善意から出た嘘」なんだけど,何しろガチガチのイスラム社会なもんだから,それらがイスラム社会の建前とガチでぶつかっちゃう訳よ。そこで一悶着も二悶着もあるわけだ。

 そういう状況に置かれた人間の悲しいばかりの姿を迫真的に描いた作品といえるのだが,ではこういう状況がイラン以外の社会でも起こるのかというと,ちょっと違うよなぁ,という気がするのだ。同様の出来事は日本とかアメリカでは起こる可能性はなく,この映画はあくまでも「イラン限定」じゃないかという気がする。そのあたりが,何とも隔靴掻痒なのである。

 もちろん,非常に優れた映画だと思うし,イラン以外の国では絶対に作れない視点の映画であることは間違いないが,「イランという国に暮らす人々の様子を克明に描いた優れた映画だから褒めないといけないよね」という優等生的建前がどうしても入ってしまうのだ。要するに,「あのイランで作られた映画だから・・・」という気分でどうしても見てしまい,評価は上げ底になってしまうような気がする。


 映画は3台の車の様子から始まる。8人の大人と3人の幼い子供の組み合わせで,3組の大人は夫婦で,1組はどうやら初対面らしい。彼らはこれからカスピ海沿岸のリゾート地に向かっているようだ。しかし,予約していた部屋は手違いから1日しか泊まれないという。3泊旅行を計画していた彼らは,海に近い古い別荘に泊まることにする。

 旅行を計画したのはセピデー(ゴルシフテ・ファラハニ)で,彼女は親戚(?)の男性,アーマドにガールフレンドを紹介しようと計画していたのだ。アーマドはドイツ人女性と結婚したがつい最近離婚してイランに戻ってきたばかりだったのだ。彼女が彼に紹介しようとしたのは,子供の通う保育園の保育士のエリ(タラネ・アリシュスティ)だったが,セピデーはエリに「独身男性と一緒の旅行」と言うことは内緒にして誘ったのだった。アーマドは若く美しいエリをすぐに気に入り,セピデーは二人をくっつけようといろいろ気を使うが,エリはなにやら困惑気味だ。

 そして翌日,大人たちがバレーボールに興じている最中に,一人の子供が血相を変えて走ってくる。兄が海で波に飲まれてしまったのだ。男たちはすぐに海に飛び込み,波間に浮かんでいる子供を見つけ,すんでのところで子供は助かるが,気がつくとエリの姿がない。エリは子供たちを見ていたはずだ。またも男たちは海に飛び込むがエリの姿はどこにもない。

 そして警察が到着したが,実はセピデーを含め誰一人としてエリのフルネームも自宅のことも知らなかった・・・という映画である。


 まず,この映画の状況を理解する大前提となるのが,現在のイランでは婚約前の男女が一緒に旅行するのは,たとえ他の同伴者がいても絶対に許されない,ということらしい。だから,セピデーは「子供連れの3組の夫婦の家族旅行」にエリとアーマドを紛れ込ませる形で旅行に連れ出す必要があったのだ。もちろん,その事実を第三者に知られるのは絶対にまずいので,別荘の管理人の叔母さんには「4組の夫婦だけど,1組は新婚ね」と嘘を言ったわけだ。当然,管理人は「新婚さんだけ別のお布団ね」とサービスをすることになる。

 そして,最初の晩に皆で食事をしたり,ゲームをして遊ぶシーンにしても,皆でエリとアーマドをくっつけようと色々と画策するのだが,エリにとってはどれも迷惑至極だったのだ。実は彼女には婚約者がいたからだ。

 エリには数年前からつきあっている男性がいたが,どうやら彼女は彼と別れたがっているが,どうやらイランではそれを女性から言い出すこと自体が御法度らしい。だからエリはそれをセピデーに隠しているわけだ。エリは元々旅行に乗り気でないが,世話焼きのセピデーに押し切られる形で「それほどいうなら1泊なら」と参加しただけで,最初から3泊する予定はないのである。でも,セデピーにそれは言えないから,ちょっと嘘を言うしかなかったわけである。

 一方,「この旅行はアーマドとエリをくっつけるための旅行」であることを知っていた他の6人は「3日も一緒にいれば好意を持つよね。1日じゃ無理だけど」と考えていて,何とかエリを帰すまいと画策し,ちょっとずつ嘘をついたりするのだ。


 このような「小さな嘘の積み重ね」がエリの失踪という現実の前で破綻するのだ。そして,皆の「善意の小さな嘘」が次第に明らかになっていき,人間関係はグチャグチャになりかけてしまう。このあたりの容赦ない描き方は見ていていたたまれないくらいだ。

 そして,エリ自身にも謎があり,後半に登場するエリの婚約者にも謎がある。この男は最初「エリの兄」と名乗っているのだが,なぜ彼がそんな嘘をつくかがよくわからない。電話でほぼ反射的に「私はエリの兄です」と名乗ったとすると,この婚約者は日常的に「エリの兄だ」と名乗っている可能性が強い。となると,この人物も実は嘘をついて暮らしていることになる。

 同様に,エリの母親も娘の失踪を告げられたのにあまり動揺していないようだ,と説明されているため,「エリの母親」が「本当のエリの母親」かどうかも不明だ。エリがどうなったかは映画の最後に明かされるが,うがった見方をすると,これだって本当にエリだったのかわからないのである。なんだか,最初から最後まで全部嘘で固めた映画ではないかという気さえするのである。


 そういえば,エリ失踪の知らせを受けてエリの婚約者が登場する,というのはさすがに無理ではないかと思う。もちろん,エリの携帯電話が残されているのだから,自宅の電話番号は明らかだし,何より,エリが働いている保育園に連絡すれば彼女の自宅,連絡先はすぐにわかるはずだ。もちろん,「母親は心臓病でショックを与えたくない」という理由付けをするという設定があるとはいえ,失踪事件をいつまでも母親や家族に隠しておけるわけはないと思う。いくら3家族が隠したとしても,保育園から彼女の母親に「ずっと欠勤してますけど,病気ですか?」くらいの連絡は入るはずだ。このあたりの不自然さは最後まで気になった。

 同様に不自然と言えば,エリという名前と保育士という職業しか知らない女性を,離婚したばかりの知人に紹介するというのも不自然だ。紹介するなら,もっと相手のことを調べるのが普通じゃないかと思う。出会い系サイトで相手を捜すんじゃないんだから・・・。


 この映画はイラン本国で2009年の興行成績第2位という大ヒットとなったらしいが,これほど笑いとも涙とも無関係で,逃げ場のない情け容赦のない内容の映画がヒットしたこと自体が,ちょっと信じ難いのだ。こんな,嘘つきしか登場しない映画に多数の観客が詰めかけたのは,なぜなんだろうか。それはもしかしたら,「皆が少しずつ嘘を言うことで何とか保たれている」のがイランの社会だからではないだろうか。

 例えば,最初の晩にみんながジェスチャー・ゲームに興じるシーンは「男性優位のイスラム社会」のルールが全面に出ているし,女性が全てスカーフ姿で男性はスカーフを被っていないというのも,第三者から見るととても不思議な光景だ。結婚前の男女が同じ車に乗るなんて許されない,なんてのもそうだ。もちろん,イスラムの教義がそうなっているとか,社会の慣習がそう決まっているとか,イスラム女性とはそうやって暮らすものだ,と説明はつけられると思うし,イラン国民みんなが納得して慣習化しているのかもしれない。しかし,「イスラムの教えだからそれに従っているだけで不満はないです」と言うのであれば,私からするとすごく嘘っぽいのである。


 イランが厳格なイスラム国家になるのは1979年のホメイニ革命(イラン革命)からである。それまでのイランを治めていたのはパーレビー(パフラヴィー)王朝であり,西欧風のかなり自由な世界だったが,原油価格の下落による経済の低迷と,急激な近代化による歪からホメイニがイスラム革命を叫んで先頭に立ち,およそ50年でパーレビー朝は崩壊したわけだ。

 もしも当時のイランに私がいたとしたら,とにかく「パーレビー国王でなければ誰でもいい。パーレビー王朝でなければどんな政府でもOK」という気分だろうから(このあたりは,「自民党政権でなければどの政党でもいいや」という気分で民主党に投票した2009年の私達と同じだろう),ホメイニ師が考える「理想のイスラム国家」がどんなものかもよく知らずにホメイニに賛成したはずだ。そしてイスラム革命の後も他の選択肢があるわけでないからとりあえずは「ホメイニ革命万歳」と叫んだかもしれない。つまり,一人ひとりにとってそれは「小さな嘘」だ。

 何しろパーレビー王朝下のイラン国民は欧米同様の自由を享受していたのだ。それがいきなり「イスラム原理主義国家」である。多分,大多数にとっては「パーレビー国王には出て行って欲しいが,イスラム馬鹿国家になるとは聞いてないよ!」状態だったのではないだろうか。しかし,他に選択しがないからとりあえずは「イスラム最高! イスラム原理主義国家になってよかったっすよ」と「嘘」を言うしかない。私がこの時期のイラン国民だったら絶対にこういう「嘘」をつく。

 しかし,小さな嘘も集まれば社会の規範,国家の常識になる。そして,とりあえず何かあったら「嘘」を言って表面を取り繕うのが常識になる。この映画が描いているのはそういう社会ではないかと思うのだ。


 ちなみに,セピデー役のルシフテ・ファラハニ,エリ役のタラネ・アリシュスティはどちらも素晴らしい美貌の持ち主でオーラでまくりであるが,ファラハニはハリウッド映画に出演したことからイラン当局から反国家的・反イスラム的と睨まれ,現在はパリで亡命生活を送っており,この作品がイラン本国で撮影した最後の映画となったそうである。

(2012/03/06)

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